遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

能画5.東山画、重安賛『高砂』

2022年04月19日 | 能楽ー絵画

今回は、お馴染みの『高砂』です。

全体、48.1㎝ x 173.8㎝。本紙(紙本)、38.2㎝ x 73.8㎝。江戸時代後期。

虫食いが多く、ボロボロに近い状態の掛軸です。薄い彩色は、退色がすすんでいます。

老松の下に、熊手をもった尉と箒を手にした姥が立っています。うっすらと波も描かれています。

能画としては、『高砂』の舞台から想像される情景を描いたA型タイプです。

松の精である老夫婦は、夫婦円満や長寿の象徴です。

この図は、定番中の定番の絵柄です。現在私たちが最もよく目にする能画といってよいでしょう。

明治以降、能画が盛んに描かれるようになりました。そのほとんどが能舞台の一場面を捉えた図(Bタイプ)です。しかし、『高砂』は例外的に情景画(Aタイプ)で、広く普及し、能を代表する絵柄になりました。

一方、江戸時代には、この図柄は、案外少ないです。その理由はよくわかりません。

絵の作者、東山は不明です。

 

さて、この絵には、賛があります。

 

高砂住のえの 
 松は非精(情)のものた(だ) 
              にも 
相生の名は有そ(ぞ)かし 
            ましてや 
 生ある人として
                年久布(しく)も
 住吉より通ひ馴たる
                         尉と姥は
    松諸友に此の年まて(で)
              相生の夫婦と
            なる物を

これは、『高砂』の前半、ワキ、阿蘇宮神主と従者たちが、高砂の浦で出会った老夫婦に、高砂と住吉とに遠く離れた松を相生の松という理由や松のめでたい謂われなどを尋ねたことに対する二人の答えです。

「高砂、住吉の松には心が無いにもかかわらず、相生の名がつけられています。ましてや、生ある人間として、長年の間、住吉より通いなれた尉と姥は、松と一緒に、この年まで、相生(相老)の夫婦となるのですよ」

賛を書いた重安なる人物の詳細は不明です。

文政庚辰は、文政3年(1820)です。晩年近く、76歳になってしたためた『高砂』画讃には、仲睦まじい老夫婦の人生の重みがそこはかとなく漂っているようです(^.^)

 

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5年来の割れ爪が治りそうです

2022年04月17日 | 故玩館日記

実は、もう5年も右人差し指の爪が割れたままなのです。

人差し指はほんとうによく使うので、困ります。2年半前のブログでも、いろんな作業に不自由をしているとボヤキました。

割れは、最初、爪先の2㎜くらいの長さだったのですが、だんだんと下へのび、長さが1cmほどにもなってしまいました。

これまで、何とかならないかと、いろいろためしてみました。

まず、瞬間接着剤。これは強すぎます。割れ目から浸みて、下肌も一緒に接着してしまいます。それでいて水に弱い。風呂に何回か入ると、剥がれてきます。

次に、爪の保護剤。ネイルケアなどで広く使われている物で、マニキュアと一緒です。しかし、強度が足りません。割れはそのままです。

そこで、本格的に直すことにしました。みゃー大工さんに教えていただいた方法です。この方法が王道のようです。

皮膚科でもらうステロイド剤を、1日2回、爪元を中心に塗ります。医者でもらったのがいっぱいあります。

問題は、指先です。食べ物に触れる可能性があります。そこで、保護テープで覆わねばなりません。このT字型テープが高い。えらい出費です(^^;  しかし、どうしても直さねば・・・・・この方法で1年間頑張りました・・・・が、さしたる効果はみられず(^^;   効能には、個人差が大きいようです。

仕方なく、その後は・・・・

テープで、毎日、あぶない部分を覆うという、全くの対処療法でやってきました。

当然、現状維持。

そんなこんなで、右手人差し指の割れ爪で悶々とする日々が続き、気がつけば5年にもなっていました。このままでは、爪にテープを貼ったまま人生が終わる!?(^^;

そこで、もうひと踏ん張り・・・・世に同じ悩みを抱えている人は多くいるはず。ならば、それなりのグッヅもあるのではないだろうか。で、探しに探して、これならと行きついたのがこの品です。

Amazonで629円。安い(^.^)

マニキュア(接着剤)と薄いシルクシートが入っています。

まず、シルクシートを爪の大きさに切り、接着剤を塗ってかためます。さらに、接着剤を5回ほど塗り重ね、補強。これで、ほぼ完ぺきになります。爪先の割れが引っかかる事はなくなりました。また、指先に力がかかる作業をしても、爪先が開くことはありません。人差し指を気にすることなく、一日すごせます(^.^)

 

しばらくしてから、驚きの変化が!

