今回は、狩野栄信による『卒都婆小町』です。
全体:49.5㎝x186.8㎝。本紙(絹本):35.6㎝x96.7㎝。江戸時代後期。
先回紹介した江戸中期の墨絵とほぼ同じ構図の卒都婆小町です。
筆者は、狩野栄信。江戸後期に活躍した狩野派の絵師です。狩野派は、江戸時代、絵師集団として隆盛を誇りました。いくつかの分派に分かれ、鍛冶橋狩野派以下、15以上、◯◯狩野派があったといわれています。狩野栄信は、そのうち、格式の高い奥絵師4家の一つ、木挽町狩野派の絵師です。
狩野栄信(かのう ながのぶ):安永四(1775)年~文政十一(1828)年。木挽町狩野派8代目。享和二(1802)年に法眼、文化十三(1816)年に法印となる。法印叙任後の号は、伊川院、玄賞斎。
落款には、「玄賞斎法印栄信筆」とありますから、文化十三(1816)年以降の作であることがわかります。
狩野派らしい特徴のある線描です。
先回の墨絵と大きく異なるのは、控えめにさされた淡彩です。
年老いた小町の左上方には、赤い蔦がからまった枯木が一本。時節が秋であることを表しています。
疲れ果てて卒塔婆に腰を下ろした自分に、旅僧たちが説教をし、立ち退きを迫ります。しかし、老女は、僧の説く難解な仏教教理を逆手にとり、僧たちを論破してしまうのです。
百歳になっても、都で活躍していた時の矜持と心の花を持ち続けた小町。その内面が、くすんだ肌色の彩色によってうかがえるかのようです。
さて、この絵をもう少し詳しく見てみます。
老小町が腰をかけているのは、先が五輪塔になった卒塔婆。粗末な衣服をまとった彼女は、大きな袋をもっています。その脇には、破れた傘と蓑。
能『卒都婆小町』の舞台で、小町が持っているのは、傘と杖だけです。では、この袋は一体何?
先回紹介した墨絵『卒都婆小町』では、さらも多くの袋などが描かれています。
謎を解く鍵は、『卒都婆小町』の謡いにあります。
能の展開を追ってみます。
卒塔婆に腰を掛ける不埒な老婆ながら、僧たちが繰り出す難解な仏法教理を次々と論破したので、僧たちは「本当によく悟った乞食だ」と、頭を地につけて、三度礼拝しました。
僧たちを論破したその勢いで、小町は戯れ歌をのこします。「極楽の内ならばこそ悪しからめ。そとは何かは、苦しかるべき」
ここまでは、姿形は衰えたとはいえ、美貌の教養人、小野小町、さもありなんの出来事です。
しかしその後、能の流れは徐々に変化し、意外な展開となっていきます。
戯れ歌を詠んだ後、僧から身の上を尋ねられます。自分は、小野小町の成れの果てであると明かしたあと、地謡いとシテ(小町)との掛け合いによって、現在の小町の哀れな状態が明らかになります・・・・・
地『首に懸けたる袋には。如何なる物を入れたるぞ』
シテ『今日も命は知らねども。明日の飢えを助けんと。粟豆の乾飯を袋に入れて持ちたるよ
地『後に負へる袋には
シテ『垢膩(くに、あか)のあかずける衣あり』
地『臂に懸けたる簣(あじか、竹や葦で編んだザル)には
シテ『白黒の慈姑(くわい、芋)あり
地『破れ蓑
シテ『破れ傘
地『面ばかりも隠さねば
シテ『まして霜雪露
地『涙をだに抑さうべき袂も袖もあらばこそ。今は路頭にさそらひ。往来の人に物を乞ふ。乞ひ得ぬ時は悪心。また狂乱の心つきて。聲かはりけしからず。
シテ『なう物たべなうお僧なう (佐鳴謙太郎『謡曲大観 第三巻「卒都婆小町」』)
襤褸の服と破れ傘、杖以外にも、小町は多くのものを身に着けていました。
首に懸けた袋には粟豆の乾飯が、背中に負った袋には垢の付いた衣服が、臂に懸けたザルにはクワイが入っています。これらを持ち歩きながら、破れ蓑をまとって、破れ傘で顔を隠そうにもかなわず、雨露もしのげません。袖や袂の無い襤褸衣では、涙さへ抑えることができません。彼女は、このような状態で往来の人々に物乞いをしていたのです。物をもらえなかった時には、悪心、狂乱の心がついて、聲も異様なものに変わってしまいます。そして、小町は、傘を両手に持ち、「ねえ、何かめぐんでください、ねえ、お坊様、何かめぐんで」と、僧に物乞いをするのです。
頭では僧たちに完璧に勝っていた老小町。しかし、現実には、僧にさえ物乞いをする乞丐人であったわけです。
このように、能『卒都婆小町』では、主人公、小野小町は、天から地へと堕ちていきます。老女ものながら、この能は、劇的な展開をみせるのです。
能『卒都婆小町』は、観阿弥の原作を、世阿弥がアレンジしたものと言われています。毀誉褒貶の人生。それを自分がどう総括するか。老いについて考えさせられる名作です。