ヨコハマこうえん(公園)は、「洋式公園の最古参」です。
ばく(幕)末に開国して、
外国人が大ぜい・来るようになると、
彼らのあそび場が、ひつよう(必要)となってきました。
そこで、ゆうかく(遊廓)をつくることを 思い立ち
、
ばくふ(幕府)が決めた
けんせつ(建設)用地が、
ちょうど・このこうえん(公園)のあたりでした。
ここら一たい(帯)には、
大・中・小の「遊廓」と
芸者屋が
急ごしらえで
オープンしました が、
その中で、もっとも・ごうか(豪華)で、
「竜宮城」にも
たとえられた大店が、
がんきろう(かんじ:岩亀楼)です
(←横浜公園内の日本庭園にのこる、岩亀楼の石灯籠
)
がんきろうには、「異人客専門棟」と「日本人客専門棟」の
2つのたてものがあり、
2とう(棟)の遊女たちは、
完全に
区別されていました。
「異人客」の相手をしていた女たちは、
ラシャメン(かんじ:洋妾)
とよばれて、
さげすまれていたのです
ラシャメンたちの多くは、
高給にひかれて やって来た
まずしい漁村の娘たちで、
美ぼう(貌)も
きょうよう(教養)も
おとっていました
しかし、
それに気づいた 外国人客が
フマンを言い出し、
やがて
日本人客相手の 上級遊女を
はべらすようになりました。
でも・・・、外国人に対する、おそれやごかい(誤解)がうずまく
当時のこと
がんきろう・一の売れっ子・きゆう(亀遊)
が、
フランス人のラシャメンになることを
苦にして
自害したのも、
そんな時代らしい
エピソードです。
きゆうの死は、
当時、外国人ぎらいな日本人に 利用され、
かなり
さわぎたてられました
「 露をだに 厭ふ大和の 女郎花 ふる亜米利加に 袖は濡らさじ 」
という、
じせい(辞世)の歌が ねつぞうされ、
きゆうは、
「異人に屈せず、誇りを見せた日本婦女子」
として、
まつりあげられたのです
きゆうが、「攘夷女郎」にされていく このお話は、
カブキ(歌舞伎)にもなり、
こっけいに
上えん(演)されました
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/05/
以前、チットは、
坂東玉三郎の ぶたい(舞台)を見て、
「岩亀楼」と ラシャメンに
きょうみ(興味)をもち、
以来 わすれず、
今日、ここまで来たのです
「異人の妾になるのが嫌で、
死んだ娘もいるだろうけど、
本気で尽くして、
外国人と夫婦同然になった女たちも
いるんだよね。
モンブランが、幕府とフランスを結びつけることに成功したのは、
お政の協力のおかげだよ!
徳川慶喜の顧問やってた
ブレアンにも、
美人秘書みたいな お倉がいたらしい。
横須賀製鉄所のヴェルニーには、
純愛で結ばれた
お浅って娘がいて、
2人は 仲良し夫婦だったんだって」
と
チットは、しらべたことを 発表しました
・・・・・・・
世間の冷たいまなざしも、
こくせき(国籍)も、
文化のちがいも、
のりこえて、つくす。
すなおで
けなげな
女の子たち
こういう娘たちの 生き方にこそ、本当の日本女子らしさって
あらわれているんだけどな・・
って
クリンも 思いました
(つづく)