戦争
平和
焼夷弾(爆弾?):長さ 31.7㎝。重さ 3.0㎏。1940年代。
陶人形花娘:高さ 24.3㎝。昭和。
今日は、gooブログの1000日目です。ヨタヨタと更新しながら、なんとかここまで来ました(^^;
そこで、何か相応しい物はないかとゴソゴソさがし回り、奥に保管してあったのを探し出したのが今回の品です。
24.0cmx30.5㎝。高23.5㎝。江戸時代後期。
全面に、高蒔絵と螺鈿が施された鼓箱です。鼓箱の特徴として、蓋の上面がゆるやかなアールになっています。
鼓箱は、小鼓を保管しておくためのものです。他にもいくつか持っているのですが、これは別格、いわゆる大名道具と言われる物です。
20年程前、山形県酒田市を訪れた際、例によって地元の骨董屋をひやかしてまわりました。品物は乏しく、また、これといった物も見当たらずガッカリでした。ところが、ある店の奥に、オーラを放っている品が。すばらしい蒔絵の鼓箱です。しかし、値段を聞いてビックリ。高嶺の花でした(^^;
それからほどなくして、ネットオークションに似た品が出品されました。開始価格が高かったので、入札者は私一人。拍子抜けするほど簡単に落札できました。しかも、値段はあの時の品の十分の一。
鉛の象嵌はありませんが、光琳蒔絵といって良いでしょう。
盛上げ蒔絵と螺鈿を組合せて、草花をダイナミックに表現しています。
草花は、隣の面に繋がっています。
蓋の上面が、デザインの中心です。
ススキ、萩、蔦などの秋草が表されています。
そして、その奥には巨大な月がにぶい光を放っています。
これは、武蔵野図といわれる絵柄で、近世の大和絵に多く用いられました。大変風情がある和風デザインで、魯山人も好んでモチーフとしています。
蒔絵の大名道具には、細密蒔絵が施された豪華絢爛な物が多いのですが、このような粋なデザインの品もあります。
横から見ると技法がよくわかります。
金具は銀製です。
内側には、江戸布が貼られています。
隅に、小さく「寛哉作」と書かれています。江戸後期の蒔絵師、古満寛哉でしょうか。ただ、この時代の蒔絵作家の特定は非常に難しく、私の能力をこえていて、確証はありません。
箱の素材は桐です。
蓋をそっと乗せると・・・・
スーッとゆっくりと沈んでいき・・・・・
ピタリと納まります。まるで、錫の茶入れのようです。150年以上経た木製箱にもかかわらず、このように精巧な造りが保たれています。当時の技術の高さに驚きます。
鼓箱の中には、小鼓の仕覆が入っていました。
江戸布です。布は合せになっていて、内側は麻、外側は薄い絹です。
薄絹の布には刺繍が施されています。一瞬、桃山、辻が花!?との妄想が頭をよぎりましたが、そんなモノがそんじょそこらに存在するはずはありません(^^; 典型的な江戸刺繍でした(^.^)
洒落た仕覆に包まれた小鼓をもっていたのは、どこかのお姫様?それとも良家のお嬢様?