上の写真は、2週間後の爪です。爪は伸びるので、長くなった分は切ります。それにつれて、割れて、白く浮いている部分は、少しずつ小さくなっていきます。そして、よく見ると、爪の下方に異変が。下側に新しい爪が現れているではありませんか。2週間で3㎜ほど。このまま数か月すれば、上方の傷んだ爪はなくなり、新しい割れの無い爪に置きかわりそうです(^.^)

 

 

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能画4.河鍋暁翠、版画『卒都婆小町』

2022年04月15日 | 能楽ー絵画

今回は、河鍋暁斎の娘、河鍋暁翠の版画『卒都婆小町』です。

18.5㎝x25.5㎝。明治時代。

河鍋暁翠(きょうすい): 慶応三(1868)年ー 昭和十(1935)年。日本画家、浮世絵師。河鍋暁斎の娘。。明治35(1902)年から3年間、女子美術学校(現、女子美術大学)の日本画教授(女性初)。明治―昭和初期にかけて活躍し、美人画、能画を得意とした。

 

これまでも、河鍋暁翠の能版画をいくつか紹介してきました。

それらすべて、能舞台の一場面を描いたもの(B型)です。一方、肉筆の能画には、能舞台ではなく能の情景(想像上の)を描いたタイプ(A型)もあります。『卒都婆小町』で、これまで紹介してきた3種の能絵はすべてA型でした。その点、河鍋暁翠は、明治期に主流となるB型と江戸期のA型の両方をこなした過度期の画家といえるでしょう。

彼女は小さな頃から、父暁斎の教えを受け、絵師として高度な技法を身に着けました。その辺の事情は、葛飾北斎とその娘、応為(おうい)の関係に似ています。

父、河鍋暁斎が残した下絵(右上)をもとに、娘、暁翠が完成させた浮世絵(左側)をみると、父、暁斎に勝るとも劣らない技量であったことがわかります。

今回の品は、このような精細な肉筆画ではなく、モノクロの木版画です。明治期には、多くの浮世絵師が能版画(B型)を描きました。そのほとんどは、彩色されたもの、それも細線が描ける石版刷りが多いです。木版の白黒刷りは、明治に入ると急速に衰えていったのです。

そんな中、あえて白黒木版で能画に挑んだ暁翠は、よほど画力に自信があったのでしょう。

狩野派の流れをくんだ、父親、暁斎ゆずりの力強い線描です。

年老いた小野小町の見事な仏教問答に感服した僧たち。真剣な横顔に、彼らの気持ちが表れています。

能舞台での出で立ちです。小町の衣裳は、襤褸ではありませんね。

年老いたとはいえ、色を内に秘めた小町を象徴しているのでしょう。また、老いさらばえてもなお気品を失ってはいない小町の姿が基本にあります。

私たち観客は、『卒都婆小町』の舞台で展開される語り、謡い、そして所作によって、大きく変化していく老小町の情景を自分の中につくらねばなりません。気難しい仏教教理を展開して僧侶をやりこめる才媛小町、はかない身の上を語り物を乞う乞丐人の小町、そして深草少将の霊がとりついて狂乱する小町。

これまで、3回にわたって紹介してきた絵画、『卒都婆小町』は、それぞれの小町を描き表していると思われます。

作者不詳『卒都婆小町』。江戸時代中期。

狩野栄信『卒都婆小町』。江戸時代後期。

菊池容斎『卒都婆小町』。幕末ー明治初期。

ところで、能では「卒塔婆小町」とは書かず、「卒都婆小町」です。観世流では「そとわこまち」とよびます。「卒都婆」はもちろん造語ですが、「塔」ではないく「都」と書きます。

