勿忘草 ( わすれなぐさ )

「一生感動一生青春」相田みつをさんのことばを生きる証として・・・

街の天使たち

2006-02-11 22:37:22 | Weblog
 大辞林によると、天使とは、①神の使者として神と人との仲介ををつとめるもの②やさしい心で人をいたわる人、とある。

 暖かい春を運んでくるのも天使ならば、今日の東京地方は天使が舞い降りてきたようで、街角にも天使たちのかわいい姿が目に付いた。

 
 
 
 
 
 
 
 東京の公園の砂場は、何故かこのように囲いがあるのです。

 世の中には、我が子に食事も与えず死なせた親や、殴る蹴るの暴行のあげく、水を張った浴槽に正座させ、2時間も放置して死なせた悪魔のような親もいる。
どちらも3歳児だそうだ。

 僕の心には堕天使が棲んでいますが、あなたの心に棲む天使は、どんな天使ですか?
2006.02.11

春の息吹

2006-02-10 22:01:30 | Weblog
 記録的な寒さのこの冬も、少しづつ春の気配を感じ、今日の東京地方は少し寒さも和らいで、遅れていた梅の便りも届き始めた。

 毎日通る道でふと見つけた木々の芽吹きに春の兆しを感じてうれしい。

 膨らみ始めたもくれんの芽

 
 青空に映える桜はコヒガンザクラの一種と思われる
 

  
 まだまだ寒い日が続きそうですが、春はもうすぐそこでですね。
2006.02.10

黄昏

2006-02-08 21:50:43 | Weblog
 夕暮れの街に明りが灯り始め、落日に燃える西の空がやがて茜色に染まる黄昏時は、何故かもの悲しく、感傷的になり、ものみな美しく見えてくる。

 そんな黄昏時の人影はぼんやりとして、誰かわからない。
「誰(た)そ彼(かれ)」が「黄昏」になったという。

 『黄昏』とは「夕方の薄暗いとき・夕暮れ」をいうのであり、また人生の盛りをすぎた年代をたとえていう、と大事林にある。僕のことか?

 昔、「黄昏」という映画があった。
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  ニューイングランドの静かな湖畔を舞台に、老夫婦とその娘との交流を描いた家族愛のドラマ。

■出演 ヘンリー・フォンダ/キャサリン・ヘプバーン/ジェーン・フォンダ

 ご覧になった方も多いと思うが、この映画は実の親娘の競演で、J・フォンダが不仲だった実父ヘンリーのために用意した作品であり、スクリーンの裏側でも映画同様の葛藤が行われていたらしい。
父と娘の絆は現実でも虚構でも復活し、ヘンリーはオスカーを受けて永眠したというエピソードもある。
 
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 僕が好きなもう一つの「黄昏」という映画がある。

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■監督:ウィリアム・ワイラー
■出演:ローレンス・オリヴィエ/ジェニファー・ジョーンズ

 シカゴでも超一流のレストランに働きに来た田舎娘に惹かれたこの店の支配人は、妻子ある中年男。
彼女を追って家を出た彼は、やがて彼女にも去られ落ちぶれていく。
女優として成功した彼女との再会は、やりきれないほどの悲しみに満ちた結末へ。

 中年男の人生の黄昏を描いた、絶望的な孤独の悲劇は、シェークスピア劇でその名を馳せた「Sir」の称号を持つ名優、ローレンスオリビエと、初出演映画でアカデミー主演女優賞を獲得した、「終着駅」のジェニファージョーンズの二人の名演によって、見終わった後、すぐには立ち上がる事のできないほどの悲劇となって心に突き刺さる。

 僕にとって『黄昏』には常にこの映画のイメージがつきまとう。
 
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 写真は黄昏時の隅田川です
 
 
 


 清少納言は、夕暮れは秋がいいと言うが、春まだ浅い川面を渡る夕風に吹かれながらの黄昏時もまたいいものだ。
昼の暖かさも日暮れには冷たい風になった今日ですが・・・。
2006.02.08

