今回は石、2個です。
幅 15.6㎝、奥行 5.2㎝、高 8.4㎝。重 1.01㎏。
岐阜、根尾谷特産の菊花石です。
表面が研磨されています。
もう一つの菊花石です。
幅 11.8㎝、奥行 9.4㎝、高 15.2㎝。重 2.07㎏。
ゴツゴツして、岩を割ったままの状態です。
菊花石は、鑑賞石の中でもトップクラスにランクされる石で、その中でも、岐阜、根尾谷の菊花石が最高とされています。その生成過程はいまだに不明ですが、石英や方解石が、永い間に結晶化し、菊花の模様ができたものとされています。花模様は千差万別、同じ物はありません。
中程度の大きさの菊花が一輪。
大輪の菊の花。
ブームが去った今ではそれほどでもありませんが、以前は大変珍重されました。今回の品には、それぞれの形に合わせた木台が設えられています。
さて、今日の本題は菊花石にまつわる欲のお話しです。
先回のブログで発掘陶磁器がブームとなった時の泣き笑い話しを紹介しました。高度成長期にさしかかった同じ昭和30年代、菊花石のブームが起こりました。私の所は根尾川の下流、ここまで菊花石が流れてくることはありません。で、人々は上流の谷を目指しました。ところが、根尾谷の菊花石は、昭和27(1952)年、特別天然記念物となり、採取禁止となっていました。ですから、市場に出回っていた菊花石は、それ以前に採取された物ということになっていたのです。ところが、いつの世にもすり抜けの道が・・・・近くの坊さん、生臭で有名でした。毒流しや電気を使った魚採りから境内でもぐりの自動車教習まで、いろんな事に手を出していました。そして、菊花石ブーム。で、どうしたかというと、現地の管理人に一升瓶を渡し、見逃してもらうことにしたのです。管理人のオジサンは一日中やることがない。いきおい酒に手が伸びます。酒飲みは酒にだらしがない。「採掘は禁止だが、落ちている石を拾うのはかまわん」とのことだったそうです(^^; こうして大金を得た坊さんは、その金で息子を医学部にやり、医院を開業させました。現在は、この辺きっての老人施設を運営しています。家人には、「モウロクしても、あそこにだけは入れてくれるな」と言ってあります(^.^)
まあ、こんな話しを知っている人も、ほとんどいなくなりました。
しかし、ブームが去ったとはいえ、菊花石の美的価値は変わりません。産出場所は、根尾薄墨桜の近くです。薄墨桜の傍には、桜資料館があり、多くの菊花石が展示されています。また。下呂温泉の老舗、水明館には、濃尾大地震で地表に現れた巨大な菊花石が設置してあります。機会があれば、鑑賞してください。
そ そりゃなかなかの生臭坊さんですね。色んな手を使い様々にすり抜けて
得たお金を息子の教育費に使い 息子はみごとに医者になり病院を開き
老人施設まで開設したとなると もうこれは立派なサクセスストーリーですね。
先見の明があったというか 悪事千里を走るというか それで毎日お経をあげていた
という図式はたまげますが あっぱれです。お寺の収入は無税だし。
水明館の菊花石を見てきました。一瞬 菊の花の彫り物をくっつけたのでは?
と思いました。そしてあの色も天然の色なんですね あこまで見事ですと
素人はつい ゴッドハンドが作ったのでは?と疑いたくなります。
水明館は下呂温泉では一番の老旅館です。美術品が多くあるので機会があれば、お泊りもいいです。この菊花石はおそらく最大でしょう。あまりに大きくて、建物へ後から入れることができないので、まず菊花石を設置してから、建物を建てていったそうです。
こういう物は、時代に非常に大きく左右されますね。
盆栽と同期して人気があったような気がします。今では、少数の愛好者が熱狂的に求めるだけですので、物はだぶついています。昔からすると、夢のようです。その気になれば、良品をそこそこの値段で手に入れることができます。本当に好きな人には良い時代ですね。
掛け軸とよく似ています。
ひと騒ぎさせましたが、とてもきれいな苔でした(笑)
本物はやっぱり違いますね。
菊花石の最高級品も近くでとれたのですか!
菊花石も一時流行り、骨董屋などでも売られていましたね。
遅生さんが菊花石を持っているのは、骨董収集の一環からかなと思いましたら、そうではなかったのですね。
それにしても、この坊さん、境内でもぐりの自動車教習までやって稼ぐとは、アッパレですね(^-^*)
太く短い人生を歩まれたのですね。
ただ、石の中では素人にもわかりやすい美しさを持っていると思います。当地方には、他に、揖斐川石やさざれ石などあって、こういう世界にのめり込む人がいるのもわかる気がします(^.^)
坊さんは、超長生きしました。早死は息子の方です(^^;