ばく(幕)末の開こう(港)以来
、ヨコハマにつくられた 「外国人居留地」。
その住人の6わり(割)を 占めていたのは、中国人だったそうです
。
西洋人と 取引をはじめたばかりの 日本人は、言葉のかべ(壁)に
ぶつかりますが、
そこを、中国人通やく(訳)
の力をかりて、カバーしました
西洋人との取引けいけん(経験)があり、
日本人とは かんじ(漢字)で ひつだん(筆談)できる中国人は、
とても たよれる存在だったのです。
でも・・・、そんなふうに かつやく(活躍)していた中国人が つくった町にしては、
今、見る
「中華街」って
ずいぶん、ごはん屋さんばっかりだな・・
広東・四川・上海・北京の四大料理
おかゆ・ヤムチャに、中国茶カフェ・・
ラーメン・まんじゅう・ゴマ団子・バイキング・・
これはこれで、みわく(魅惑)のグルメタウン
ですが、
れきし(歴史)的・けいい(経緯)を
かんがえると、
なんか、いわかん(違和感)を おぼえます・・
うちのチット
の調べによると、当初 この町のレストランは、
わずか 数けん(軒)しかなく、
ほとんどの中国人は
ぼうえき(貿易)仲介や
両替商、
小売店主などをして、
さまざまに かつやくしていました
なのに、今は、「中華料理店」と おみやげ屋さんしか
のこってない。
クリンが フシギに思うのはそこ
でしたが・・・
それには、「中華街」が直面した、苦なん(難)の歩み
が
関係していたのだということが
わかってきました
その苦なん(難)とは、明治時代におきた、日清せんそう(戦争)
そして
大正時代におきた、関東大しんさい(震災)、
さらに
それにつづいた
日中せんそう(戦争)
まさに!
ひじょう(非常)じたい(事態)と
日中関係の あっか(悪化)
という
在日の人にとっての さいあく(最悪)条件でした。
たくさんの中国人が ここを去り、町は中かく(核)といえる存在を
失いました
そして、
のこった中国人には、ひどい生活と、
日本人からの いやがらせやさべつが まっていたのです。
そこに 追いうちをかけるように、
太平洋せんそう(戦争)での、「横浜大空襲」
日本のてき(敵)であった
アメリカ軍の
ばくげきき(爆撃機)に
家も町もやかれ、
ちゅうかがい(中華街)も
何もなくなってしまったらしい。
・・・・・・
きびしい時代の れんぞく(連続)で、日本人よりも 多くのものを失ったであろう
ちゅうかがい(中華街)の
住民たちが、
せんそうがおわって、10年後、
それでも
日本に住みつづけるにあたり
町の中心にかかげた「善隣門」
それは、「周囲の国や人と仲良くする!」っていう、
切なる思いをこめた、
「中華街のシンボル」なのでした
(つづく)