能楽の流派は、観世・宝生・金春・金剛・喜多の「シテ方五流」だが、江戸時代には、新興の喜多流を「座」に加えず、「四座一流」と称した。
加賀藩祖の前田利家は、金春流を愛好していたが、5代目藩主綱紀が、宝生流を奨励したので、金沢では、加賀宝生として根付いた。
一方、徳川家康は観世流、秀忠が喜多流、綱吉は宝生流を愛でたので、能楽は、時代の趨勢に翻弄され、観世流と宝生流が中軸となった。
また、囃子方は、笛、小鼓、大鼓(おおつづみ)、太鼓(たいこ)で構成し、「四拍子」と呼ばれるが、それぞれ独立した流派がある。なお、太鼓(たいこ)は、観世流と金春流の二派に分かれる。
父は、謡は初代佐野吉之助直伝で、太鼓は、金春流の柿本豊次(金沢出身、のちの人間国宝)に師事し、40歳で、金春流の免許皆伝を得たが、第二次大戦中、軍属として召集され体を壊し、昭和25年に逝った。
奇しくも、その年、加賀宝生は、金沢市の無形文化財に指定された。父の死で、金春流の後継者が途絶え、以後、加賀宝生の太鼓は、観世流に替わった。
加賀藩祖の前田利家は、金春流を愛好していたが、5代目藩主綱紀が、宝生流を奨励したので、金沢では、加賀宝生として根付いた。
一方、徳川家康は観世流、秀忠が喜多流、綱吉は宝生流を愛でたので、能楽は、時代の趨勢に翻弄され、観世流と宝生流が中軸となった。
また、囃子方は、笛、小鼓、大鼓(おおつづみ)、太鼓(たいこ)で構成し、「四拍子」と呼ばれるが、それぞれ独立した流派がある。なお、太鼓(たいこ)は、観世流と金春流の二派に分かれる。
父は、謡は初代佐野吉之助直伝で、太鼓は、金春流の柿本豊次(金沢出身、のちの人間国宝)に師事し、40歳で、金春流の免許皆伝を得たが、第二次大戦中、軍属として召集され体を壊し、昭和25年に逝った。
奇しくも、その年、加賀宝生は、金沢市の無形文化財に指定された。父の死で、金春流の後継者が途絶え、以後、加賀宝生の太鼓は、観世流に替わった。