マンション管理士日記

地域を守る:マンションと地域の融合

新聞考 ③

2012年07月31日 | 喜働

同書のなかに、『歴史の目撃者』 という表現が出てきます。

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1970年代の中国、北京常駐の日本人特派員が ついに朝日新聞だけとなります。

「特派員維持のために、本当のことを書いていない」 「中国べったりだ」 といった朝日新聞への批判が強まります。

日本新聞協会主催の座談会において、こんな問いかけが出ます。 「中国国内を自由に取材できないような環境のなかで いつまでも取材活動を続ける必要があるのだろうか。 言論の自由のないところに特派員を出して何の意義があるのだろうか」

この反論として持ち出されたのが、『歴史の目撃者』 論。 

同書では、朝日新聞社 社内には不満があっても、異論や意見具申は大きな声にならなかったと続けます。

あるデスクの言葉。 「(社論を)明文化した指示とか通達はなかったが、(中国の)支局閉鎖や特派員追放を避けるため、こうしなくてないけないといったような 『空気』 のようなものが編集局を包んでいた」

80年代に入って、「『中国報道の偏向』 をうんぬんされるようになった原因は、出先ばかりでなく本社側にも中国当局の機嫌をそこねないことだけに神経を使う空気が強まった結果だ」 と社内文書に書かれたそうです。

これを受けた指摘。 「当時本社は、『日中国交の正常化を急ぐべし』、そして中国は一つとの立場から 『台湾との断交もやむなし』 という社論を掲げていた ・・・ しかし、そのことと事物の客観的かつ公正な報道をすることとは峻別すべきものであり、前者のために後者をゆがめるようなことは断じて許されない、その点に混乱があった」

戦争に突入していく際の報道の在り方について、本当に反省がなされたのか疑わしい姿勢だと断じざるを得ません。

さらに、「批判的な総括は社内だけにとどまり、社外(読者)への説明は ・・・ 90年代まで持ち越された」 と続きます。

こうした 総括を踏まえ、今の報道が 公正なものとなっていることを切に願います。

 

権力は腐敗する。 故に監視の目がなければならないから。 権力監視というジャーナリズムの役割に期待するから。 難しい役割なので 客観性を失ってはならないから。

K氏 が御存命であれば、色々な質問をさせて頂きたかったというのが、私の読後感です。

きっと、私の拙い視点と論点を喝破されたことでしょうけど

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新聞考 ②

2012年07月30日 | 喜働

1930年の ロンドン軍縮会議後、議会における政友会の 『統帥権干犯』 発言に対して、朝日新聞は厳しく的確な論説などを掲載しています。

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   政友会は 「兵力を決めるのは軍部だ」 と主張し、軍部に対する政治の優位をみずから否定し ・・・ 党利党略に走った行為 ・・・

   国際関係を見極め、国民負担を考えて国防の事を決するのが立憲政治にあっては内閣の責務

   政党内閣制が漸く固まらんとする今日、かかる時代錯誤の主張が ・・・ 第二党たる政友会によりて支持されることは、徒に軍閥の優位を認めて二重政府の現存を対外的に暴露し、同時に政友会みずから その政党的生命を葬るものと いはねばならぬ

   兵を備ふることのみが国防ではない ・・・ 国民負担の軽減 それ自身 国防の充実に外ならぬ

   軍備縮小は軍部当局の要求ではなくて、陸海軍に対する国家的要求なのである。 はじめから軍人の仕事ではなくて、政治家の仕事なのである

ところが。

それが、1931年9月の満州事変勃発を機に 朝日新聞は軍事的行動追認へ論調を変わっていく。

行間からは。その理由は読み取れません。

度重なるテロとクーデター未遂事件が、言論界に与えた打撃は大きかった、と記されているのみです。

朝日新聞も その例外ではないのでしょう。

続けて、「軍人のプライドと国民の熱狂が暴力を容認するなか、新聞は抗する力を失っていった」 と書かれています。

1938年の 『国家総動員法案』 。 朝日新聞は当初、法案に否定的だった、とあります。 『当初』 とあるのは、途中から姿勢が変わったことを意味します。

その前年に始まった 『国民精神総動員運動』 の中央連盟理事に、朝日新聞を初めマスコミが名を連ねた、ということが理由の一つのように書かれています。

1940年には 『皇紀2600年』 で、事実の報道から 「神話の称揚」 へと軸足はうごいていた。 内閣情報局により報道規制は さらに強まり、記者は空疎な美文を競うしかない。

1939年、第2次世界大戦が始まる。 1940年7月には、「ドイツが圧勝した今日、『英米依存外交』 を脱して独伊と結ぶのは 『必然的運命である』 」 と論じられています。

1940年8月、朝日新聞は 日独伊三国同盟を支持する。 すでに 『言論の自由』 は死滅していた。 そう、文章は続きます。

その 9月17日に ベルリンで 日独伊三国同盟が調印された ・・・

 

何故?

