花が咲き終わったあとの水仙は、茎と葉がどんどん伸びて茂って、
あげくにみんな寄りかかり合って倒れてしまい、
場所ふさぎだし見栄えは悪いしで、なかなか厄介なもの。
いや、そんなことを言っちゃ水仙に申し訳ないけれど、
もうちょっと、どうにかならんかなあ、と毎年思う。
寒さ厳しい時期に美しい花が見られるのも、この大量の葉っぱと、
エネルギーをたくわえる球根があってこそ、なのに。
身勝手である。ヒトというものは。
水仙の葉の水玉は、どちらかというと大まかで単調。
息をのむような繊細さや意外性には欠ける。
どこからどう見れば面白いか、ということを考えるのが面白い。
水仙に混じってチューリップも倒れてしまった。
あ、そういえば、今年は黄色いのが咲かなかった・・。
チューリップの葉は特に水玉向きではないけれど、
幅が広いので、水仙とはまた違った趣がありますね。
本日のにゃんこ。
道の「真ん中」だけれど、猫にとっては
これも一種の「端っこ」または「隅っこ」になるらしい。
わざわざ歩いていって、この位置に落ち着いた。
猫が視覚的な動物であることをよくあらわしている。
嗅覚的な犬は、こういうラインを境界線と見なさない。
そこから考えるに、「結界」というものは化け猫には効くが、
狼男など犬族には通用しない。
・・ような気がするんですが、どうでしょうか?
地べたにゴザ一枚敷いただけで、女の子は
「ここがおうちね」といって、おままごとができる。
猫の感覚にはそれに近いものがあると思う。
犬(と、男子の大半)はそれができない。
ずかずかと土足で入って「そこは玄関じゃないでしょ!」と
お母さん役の女子に叱られたりするのである。