「極楽の 内ならばこそ 悪しからめ 外は何かは 苦しかるべき」

作者は、「卒塔」を「卒都」とすることによって、極楽の内と外を強調しようとしたのでしょう。また、小野小町にとってみれば、その美貌と才能がもてはやされた「都」が極楽で、年老いた零落の身は都から外へ出るほかはないことを意味しているのではないでしょうか。

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能画3. 菊池容斎『卒都婆小町』

2022年04月13日 | 能楽ー絵画

今回は、日本画家、菊池容斎の『卒都婆小町』です。

全体:49.5㎝x186.8㎝。本紙(絹本):35.6㎝x96.7㎝。幕末~明治初期。

菊池容斎(きくちようさい):天明八(1788)年―明治十一(1878)年。江戸後期から明治初期にかけて活躍した日本画家。狩野派、土佐派、丸山派などのみならず、漢画、洋画など、広く学び、独自の画風を確立した。歴史画にみるべきものが多い。

今回の絵画は、先に紹介した、二つの『卒都婆小町』とほぼ同じ構図ですが、表現は写実的です。

季節は秋。大きな松の木の下に、老小町が卒塔婆に腰をかけています。

月が出ています。もう夜です。

薄暗い月光の中、小町は遠くを見つめています。

まわりには、ススキや女郎花が生い茂っています。

持物は、杖と破れ傘(後ろに負っている)のみ。これは、能『卒都婆小町』の舞台設定と同じです。

驚くのはその衣裳。とても襤褸には見えません。十二分に彩色された衣服です。月明かりのもとで、上品な着物に包まれた小町は、老いの中にも、ほのかな色香をただよわせているかのようです。

小野小町は、言い寄る男性に一度も返事をしませんでした。ただ、深草少将には、まんざらではなく、自分のもとへ百日夜通いつめれば・・・と難題を出します。彼は、雨の日も風の日も通いつめましたが、あと一日というところで病に倒れ、無くなってしまいます。

能『卒都婆小町』では、小町が仏道問答で僧たちをやりこめた後、身の上を明かし、さらに僧たちに物乞いをするうちに、次第に狂っていきます。そして、自らが深草の少将に憑依して、百夜通いを果たせず、死んでいく苦しみを表現します。

自分のせいで亡くなってしまった深草少将。その怨念が小町にとりついたのは確かでしょう。しかし、小町は、深草少将の苦しみを自分のものとすることによって、華やかであった頃に自分を引き寄せてもいるのです。今回の絵に描かれた、少々華やいだ小町の衣裳は、それを象徴しているのではないでしょうか。

能『卒都婆小町』の前半、100歳となった小町が、僧を説き伏せるほどの深い境地に至ったのは、叡智がもたらした老いの花。一方、後半、深草少将の霊がのりうつり、もだえる様は苦しみの花。いずれもが、老境になって初めて咲く心の花と考えれば、歳を重ねることの意味が少しは見えてくる気がします(^.^)

 

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能画2.狩野栄信『卒都婆小町』

2022年04月11日 | 能楽ー絵画

今回は、狩野栄信による『卒都婆小町』です。

全体:49.5㎝x186.8㎝。本紙(絹本):35.6㎝x96.7㎝。江戸時代後期。

先回紹介した江戸中期の墨絵とほぼ同じ構図の卒都婆小町です。

筆者は、狩野栄信。江戸後期に活躍した狩野派の絵師です。狩野派は、江戸時代、絵師集団として隆盛を誇りました。いくつかの分派に分かれ、鍛冶橋狩野派以下、15以上、◯◯狩野派があったといわれています。狩野栄信は、そのうち、格式の高い奥絵師4家の一つ、木挽町狩野派の絵師です。

狩野栄信(かのう ながのぶ):安永四(1775)年~文政十一(1828)年。木挽町狩野派8代目。享和二(1802)年に法眼、文化十三(1816)年に法印となる。法印叙任後の号は、伊川院、玄賞斎。