と 後世の私は思います。

何故、言論の自由が死滅した段階で、朝日新聞は 発刊を止めなかったのか?

新聞にとって 事実を報道するという記事そのものが商品であるのなら。 統制された段階で、すでに欠陥商品となっているのです。 自社が提供しているものが 欠陥商品であるのに 提供を続けることは、社会的責任を放棄した行為と言えます。

私の 『何故?』 は 続きます。

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新聞考 ①

2012年07月27日 | 喜働

弊社で管理させて頂いているマンションの管理組合 理事長 K氏 が逝去されました。

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最後まで理事長の責務を全うされた、立派な方でした。

その方を偲びつつ ・・・

長く朝日新聞の記者を務められていた K氏 は、再生不能と思われた荒れたマンションの理事長になってから、多くの課題を 精力的に解決されていきました。 訴訟、未収金の回収、修繕積立金の改訂、大規模補修、実効的な理事会組織への改革。

こうした 『マンション再生』 の途上で、弊社は管理を受託して 一緒に課題解決をしてきました。

一方、仕事の合間に、記者だった頃の話や今の世相などについてレクチャーを受ける機会にも恵まれました。

そうした中で、朝日新聞 夕刊に 連載中だった 『検証・昭和報道』 について、その視点と分析を評価して、熱っぽく語られていたのを思い出します。

先日 図書館で、236回連載されたのち 2010年6月に刊行された 『新聞と「昭和」』 を見て、思わず手にしました。

朝日新聞は、戦争を止めることが出来なかったことについて、自らの記事を丹念に調べ、書き進めています。 客観的な分析であり、冷静な記述です。

しかし、それでも、「何故?」 という疑問に答えるものではありません。

むしろ、新聞の持つ恐ろしさを実感させられました。

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150回

2012年07月25日 | 喜働

今回、思い切って告白します。

私の初体験 は高校3年生。

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遅いほうですか?

わりと晩生なもんで

場所は、小倉にある某高校の中でした。

文化祭に彼女と二人で行って

・・・・・・ 

それが 初体験。 初めての献血でした。

今月、累計の献血回数が 150回に到達しました。

初体験以降は 数年に1回程度でしたが、住まいが献血センターの近くになってから 回数が増えました。 そうして、阪神淡路大震災。 それからは、ぐっと回数が増えました。

過去のブログを見てみると、創業した翌年(2007年)に 『献血回数が88回になった』 と書いています。

その頃、私の尊敬する O先輩が 既に 二百回近く 献血をされているということを伺い、嫌がっていた成分献血をするようになりました。 成分献血の場合は、2週間以上の間隔を取れば、再度献血が可能なのです。 

一ヶ月、元気に働くことが出来たことの御礼といて、毎月下旬に献血をするようになったのです。

だけど。

いつまで献血するんだろう?

いや。 そうじゃ ないですよね。

今月、『いま』 するか 否か。 それだけの事です。 いままで何回 献血したか とか、何回を目指して するか とか、そういうことでは無いと考えます。

すなおに、朗らかに、生かされていることに感謝して 僅かな恩返しをさせていただきます。

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黒崎祇園

2012年07月24日 | 家族

地元 黒崎では祇園山笠が 行なわれています。

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祭りを眺めながら街を ブラブラしておりますと。

家人から 「ちゃんと、挨拶したね?」

誰に   「いま、あっちの方から 会釈しよう人が おったやろ」

数分後。 「なんで 挨拶せんの?」 「知らんもん」 「何で知らんのね?」 「知らんもんは知らん」 「知らんでも、相手が挨拶したら わたしの知り合いなんやから、挨拶しとけばいいんよ

次々と家人の知人に会います。 たま~に、私の知人とも。

考えたら、スゴイね。 地元出身で、黒崎小学校・黒崎中学校を卒業して 地域活動もやっている 俺よりも 知人が多いんやから。

そんなこと考えてたら、また突かれて、「あっ、こんにちは、お世話になっています」 って、誰か知らんがな。 

「なん言いよんね、三男の同級生の お母さんやろ

知らんがな。

思い起こせば三十年前。 地元デートのとき 家人が知人と出会えば、恥ずかしいのか何か知らんけど、離れるように押されていました。

「あのときのトラウマやねん」

「そんな昔のこと、 もう忘れた。 それより、挨拶くらいは キチンと し!(なさい)」

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