はじめに
今回の内容については、私の「租税法における行政裁量」『税務行政におけるネゴシエーション(日税研論集65号)』(2014年、日本税務研究センター)233頁もお読みいただければ幸いである。
1.裁量(Ermessen)の意味
最近では、マスコミなどにおいても裁量という言葉が一般的に使用されている。かつて、田中二郎博士は、行政法の真髄は裁量であると言われたという。それほど、行政法において、裁量は重要な意味を与えられている。
そして、裁量は、行政法において基本的な事柄(?)でありながら、最も難しい問題の一つでもある。もっとも、これは、日本の教科書において裁量という言葉そのものに対する説明がないことにもよるのかもしれない。私が学部生であった頃、日本語の行政法学の教科書で裁量について初学者向けにわかりやすく説明したものは皆無であった※。むしろ、ドイツ語の行政法学の教科書のほうが、説明としては丁寧かもしれない。実際、日本でも定評のあるHartmut Maurer, Allgemeines Verwaltungsrechtには図による説明が掲載されており、これによって私はようやく意味を理解したほどである※※。
※以前、「現在も事情はそれほど変わらない。これでは教科書が売れなくなる訳である」と記したが、最近の教科書では裁量の意味などについて解説がなされているものが増えている。良い傾向である。
※※但し、現在のドイツ行政法学においては、後に取り上げる効果裁量のみが認められており、要件裁量を認める日本の行政法学とは異なっていることに、深い注意を必要とする。ドイツにおいては、学説も判例も要件裁量の存在を否定するのが一般的である。これは、裁量を認める範囲を限定しようとする意図から生じているのであろう。これとは対照的であるのが、日本の行政法学であり、判例である。とくに、これまでの行政法学は、行政裁量を統制する必要性を説きながらも、(少なくとも結果的には)判例に追従する形で、行政裁量が認められる範囲を広げてきた。
また、裁量は、これ自体は行政作用でも何でもないが、行政法学においては、古くから行政行為(行政処分)について説明がなされてきたものである。現在においても、行政裁量論を行政行為(行政処分)の箇所において扱う教科書が少なくない。しかし、憲法学から明らかなように、裁量は、何も行政行為(行政処分)の専売特許ではない。憲法学においては立法裁量が登場するし、行政法学において、裁量は行政立法、行政指導、行政契約、委任立法などにおいても登場する。
ここで、裁量という言葉の意味を説明しておくこととしよう。まず、国語辞典を開いて欲しい。私があの『広辞苑』とともに使用してきた、西尾実=岩淵悦太郎=水谷静夫編 『岩波国語辞典』〔第5版デスク版〕(1994年、岩波書店)432頁によると、裁量とは「自分の意見でとりさばき、処置すること」である。次に、法律学辞典を参照しよう。やはり私が長らく使用してきた、竹内昭夫=松尾浩也=塩野宏編『新法律学辞典』〔第5版〕(1989年、有斐閣)669頁によると「国家機関の判断又は行為が法の認める範囲内で法の拘束から解放されることを広く自由裁量という」。
もう少し簡単に言うならば、裁量とは、法(主に法律であるが、憲法などによる場合もある)によって国家機関に与えられた判断や意思形成の余地のことである。
例えば、Xという事実が存在し、それに対して考えられる適法な法的効果としてA、B、Cがあるとする。その際、行政庁は、どの法的効果が適切であるかを選択するという判断をする権限が与えられることがある。この場合、行政庁は、違法な法的効果Dを選んではならないが、A、B、Cのいずれの効果を選んでもよい(適法である)。A、B、Cの中からの選択において問題となるのは、違法性の有無ではなく、当・不当(妥当性・不当性)に留まる。そして、裁量行為とは、行政庁に裁量が与えられ、その裁量の結果としてなされた行為のことである。
これに対し、Yという事実が存在し、それに対して考えられる適法な法的効果がEしか存在しない場合には、そのEをもたらす行為をしなければならない。こうした行為を羈束行為という。この場合、Fという法的効果をもたらせば、違法である。
さて、以後の説明との関連もあるので、ここで不確定概念を取り上げておく。不確定概念が往々にして行政庁の裁量につながり、慎重に扱うことが求められているからである。もっとも、不確定概念が用いられているからといって行政権に裁量が認められるとは限らないことには、注意が必要である。
法律の条文には、よく不確定概念が用いられる。これは、抽象的・多義的な概念のことである。本来、このような概念を用いないことが望ましいのであるが、現実には用いざるをえない場合が多い。不確定概念の例として、「正当な理由」(国税通則法第65条第4項など)、「必要があるとき」(国税通則法第74条の2第1項など)〔以上は経験概念を内容とする〕、「公益上必要のあるとき」(これは目的概念あるいは価値概念の例)がある。
●最三小判平成9年1月28日民集51巻1号147頁(Ⅱ―210)
YはX所有の土地について収用裁決を申請したが、この土地については賃借小作権の存否に関する争いがあったので、収用委員会は小作権割合を4割とする不明裁決を行った。問題となったのは土地収用法第71条に規定される「相当な価格」の意味であるが、最高裁判所第三小法廷は、これを不確定概念であるとしながら、「通常人の経験則及び社会通念に従って、客観的に認定され得るものであり、かつ、認定すべきものであって、補償の範囲及びその額(中略)の決定につき収用委員会に裁量権が認められるものと解することはできない」と述べた。
なお、この判決は、土地収用法における損失補償について完全補償説を採用したものとしても重要である。
