先回、先々回と、明治の大皿を紹介してきました。
実は、先回の伊万里錦手大皿を捜した時、さらに別の大皿が三枚出てきました。
径 39.5㎝、高台径 24.0㎝、高 5.7㎝。明治。
色釉で、全面に花鳥がにぎやかに描かれています。
キッチュな図柄ではありますが、ラフさは如何ともし難い(^^;
呉須を濃く塗っている場所には、ムラが目立ちます。発色も悪い(^^;
裏側面の図柄は、極めて簡略されたおめでた紋。
高台内は無銘です。目跡もありません。
作行きからして、先の2枚の大皿とは異なり、今回の大皿は瀬戸の品だろうと思います。伊万里の大皿を何枚も揃えるとなると金額がかさむし、近場で勃興しつつあった瀬戸のお手軽な品を買い求めたのでしょう。
今回の大皿には使用痕があちこちにあります。また、色絵が何カ所か剝脱しています。私の生まれる前には、結構使っていたらしい。元々は、5枚組だったのでしょう。破損して残った3枚が今回の品なのですね(^^;
さて、明治の品と思われる大皿が3種揃いました。
こうやって3枚を並べて比較してみるとよくわかります。ブログでは、この順で紹介してきましたが、期せずして時代順であったと思います(あくまでも、個人的意見です(^^;)
明治44年間は激動の時代です。十年ひと昔どころか、ふた昔以上のスピードで、物事が変わっていったことでしょう。陶磁器が変化をするのも必然。
中国に「陶は政なり」という言葉がありますが、日本では「陶は世(せい)なり」ではないでしょうか(^.^)
ps. ここ数回、ブログで紹介してきた3種の皿は明治の品であることは確かでしょう。しかし、今回紹介した3枚の色絵大皿の産地は、瀬戸ではなく伊万里の可能性もあります(古伊万里コレクターDr.Kさんのコメント)。もしそうなら、うれしいのですが・・・・この辺には常滑の古壷ならいっぱいあります。これが丹波なら、もっとうれしいです(^.^)
幕末ー明治は変化が激しいですから、現在の我々が、今の時点であれこれ類推すると、とんでもない見当はずれを真面目に論じている事にもなりかねません(^^;
でも、考えようによっては、ハッキリとしたことはわからないわけですから何を言っても許される!?(^.^)
ブログ、追記で少し修正しました。
そうしますと、焼成時にヘタリませんから、針支えも必要になりませんし、目跡も付きませんよね。
また、当時、波佐見焼に販路を侵食されてきていて、このような大皿は意外と安かったのかもしれませんし、遅生さんの所へは水運を利用すれば、割と廉価に運搬できたのかなとも思ったわけです。
私がこだわったのは目跡です。今回の品の裏面はツルツルです。古い手の伊万里なら、焼成法が急に変わるのは考え難く、目跡があるのではないでしょうか。
一番の決め手?は価格。当時の私の家で、高価な伊万里を何枚も揃えられたはずがありません(^^; 以前も書きましたが、ウチの辺は内陸ですから、重い陶磁器は運搬費がかさみ、伊万里は高価で、商家のような家でない限り多くの伊万里をそろえられませんでした。絵瀬戸や馬の目皿が分相応(^.^)
「肥前陶磁史考」、大変参考になりました(^.^)
しかも3枚も!
相当に裕福な旧家だったことを伺わせますね(^-^*)
うぅ~ん、難しいですね(~_~;)
幕末~明治初めの頃に作られた物は、製作年代と生産地の判定が難しいですよね(~_~;)
この3枚の大皿は、幕末に伊万里で作られたものではないかと思ってしまいました。
私としては、一番古いのが、この3枚の大皿で、次がベロ藍の大皿、そして最後が前回の錦手大皿かなと思いました。製作年代は、ベロ藍の大皿と錦手大皿は明治と見ました。
また、全て、伊万里製と思いました。
以上は、私の個人的な見解です(~_~;)
しかし、観る人によって、見解が分かれるでしょうね。
ところで、ベロ藍が作られ始めた頃の「肥前陶磁史考」の中の記述を少し抜粋して紹介しました。