ニポカジ

2006-02-07 22:34:06 | Weblog
 「ニポカジ」という言葉をご存知だろうか?
下町、日暮里(にっぽり)は、根岸、入谷と並び称される下町を代表する街である。
その昔は開墾地、新堀と書いていたが、風流人たちが日が暮れるまで散策しても飽きない、という意味合いから、ひぐらしの里、「日暮里」という字をあてたといわれる。

 日暮里駅を降りるとすぐ繊維問屋街がある。
日暮里繊維問屋街は、日暮里カジュアル“ニポカジ”と呼ばれ、若者の流行アイテムが揃う激安おしゃれエリアとして全国的に知られる街になった。
         

 最近まで昔ながらの駄菓子問屋が密集し、懐かしさと新鮮さが混ざりあった魅力的な街であったが、駄菓子問屋は、舎人線の開通工事に伴い、すベて立ち退き、今ではその面影もない。
         

 しかし、60店舗にもおよぶ繊維問屋の店内は、カジュアルファッションの若者が溢れている。
         
         
         

 ここで買い物をした後は、駅前広場から横に入った路地にある、羽二重団子のお店で日本庭園を眺めながら、ゆっくりお茶を飲み、団子に舌鼓を打つのもいい。
ここの団子はきめが細かく、素朴な味わいが魅力だ。
         

 人情の町日暮里は、この他にも下町特有の雰囲気を持つ商店街や、町並みがあり、ゆっくり散策するのも新しい発見があるかもしれない。ひぐらしの里なのだから。
2006.02.07

ばんざい!

2006-02-06 22:57:58 | Weblog
         
 「バンザイ!」は最上級の喜びを表わすときに叫ぶ表現方法だと思われる。
 先日、はぐれ雲 さんから「万歳」のお題をいただいた。
そこで「万歳」について考えてみました。

 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 「万歳」の熟語自体は漢語で、中国で乾杯の際に唱える祝福の言葉だった。
万年、長寿、長久の意で、同じ意味の「千秋」と合わせて「千秋万歳」などと使われている。

 その「バンザイ」は、喜びや祝意を表す言葉として日本人の中に広まり、定着していった。日清・日露をはじめ、第2次世界大戦などで世界的にも有名になり、国際語ともいえるようになったのである。
                                  HP調べ
 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~


 我が人生では何度「バンザイ!」を叫んだ事があっただろうか?
人のためでも、自分のためでも、「万歳」は何度あってもいい。

 昨日は、梅も桜も冬の寒さにじっと耐えたからこそ、美しい花を咲かせる事ができるとお伝えした。
人生においても、常に万歳を叫びたいような事ばかりではない。
長い人生には、つらいときも悲しいときもある。それを乗り越えてこそ「万歳」を叫びたくなるときが来るのだろう。

 そんな人生の達人たちの手紙がある。先日も紹介した「60歳のラブレター」である。
今日もその中からの一編を紹介します。

 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 夫から妻へ
 
 君と結婚して30年余、いろいろなことがあった。僕にとって、中でも忘れられない思い出は、まだ子供が小さかったころの夫婦喧嘩だ。
若気の至りで小さなことに腹を立て、
「おまえなんか、実家に帰ってしまえ!」と家から追い出したとき、君は泣きながら出て行ってしまったね。
ガランと寂しくなった部屋で、心配そうに見上げる子供たちの顔を見つめながら、やがて君の実家からかかってくるであろう電話に、どのように対峙しようかとあれこれ考えあぐねていたとき、しばらくしてかかってきた電話口から流れてきたのは、
「もっと自分の女房を大事にしろ!」という聞き慣れた僕のオヤジの叱声だった。

 そう、君は自分の実家に帰らずに僕の実家に行ったのですね。
まだ若かった君が悲しみの中でとったとっさの行動に、君の本当の「優しさ、賢明さ」を知り、完敗だと悟りました。
その時、僕は決心したのです。
「君とはもう喧嘩はしない。君を一生大事にしていこう」と。
その後もいろいろと苦労をかけたけど、君を愛する気持ちは変らない。
来年は定年を迎えるけど、無事にやってこられたのは君のおかげだ。
感謝している。
今後もよろしく頼むよ。
                      岸本 博さん(59歳)