落款には、「玄賞斎法印栄信筆」とありますから、文化十三(1816)年以降の作であることがわかります。

狩野派らしい特徴のある線描です。

先回の墨絵と大きく異なるのは、控えめにさされた淡彩です。  

年老いた小町の左上方には、赤い蔦がからまった枯木が一本。時節が秋であることを表しています。

疲れ果てて卒塔婆に腰を下ろした自分に、旅僧たちが説教をし、立ち退きを迫ります。しかし、老女は、僧の説く難解な仏教教理を逆手にとり、僧たちを論破してしまうのです。

百歳になっても、都で活躍していた時の矜持と心の花を持ち続けた小町。その内面が、くすんだ肌色の彩色によってうかがえるかのようです。

さて、この絵をもう少し詳しく見てみます。

老小町が腰をかけているのは、先が五輪塔になった卒塔婆。粗末な衣服をまとった彼女は、大きな袋をもっています。その脇には、破れた傘と蓑。

能『卒都婆小町』の舞台で、小町が持っているのは、傘と杖だけです。では、この袋は一体何?

先回紹介した墨絵『卒都婆小町』では、さらも多くの袋などが描かれています。

謎を解く鍵は、『卒都婆小町』の謡いにあります。

能の展開を追ってみます。

卒塔婆に腰を掛ける不埒な老婆ながら、僧たちが繰り出す難解な仏法教理を次々と論破したので、僧たちは「本当によく悟った乞食だ」と、頭を地につけて、三度礼拝しました。
僧たちを論破したその勢いで、小町は戯れ歌をのこします。「極楽の内ならばこそ悪しからめ。そとは何かは、苦しかるべき」
ここまでは、姿形は衰えたとはいえ、美貌の教養人、小野小町、さもありなんの出来事です。
しかしその後、能の流れは徐々に変化し、意外な展開となっていきます。

戯れ歌を詠んだ後、僧から身の上を尋ねられます。自分は、小野小町の成れの果てであると明かしたあと、地謡いとシテ(小町)との掛け合いによって、現在の小町の哀れな状態が明らかになります・・・・・


地『首に懸けたる袋には。如何なる物を入れたるぞ』
シテ『今日も命は知らねども。明日の飢えを助けんと。粟豆の乾飯を袋に入れて持ちたるよ
地『後に負へる袋には
シテ『垢膩(くに、あか)のあかずける衣あり』
地『臂に懸けたる簣(あじか、竹や葦で編んだザル)には
シテ『白黒の慈姑(くわい、芋)あり
地『破れ蓑
シテ『破れ傘
地『面ばかりも隠さねば
シテ『まして霜雪露
地『涙をだに抑さうべき袂も袖もあらばこそ。今は路頭にさそらひ。往来の人に物を乞ふ。乞ひ得ぬ時は悪心。また狂乱の心つきて。聲かはりけしからず。
シテ『なう物たべなうお僧なう  (佐鳴謙太郎『謡曲大観 第三巻「卒都婆小町」』)

襤褸の服と破れ傘、杖以外にも、小町は多くのものを身に着けていました。
首に懸けた袋には粟豆の乾飯が、背中に負った袋には垢の付いた衣服が、臂に懸けたザルにはクワイが入っています。これらを持ち歩きながら、破れ蓑をまとって、破れ傘で顔を隠そうにもかなわず、雨露もしのげません。袖や袂の無い襤褸衣では、涙さへ抑えることができません。彼女は、このような状態で往来の人々に物乞いをしていたのです。物をもらえなかった時には、悪心、狂乱の心がついて、聲も異様なものに変わってしまいます。そして、小町は、傘を両手に持ち、「ねえ、何かめぐんでください、ねえ、お坊様、何かめぐんで」と、僧に物乞いをするのです。

頭では僧たちに完璧に勝っていた老小町。しかし、現実には、僧にさえ物乞いをする乞丐人であったわけです。
このように、能『卒都婆小町』では、主人公、小野小町は、天から地へと堕ちていきます。老女ものながら、この能は、劇的な展開をみせるのです。
能『卒都婆小町』は、観阿弥の原作を、世阿弥がアレンジしたものと言われています。毀誉褒貶の人生。それを自分がどう総括するか。老いについて考えさせられる名作です。

 

 

 

 

 

 

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