倫理運動の創始者・丸山敏雄先生は『朝起きの実践』を次のように書かれています。
『そうした修行の頂点、私が一番力をそそいだことは、朝起きの練習であった。目が覚めたらさっと起きる。床をけってさっと起き上がる。それから時計を見る。「時計を見て起きるようではいかぬ。早過ぎたらあらためてまた休め、目の覚めるという事は必ず必要があって覚めるものだ」と。こうして一分のすきもない、一秒の遷延もない実践の生活を続けた。こうして、宵であろうと夜半であろうと、目が覚めたら必ず起きるという事を続けて、とうとう、「人の目というものは必要な時に覚めるものだ、それで起きようとすればいつでも起きられるものだ、時計より人の目の方が正確だ…」という事をはっきりと悟得した』(歓喜の人生四頁)
これが朝起きの実践、と。
私が倫理を学んで最初に取り組んだ実践です。実践していると決心で起きられるようになってきます。目覚時計も要りません。
豊前市MSに行くときは朝2時半に起きます。前夜は念のため目覚時計をセットするのですが鳴る前に起きています。思い返してもしばらく目覚時計の鳴る音を聞いていません。
気軽にサッと実践。あまり力みかえると続かない。「さぁ今朝は朝起きだぞ」と起床。翌日にも「さぁ」と起きます。同様に「いまここ」で禊を続けて4年半になりましたが何かの気付きの感覚を持っていても何なのかは分かりません。途上なのでしょう。
朝起きとは別に『早起き』があります。早朝の定刻に起床する。続けることで何かを得るに違いないのでしょうが、朝起きの実践とは異なります。
丸山敏雄先生は書中で続けられています。
『しかし、朝起きだけではなかった。生活の一切がすべて、その時々に片づけられていく。そして今日の事は必ず今日のうちにしてしまう。これを続けていると、瞬間瞬間がことごとく働きである。何もしない時がない。それでその時以外に時がない。ただ瞬間に生きている。それで永遠に生きている。昨日もない、明日もない。いつも働いているので、はたらきでない時がない。…人生は働きである。はたらきそのものが、恵みであり、報酬である。……こうしたことが生活の全面にひしひしと響いてくることになった。そして、その瞬間、気がついた時、これがその仕事をしとげるに一ばんよい時、他のいかなる時よりもつごうの良い時、最良のコンディションにあることが、ありありと分かるようになってきた。』(歓喜の人生四~六頁)
私の『朝起きの実践』は、とても丸山敏雄先生の境地には到達しえません。無心に虚心坦懐に実践を続けていくのみです。