 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 この奥さんのとった行動に拍手を送りたい。
こんな機転が人の心に大きな感動を与え、二人にとって「万歳!」だったのではないだろうか。

 あなたにはどんな万歳がありますか?
人生の最期に「万歳!」を叫ぶ事ができたらしあわせですね。
2006.02.06

早春賦

2006-02-05 22:15:25 | Weblog
 ♪梅は咲いたか 桜はまだかいな~

 立春も過ぎたとはいえ、昨日今日の風の冷たさには春まだ遠しの感、梅の開花も全国的に遅れているという。

 梅も桜も、冬の寒さと春の暖かさが開花の条件だという。
梅は春の暖かさに刺激されやすく、桜は冬の低温がより多く必要なのだそうだ。

 春を告げる花、梅も桜も冬の寒さにじっと耐えたからこそ、美しい花を咲かせる事ができるわけだ。人生と同じという事か?

 春には河岸を美しい桜の花で飾り「春のうららの隅田川・・・」と詠われた隅田川の桜も着実にその蕾を膨らませていた。



      春は名のみの風の寒さや
      谷の鶯歌は思へど
     時にあらずと声も立てず
      時にあらずと声も立てず

     氷解け去り葦は角(つの)ぐむ
      さては時ぞと思ふあやにく
     今日もきのふも雪の空
      今日もきのふも雪の空

     春と聞かねば知らでありしを
      聞けば急(せ)かるる胸の思いを
     いかにせよとのこの頃か
      いかにせよとのこの頃か


 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 この時期になると必ず歌われる「早春賦」、言葉の美しさと、春を待つもどかしい気持ちが込められた、珠玉の歌として心に沁みる。

 しかしこの歌の本当の意味を知ったのは、かなり大人になってからである。

「春は名のみの(春とは名ばかりで)」これはいいとして、
「葦は角ぐむ」は、アシ・オギ・ススキなどが、角のように芽を出すこと。芽ぐむという意味。
「あやにく」は、生憎と書き、いらだたしく、憎らしく思われるさま。予期に反するさまをいうそうだ。

 そんな意味を噛みしめながらもう一度 早春賦 を歌ってみませんか?

 桜橋から見た、北風の冷たい今日の隅田川です。
 
               大きくすると、向こうに白髭橋が見えます。
2006.02.05

心の鬼

2006-02-04 23:48:39 | Weblog
 入谷の鬼子母神の鬼にはツノがないという。
鬼という字からツノを取ると、「思」という字に似ていると、はぐれ雲さんが言う。
そうか、ツノをとった鬼には思いやりがあるのだ。
我が心に棲む鬼はツノだらけ。思いやりのかけらもない。なにを言おうが「鬼の空念仏」である。

 昨日の節分の豆まきで鬼退治をした方も多いと思いますが、鬼という字のつく諺をいくつか調べてみました。

☆鬼が出るか蛇が出るか
   人形師が観客の好奇心をそそるのに使った口上で、なにが出て
   くるか、なにが起こるかわからないことのたとえ。先の予想がつ
   かないこと。

☆鬼瓦にも化粧
   醜い女でも化粧すればよく見えること。馬子にも衣装と同じ。

☆鬼に衣(おににころも) 
   ①本来鬼は裸でいることから、不要、不釣合いなこと。
   ②内心鬼のように恐ろしい人間が、外面僧衣をつけていることか
   ら、人をあざむくこと。

☆鬼の居ぬ間に洗濯
   怖い人がいない間にくつろぐ事。「洗濯」は命の洗濯の意。

☆鬼の霍乱 (おにのかくらん)
   通常健康な人が珍しく病気になること。「霍乱」は日射病。
   注・悪人が病気になるという意味ではないらしい。

☆鬼の空念仏(おにのそらねんぶつ)
   残忍冷酷な人間が表面だけいかにも慈悲深く見せること。また
   不似合いなこと。

☆鬼の目にも涙
   鬼のように冷酷な者でも、時には慈悲の情を持つことがあると
   いうこと。

☆鬼も十八番茶も出花
   品質の劣る番茶でも出したばかりのときはうまいことから、どん
   なものでも盛りは美しい。醜い娘でも年頃になれば、年相応に女
   の魅力が出てくるものだ。

