長~い『関ケ原合戦絵巻』ですが、今回で最後、合戦当日を描いた諸場面です。
西軍の配陣:
これまでの場面とは違って、北側から俯瞰した構図になっていて、左が東、右が西方です。
毛利秀元、安国寺瓊長老、長曾我部宮内少輔盛近、築前中納言秀秋、石田治部少輔三成、羽柴左衛門輝政、浅野左京大夫幸長。
嶌津兵庫頭義弘、小西摂津守行長、鍋島信濃守直茂、脇坂中務少輔安治、朽木河内守元網。
東軍の配陣:
羽柴左衛門大輔正則(福島正則)が先頭です。
細川越中守忠興、田中兵部大輔吉政、金森兵部御法印、加藤左衛門尉貞康。
本多中務大輔忠勝、蜂須賀阿波守直〇、寺沢兵庫頭、加藤左馬頭義明、黒田甲斐守長政、加藤左衛門貞康。
「御」とあるのは、桃配山に陣を張った家康本陣のことでしょう。金扇の馬印がそれを表しています。
このあと、合戦の場面が続きます。
まず展開するのは次のシーンです。
島津の退き口:
後世に、「島津の退き口」として有名になった場面です。
戦いが始まってから一進一退、膠着状態にあった両軍ですが、松尾山の小早川秀秋隊が山を駆け下って、大谷吉継隊を側面から襲い、西軍は総崩れとなりました。気がつけば、島津隊は西軍の中に取り残された形になってしまったわけです。
そこで、大将、島津義弘を無事に薩摩へ返すため、敵中突破という捨て身の戦法をとり、家康の陣をかすめて、戦場を駆け抜けます。
時間の経過からすると、島津が東軍の真ん中を突破して薩摩へ帰るのは勝敗がほぼ決してからですから、場面としては一番最後のはずですが、なぜか最初に来ています。
次は、騎馬武者同士の対決です。松平下野守忠義朝臣とあるのは、家康の四男、松平忠吉です。井伊直政とともに、戦場をぬけて逃げる島津隊を追撃してきたのです。
槍で応戦する馬上の武者(右)には名前が書かれていません。国会図書館の『関ケ原合戦絵巻』には、松浦三郎兵衛と書かれています。これは、松井三郎兵衛の誤りでしょう。
この対決で、松平忠吉は、島津家臣の松井三郎兵衛に籠手を斬られて落馬し、組み伏せられてしまいます。この時、松平忠吉は負傷しましたが、家来が松井三郎を討ち取り、難を逃れました。
松平忠吉に続いて、島津を追う井伊直政です。
実は、松平忠吉は井伊直政の娘婿、関ケ原では、松平忠吉の後見人を家康から託されていました。松平忠吉は関ケ原の戦いが初陣で、何としても武功をあげようと、先鋒となっていた福島正則を出し抜いて、真っ先に西軍に突っ込んだのが松平忠吉と井伊直政だったのです。関ケ原合戦の火ぶたを切ったのは、この二人でした。そして戦いの終盤、死に物狂いで戦場を駆ける抜ける島津隊には、東軍の諸将も一歩引きました。そんな中で、危険な追撃を家康が松平忠吉と井伊直政にゆるしたのも、二人の激しい意気込みを評価していたからでしょう。
しかし、井伊直政も島津方の銃撃で深手を負ってしまいます。そして、この傷がもとで、2年後に亡くなります。
大谷吉継の最後:
時間は前後しますが、次は敗色濃厚な大谷陣営です。
小早川秀秋の東軍への寝返りにより、西軍は総崩れになります。
九曜の旗印は、石田隊でしょうか(他に、宇喜多隊、細川隊なども可能性有り)。
山の上、籠に乗っている人物の周りで、あわただしい動きが。
大谷刑部小輔(大谷吉継)に、家臣が何やら報告(進言?)しています。
大谷吉継は、重い病を抱えながらも、石田三成との信義を守り、輿にのって関ケ原にやってきました。関ケ原合戦で、勇猛果敢に戦ったのは、西軍では、大谷隊と石田隊だと言われています。しかし、戦況は絶望的で、彼は自刃を決意します。両軍の主要な武将のなかで、関ケ原の戦場で亡くなったのは、大谷吉継だけです。このことは、関ケ原の戦いの性格を良く表しているといえます。
武士の約束と西軍の敗走:
二人の武者が戦っています。
この絵巻には名が記されていません。
国会図書館の絵巻には、左が藤堂仁右衛門、右は、大谷刑部臣湯浅五助と書かれています。
藤堂仁右衛門は、藤堂高虎の甥です。湯浅五助は大谷吉継の重臣で、勇猛な武士でした。
