クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

ふるあめりかに袖はぬらさじ(岩亀楼跡)~関内散歩・2

2016-01-14 | まち歩き

 ヨコハマこうえん(公園)は、「洋式公園の最古参」です。

ばく(幕)末に開国して、

外国人が大ぜい・来るようになると、

彼らのあそび場が、ひつよう(必要)となってきました。

 そこで、ゆうかく(遊廓)をつくることを 思い立ち

ばくふ(幕府)が決めた

けんせつ(建設)用地が、

 ちょうど・このこうえん(公園)のあたりでした。

ここら一たい(帯)には、

大・中・小の「遊廓」と

芸者屋が

急ごしらえで

オープンしました が、

 その中で、もっとも・ごうか(豪華)で、

「竜宮城」にも

たとえられた大店が、

がんきろう(かんじ:岩亀楼)です

 (←横浜公園内の日本庭園にのこる、岩亀楼の石灯籠

 がんきろうには、「異人客専門棟」と「日本人客専門棟」の

2つのたてものがあり、

2とう(棟)の遊女たちは、

完全に

区別されていました。

 「異人客」の相手をしていた女たちは、

ラシャメン(かんじ:洋妾)

とよばれて、

さげすまれていたのです

ラシャメンたちの多くは、

高給にひかれて やって来た

まずしい漁村の娘たちで、

美ぼう(貌)も

きょうよう(教養)も

おとっていました

しかし、

それに気づいた 外国人客が

フマンを言い出し、

やがて

日本人客相手の 上級遊女を

はべらすようになりました。

 でも・・・、外国人に対する、おそれやごかい(誤解)がうずまく

当時のこと

 がんきろう・一の売れっ子・きゆう(亀遊)が、

フランス人のラシャメンになることを

苦にして

自害したのも、

そんな時代らしい 

エピソードです。


きゆうの死は、

当時、外国人ぎらいな日本人に 利用され、

かなり

さわぎたてられました

 「 露をだに 厭ふ大和の 女郎花  ふる亜米利加に 袖は濡らさじ 」

という、

じせい(辞世)の歌が ねつぞうされ、

きゆうは、

「異人に屈せず、誇りを見せた日本婦女子

として、

まつりあげられたのです

 きゆうが、「攘夷女郎」にされていく このお話は、

カブキ(歌舞伎)にもなり、

こっけいに

上えん(演)されました


http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/05/


以前、チットは、

坂東玉三郎の ぶたい(舞台)を見て、

「岩亀楼」と ラシャメンに

きょうみ(興味)をもち、

以来 わすれず、

 今日、ここまで来たのです


異人の妾になるのが嫌で、

 死んだ娘もいるだろうけど、

 本気で尽くして、

 外国人と夫婦同然になった女たちも 

 いるんだよね。

 モンブランが、幕府とフランスを結びつけることに成功したのは、

お政の協力のおかげだよ!

徳川慶喜の顧問やってた

ブレアンにも、

美人秘書みたいな お倉がいたらしい。

横須賀製鉄所のヴェルニーには、

純愛で結ばれた

お浅って娘がいて、

2人は 仲良し夫婦だったんだって

 チットは、しらべたことを 発表しました


・・・・・・・

世間の冷たいまなざしも、

こくせき(国籍)も、

文化のちがいも、

のりこえて、つくす。

すなおで

けなげな

女の子たち


 こういう娘たちの 生き方にこそ、本当の日本女子らしさって 

あらわれているんだけどな・・

って

クリンも 思いました


(つづく)




 














 

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