☆渡る世間に鬼はない
   世間には鬼のように無情な人間ばかりいるわけではなく、人情
   に厚い人間もいるものであるということ。
   注・「渡る世間は鬼ばかり」ではありません。


 あなたの近くには鬼がいますか?
2006.02.04

鬼は外

2006-02-03 23:43:24 | Weblog
 季節の変わり目を意味する節分の今日、テレビからは全国の節分祭の映像が流れてくる。

 しかし、我が心に長年棲みついた悪鬼は、依然出て行こうとしない。
そこで、その悪鬼を追い出すべく、職場の近くにある神社「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺・・・」で名高い入谷の鬼子母神の豆まきに行ってみた。

 


台東区教育委員会の案内によると
 ☆鬼子母神は鬼神般闍迦(はんしか)の妻でインド仏教上の女神のひとりである。
性質凶暴で子供を奪い取っては食べてしまう悪神であったが、釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ改心させたという。
以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。
入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来から、ツノのない「鬼」の字を使っている。
 



 この鬼子母神は、下谷七福神の一つ、福禄寿としても親しまれ、さほど広くない境内は7月6・7・8日の3日間に行われる朝顔市でも有名で、境内をはじめ言問通りに面した通りには多くの市が立ち並ぶ。



 さて、我が心の中の悪鬼は、はたして出て行ったのだろうか?
どうもツノがどこかに引っかかって、まだ腹の中に居るようだ。
2006.02.03

新しい旅立ち

2006-02-02 20:41:28 | Weblog

 昨日は我がブログ一周年にあたって、皆様からたくさんの励ましとお祝いのお言葉をいただき、身に余る光栄に感謝してもしきれないほどの嬉しさでいっぱいです。

 こんなにたくさんの方から励まされると、身が引き締まる思いです。
僕がブログへ込める思いは、まず楽しくが第一、そして記事の中から何か一つでも笑いや、驚き、発見があれば嬉しいのですが、それはなかなか難しい事。
そこで思うのは、一つでも「ヘェ~」があればいいなと思っています。
特にコメントには、記事にこだわりはありませんので、どうぞご自由な発言と話題を提供していただければ幸いです。
面白く、楽しくをモットーに皆様と交流したいと思います。

 2年目を迎えるにあたって、過去のブログを反省してみました。
僕にとって、今でも笑い話としてのドジぶりな「大失敗」 の話がありますので、ご存知の方もいると思いますが、もう一度紹介しますので、どうぞ笑ってやって下さい。

 新鮮な気持ちでブログ2年目を迎え、新しい旅立ちをしたいと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 画像は 僕をイメージして作ってくださった、はぐれ雲さんからのプレゼントです。
2006.02.02

旅人

2006-02-01 16:53:55 | Weblog


 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

 ご存知、松尾芭蕉「奥のほそ道」の冒頭の詞(ことば)である。

 “月日は永遠の旅人、行き交う年月もまた旅人である”という芭蕉は「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」とも言う。

 俳諧は、一つの場を共有するものが句を継ぐ「座」という文芸形式で「日常性とは別次元の関係でつながり、生きる楽しみを共にする」場である。

 そんな解説を読み、ブログに共通性を見いだした。

  ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 昨年の2月2日に開設した我がブログ、今日でちょうど一年になりました。
皆さんの励ましや、やさしさに支えられ、今日まで続けられた事に感謝します。

      ありがとうございます♪

 このブログがなかったら、絶対に知り合うこともなかったであろう皆さんと交流の場ができ、そんな中で皆さんの優しさに触れ、楽しさを知り、知識を広げることができ、日々の活力の源になっていることを感じるのです。

 また今まで関心のなったことにも興味を持つようになり、身の回りの出来事や、世の中を見る目が変ったことも事実です。

 人生は旅、行き交う旅人同士が異次元でつながりを持ち、生きる楽しみを共有する。

 人生が旅ならば、「片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず・・・」である。

 “旅は道連れ世は情け”今日も皆さんとの出会いを楽しみに、明日への活力となることを願ってやみません。
 
  行く春や 鳥啼き 魚の目は泪             松尾芭蕉

2006.02.01