大谷吉継は、重臣、湯浅五助に「醜い我首を敵方にさらすな」と言い残して自刃します。言いつけに従い、五助が吉継の首を埋めているのを、東軍の藤堂仁右衛門に見られてしまいます。五助は、大谷吉継の首の在りかを黙っていて欲しいと仁右衛門に懇願し、両者一騎打ちになります。それがこの場面です。結局、五助は討ち取られてしまいますが、仁右衛門は五助との約束を守り、後日、家康に吉継の首の在処を尋ねられても、頑として話しませんでした。この逸話は、「武士の約束」として語り継がれていきました。
次に、二人の武者が地上で戦っている場面が展開されます。
今回の絵巻には名前が出ていませんが、国立国会図書館の絵巻では、左が杉江勘兵衛、右が田中吉政臣辻勘兵衛と書かれています。
杉江勘兵衛は、石田三成の家臣です。一方、辻勘兵衛は東軍、田中吉政の家来。
杉江勘兵衛は、元々、曽根城主、稲葉一鉄に仕えていました。後に、石田三成に仕え、同じ石田家臣の島清興(左近)、前野忠康と並んで勇猛さで名をはせていました。その杉江勘兵衛が、東軍の辻勘兵衛と戦ったのは、関ケ原ではなく、ずっと東、合渡川(現、長良川)をめぐっての東軍、西軍の攻防でした(合渡川の戦い)。関ケ原合戦よりも10日以上前、8月23日のことです。この戦いに勝って長良川を渡り、怒涛の勢いで西進した東軍は、いち早く、赤坂の岡山に布陣して、家康を迎えることになるのです。
中山道合渡宿は、赤坂宿の反対、故玩館から一つ東(約4㎞)の小さな宿場です。合渡の戦いとその直前の岐阜城陥落で、関ケ原合戦東軍勝利の環境は整ったと言えるでしょう。
それにしても、『関ケ原合戦絵巻』では、どうして絵巻のこの位置へ、かなり前の戦いを挿入したのか不思議です。
最後の場面は、破れた西軍が我先にと、山の方へ逃げていくところです。
混乱した様子がリアルです。
そして、『関ケ原合戦絵巻』は、松林と沼田で終わります。
作者名に容斎とあります。歴史画を得意とした菊池容斎の名を、誰かが入れたのでしょう(^^;
これは夏の陣でしょうか?
郷土に所縁のある宇喜多秀家や小早川秀秋、島津家もさに非ず。
歴史を紐解けば、表舞台より裏方の備えや裏切りの数々に気持ちは動きます。
加えて欠かせない、潮と月の満ち欠けで采配は決定的でした。
愉しめて感謝です。
解説が素晴らしいので、とてもよく歴史がわかりました。
「徳川家康」を読んでもここまでのことわからない・・・・いやもう忘れているけれど。
すばらしい巻物ですね。
9月15日ですから、秋ですね。
彼らの移動を追ってみると、現代では想像もつかない強行軍で、大決戦に突入したことがわかります。
島津や毛利が生き残り、幕末から維新へと、徳川を滅ぼす主力となったわけですから、関ケ原の合戦には、何か運命めいたものを感じますね。
せっかく持っている品ですから、ブログで活用できて何よりです。
疑問に思う点もいろいろでてきて、勉強になりました。
多くの人々が交錯するので、いろんなドラマが生まれますね。
この辺りは行った事の有る場所です。
こんな激しい戦闘が繰り広げられていた場所も
今は何事も無かった様な平成の景色でした。
描かれた人物、その場の空気感がリアルに伝わって来る傑作ですね。
この辺りは、何の変哲もない山里ですが、東西の接点ですから、古代からいろいろな出来事がありました。
壬申の乱の舞台となったのも、この場所です。
地形は昔と今も変わらないので、家康が最終陣をはった桃配山のあたりは、国道、名神、JR東海道線、新幹線などが集中し、ギュッと並んで走っています。
名解説が入り、面白かったです(^-^*)
でも、調べるのも大変ですよね。
この絵巻物の各部分を挿絵にして、1冊の本が書けそうですね(^-^*)
少々疲れました。
丁度明日から、関ケ原古戦場記念館で、企画展『関ケ原合戦の前哨戦』が始まるので、みてこようと思っています。
いやー面白かったです!(^^)
解説が素晴らしいです。
もう紙に書いて絵巻と一緒に保存してください笑
中身では武士の約束には胸を打たれました!
こういうのが大好きです。(^^)
腑抜け状態です(^^;
解説が、だんだん講談調になってくるのが自分でもわかりました(^^;
「武士の約束」が実話であってほしいですね。
江戸時代も中期以降となってくると、武家社会もだんだんダレてくるので、このような教育的意味をもつ逸話が珍重されたのかもしれませんね。