世界文化社の 『明治維新と文明開化』 で読んだ内容から。
明治天皇が若い日の 「相撲事件」 の逸話から。 晩餐で、片岡侍従に 「わが日本も、これからは法律で治めねばならぬ」 と仰せられました。 片岡侍従が黙っていると、「どう思う、意見を述べろ」 と言われました。
片岡侍従の答えです。 「恐れながら国家を治める大本は、道徳にあるかと存じます」 。 すると天皇は 「いや、それは昔のことだ。いまの世に道徳などは何にもならぬ」 と仰せられ、議論となってしまいました。
逸話としては、この後に、陪食していた山岡鉄舟に対して明治天皇が相撲を仕掛けて…、と続くのですが。
維新前後の、価値観や考え方について考えさせられました。
欧米から入った、法律という新しい概念に対する憧れと期待。 日本の諸法度や家訓の持つ精神的な要素に対して、欧米の法律は厳然としていたのでしょう。 仰ぎ見るような、初々しい憧れを感じます。
一方で、『大本は道徳である』 という信念を持っている時代でもありました。 大本が複数存在しては混乱してしまいます。 唯一、道徳にのみ置いてきたのが日本人だと言っているのでしょう。
法律と道徳。 どちらが大本になるべきか。 難しい質問ですね。 明治初期の頃は、『道徳』 は当たり前のことだったのかも知れません。
しかし、最近は 『法を犯しさえしなければ、なんでもアリだ』 という判断で金儲けにだけ奔走する事例を見ると、法律に委ねるには違和感を感じます。
ライブドア、村上ファンド、何とか還元水… 「法に照らして、何がいけないのか?」 「合法に処理しているから問題無い」 官民ともに変ですね。
法の隙間を突くような行為では、「国の大本は法律なり」、と語ることはできません。 『教育が進めば進むだけ人々は悪がしこくなり…』 と丸山先生が指摘された通りの世の中になっているようです。
一方で、『道徳』 という概念の曖昧さや分かり難さは、基準にし難いとも言えます。
私どもは、倫理を 「万人幸福の道」 として実践しています。 しかし、私は、国の大本という話になると、それが倫理であるとまでは言い切れません。
今回、「国の大本」 を、政策上の問題で決めるものではないという事を考えさせられました。
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