『大志んぱん どん字づくし』の4回目です。
どん字の謎解きも、少しずつ慣れてきて・・・・と言いたい所ですが、そうは問屋がおろさせてくれないので、今回も、完全版ではありません・・・いつもの言訳(^^;)
【寺】の上部、十を欠いた文字です。
読みは、「あき寺」。
そのココロは、「十字(住持)がない」。
これはキレイ、座布団一枚ですね(^.^)
【悪】の字の、心が逆向きになっています。
読みは、「大わるもの」。
そのココロは、「心入かへた所がなをいかん」。
「心を入れかえたはずだが、やっぱりダメだ」ということでしょうか。
【用】の字の真ん中がありません。
読みは、「用ニたたぬ」。
そのココロは、「キ(気)ぬけ」。
描かれているのは、放心状態の女。
さて、今回の一押しどん字はこれ。
【午牛】という一文字です。
読みは、「くるまミち」。
そのココロは、「牛はとほる 午(むま)ハとほらぬ」。
牛、午は、縦棒が上に通る、通らないという文字の形の違いも掛けています。
絵には、米俵を満載した車を引いている牛が描かれています。
江戸時代に車道?
そこを、牛は通るけれども、馬は通らない!???
どうして???
調べてみると驚きの事実がわかりました(単に、私が知らなかっただけかも(^^;)
江戸時代、様々な理由で、幕府は、荷車の使用を厳しく制限していました。荷物の運搬は、人力や馬牛の背を利用した荷駄によっていました。しかし、一部の大都市や宿場では大八車の使用が許可されていました。また、例外的に、牛が車を引くことが許されている所も、全国には何カ所かあったようです。最も有名なのが京都です。
【車道(くるまみち)と車石(くるまいし)】
江戸時代の京都周辺の三街道(東海道、竹田街道、鳥羽街道)には、牛車専用の車道が作られました。人や馬の通る道の横、一段低い所に、石が二列に敷かれた一種の軌道が作られたのです。それが車道(くるまみち)で、敷かれた石が車石(くるまいし)です。
京都ー大津間の東海道では、大津から米や木材などが、牛車で京都に向けて運ばれました。重さ300kgの牛車に米俵9俵=540kgを載せた牛車が年間二万輌以上往来していたそうです。当然、道は傷み、雨季には、土でできた道路がぬかるんで身動きできなくなります。そこで、歩道と車道が分けられ、牛車専用の車道が、人、馬用の一般道に沿って設置されました。
車道は、幅が九尺(2.7m)で、長さ三尺(90cm)の牛道をはさんで2列に花崗岩の石が敷かれていました。この石が車石で、その上を牛車の車輪が通ることから輪通り石、輪石、輪形石などと呼ばれています。車石は、たて30cm、横60cm、厚さ25cm~30cmぐらいが標準的な大きさです。車石には、車輪がはまる溝が彫られていました。明治以降、車道はなくなり、車石も撤去されましたが、一部は、街道筋の石垣、側溝、礎石などに利用され、それを現在もみることができます。 参照《車石・車道研究会》
常夜灯の基壇に利用された車石(逢坂峠)
真ん中の溝は、もともと石に直線状に開けられていたと思われますが、牛車の車輪により摩耗しています。
このような車石を2列に敷いて軌道を造るには、莫大な経費がかかったと思われます。また、大量の物資と牛が移動する車道は、当時の人々にとって、特別な光景であったに違いありません。
こんな事実があったとは、本当に驚きです。車道や車石など、どん字づくしの謎解きがなければ、知る由もありませんでした。『大志んぱん どん字づくし』に感謝(^.^)
これで何とか、半分を終えました(^..^)
次回は、5列目の4文字です。