新たな妄想は膨らむばかりです(^^;
残念ながら、中に小鼓は入っていませんでした。
かわりに、江戸中期の蕪蒔絵鼓胴に古皮を組みました。
仕覆に包んで、
光琳蒔絵武蔵野図鼓箱に入れれば、
気分(だけ)は、小鼓名人(^.^)
小鼓と桜が描かれた吸物椀です。
10客あります。
最大径 13.0㎝、高台径 6.1㎝、高 7.7㎝。大正9年
器体は底厚で周縁になるに従い薄くなります。高台や摘みもふくめ、典型的な轆轤挽きの木製容器です。
大正9年新調と書かれた木箱に入っていました。
100年経っているのに、新品のような色艶です。ほとんど使用された形跡がありません。
漆器の時代判定は、本当に難しいですね。
内外とも朱漆塗りです。
蓋裏には、桜の花びらが描かれています。模様のパターンは、10枚とも同じです。
ならば、外側の鼓と桜の模様も同じだろう・・・・と思いきや、微妙に異なるのです。
そういう訳で、今回も、違い探しです。しかし、今回は難問。10枚の内、2組はそれぞれ同じパターンで、他の6枚はすべて異なります。お暇なときに、頭の体操と思って、トライしてみてください(^.^)
左の列、縦に、ABCDEF、右の列、縦に、GHIKLMと番号をふったとき、A~Mから、同じパターンのペアを2組見つけて下さい。
回答いただいた方には、もれなく、『故玩館への招待』(論創社、2009年、全173頁)を贈呈しますので、ドシドシご応募ください。
連絡は、メッセージを送る(頁左上)からお願いします(^.^)
謡曲『養老』の文句が書かれた菓子器です。
14.4㎝ x 14.4㎝。高 10.9㎝。戦前―現代。
2段の菓子器で、外側は布着せになっていて、上段が赤漆塗り、下段が緑漆塗りです。金箔の上に、能『養老』の一節からの文句「長生の家にこそ」が書かれています。
側面3方には、鶴が描かれています。
内側は、黒塗りに金箔、銀箔貼り。
蓋裏も含め、内側は、金銀箔貼り。
蓋裏:
なかなかに煌びやかです。
上段内側:
下段内側:
このようなランダム模様は、案外難しいです。側面にも銀箔が貼ってあります。この写真では、上側面のまん中、右側面の上端、左側面のまん中です。そこへ底面の箔が映りこんで、おもしろい効果を出しています。
能『養老』
(あらすじ)
雄略天皇の時代、帝の勅使たち(ワキ、ワキツレ)は、美濃の国、本巣の郡にある不思議な泉を検分に訪れ、そこで、樵夫の老人(シテ)とその息子(ツレ)に出会います。二人は勅使に、霊水の泉を見つけ、養老の滝について語り、立ち去ります。やがて山神(シテ)が登場し、天下泰平を祝福する舞を颯爽と舞い、天へと帰って行くのでした。
樵夫の老人(シテ)と息子(ツレ)が登場し、「長生の家にこそ・・・」と謡う場面 木版画、18.5 x 25.0㎝、河鍋暁翠、明治12年
(謡曲)
・・・・・・ シテ・ツレ下歌『奥山の深山の下のためしかや。流れを汲むと、よも絶えじ流れを汲むとよも絶えじ。』 上歌『長生の家にこそ。長生の家にこそ。老いせぬ門はあるなるに。これも年経る山住の。千代のためしを、松蔭の岩井の水は薬にて。老いを延べたる心こそ。なほ行く末も、久しけれなほ行く末も久しけれ』 ・・・・・・・・
奥山の深山の下を流れる水で、これを飲めば、大変な長命をするという中国の菊水のように、この養老の水も、いくら汲んでも絶えはしないだろう。かの中国の長生殿には年を寄らない不老門があるということだが、ここの水も年寄った山人が飲んで、千年の寿命を得るという結構なもので、この松蔭の岩間から出る水は、不死の薬で、これを飲めば年を寄らず、なおこの先もいつまでも久しく生きながらえることが出来るのだ。(佐成謙太郎、『謡曲大観第五巻』より)
養老の滝伝説そのものですね。ただ、能では、養老の滝が美濃の本巣郡にあることになっています。これは間違いです。本巣郡は、故玩館のある所。養老の滝はもっと西です。
岐阜県を舞台にした代表的な能は、『養老』『班女』『熊坂』です。いずれも、故玩館のある美江寺宿から中山道の宿を、二つ、三つ西へ行った辺りが舞台です。中世には、その辺の方が栄えていたのでしょう。私が小さい頃、これといった娯楽などなく、お出かけとなると養老の滝が定番でした。多くの人で、大変な賑わいでした。今は、駅周辺から滝まで、ほとんど人を見かけません(^^;
『長生の家にこそ・・・・・・行く末も久しけれ』は、祝の席でよく謡われる小謡です。
長生の家云々は、 和漢朗詠集の詩句『長生殿裏春秋富、不老門外日月遅』に由来します。
故玩館に不老門などあるはずがありません。苦労門ならあります(^^;
養老の水は、菊慈童の菊水のような不老不死の薬、つまり、お酒だったのですね。これも、下戸の私には無関係。
ということで、老いがますます加速!(^^;
不老門にも、薬の水にも無縁ですが、せめて・・・・『長生の家にこそ、牡丹餅』(^.^)