2.要件裁量と効果裁量
一連の行政過程のうち、いずれの段階において行政権に裁量が認められるかという観点に立つ場合、要件裁量と効果裁量との区別が語られてきた。
要件裁量とは、行政行為の根拠となる要件の充足について、行政庁が最終認定権を有する場合の裁量である。具体的には、認定された事実を(行政行為の)構成要件にあてはめる段階での裁量である。この段階にのみ裁量の余地を認めるのが、戦前の佐々木説(京都学派)であり、要件裁量説ともいう。
これに対し、効果裁量とは、行政行為をするか否か、するならばいかなる行政行為をするかということについて、行政庁が最終認定権を有する場合の裁量である。この段階にのみ裁量の余地を認めるのが戦前の美濃部説(東京学派)であり、効果裁量説ともいう。
要件裁量説に立てば、効果裁量はいかなる場合であっても認められないことになる(認める必要がないということであろう)。逆に、効果裁量説に立てば、要件裁量は認められないことになる。美濃部達吉博士は、行政行為(処分)の性質や、自由裁量・羈束裁量の区別との関連において、効果裁量についての三原則を提唱した。それによると、(1)「人民」の権利を侵害し、負担を命じ、またはその自由を制限する「処分」は、いかなる場合でも自由裁量行為ではない、(2)「人民」に新たな権利を設定し、その他「人民」に利益を供与する「処分」は、法律がとくに人民にその利益を要求する権利を与えている場合を除いて、原則として自由裁量行為である、(3)直接に「人民」の権利義務を左右する効果を生じない行為は、法律がとくに制限を加えている場合を除いて、原則として自由裁量である。
判例はいかなる傾向を示しているのであろうか。戦前は効果裁量説に立っていたようである。戦後も、例えば最二小判昭和31年4月13日民集10巻4号397頁は、効果裁量説に立ちつつ、農地調整法第4条(昭和24年改正前)の規定は自由裁量を認めない趣旨であると述べた。この判決は要件裁量を否定したものであると理解されている。
しかし、判例は、不確定概念との関係において要件裁量を認める傾向を強めている。そのため、近年において、要件裁量・効果裁量の区別はそれほど重要ではないとも言いうる。
●最一小判昭和36年4月27日民集15巻4号928頁
事案:Y市立A中学校教諭であった原告Xは、Y市教育委員会からB中学校への転補処分を受けた。しかし、Xは、処分が違法であるとしてBに移らず、Aに留まった。Yは職務命令を発したがXが拒否したので、Xを懲戒免職処分に付した。Xは、この処分の取消を求める訴訟を提起した。いくつかの問題があったが、紹介処分に関する教育委員会の開催の告示が開始30分前になされ、しかも非公開であったことが、旧教育委員会第34条第4項にいう「急施を要する場合」に該当するかということなどが争点の一つであった。
判旨:最高裁判所第一小法廷は、「急施を要する場合」についてY市教育委員会委員長(会議の招集権者)の要件裁量を認めた(高裁判決と逆の判断)。
なお、この裁量は、後に取り上げる覊束裁量であると解すべきであろう。
●最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁(憲法判例としても有名なマクリーン事件、Ⅰ―80)
事案:アメリカ人の原告Xは、在留期間を1年とする許可を受けて日本に居住した。Xは1年間の在留期間更新を申請したが、彼が在留期間中に無届で転職したこと、政治活動を行ったことが理由となり、Y法務大臣は申請を拒否する処分を行った。この事件では、当時の出入国管理令第21条第3項にいう「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り」という文言が問題となった。
判旨:最高裁判所大法廷は、まず、在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されるものでないと述べ(出入国管理令第21条が根拠とされる)、在留期間の更新について法務大臣の広汎な要件裁量を認めた。また、法務大臣の判断が「全く事実の基礎を欠き又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合に限り、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があったものとして違法となるものというべきである」とも述べている。
この判決についての評価は少々難しいが、在留期間の更新が権利として保障されるものでないとする点において効果裁量説的な要素を持ち、美濃部三原則に従っているようにも見える(実際、効果裁量を否定している訳ではなかろう)。しかし、基本的には要件裁量を正面から認めるので、裁量の所在という点では佐々木説に立っているということになる。
●(専門的・技術的裁量) 最一小判平成4年10月29日民集46巻7号1174頁(伊方原子力発電所訴訟、Ⅰ―81)
事案:某電力会社が核原料物質等規制法に基づき、内閣総理大臣に原子力発電所設置許可の申請を行い、内閣総理大臣は設置許可を行った。これに対し、近隣住民などが設置許可の取消を求めて取消しを求める訴訟を提起した。
判旨:最高裁判所第一小法廷は、要件裁量という言葉こそ使わないが、原子炉施設設置許可について「各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的、専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的判断にゆだね」られると述べた。さらに「原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてなされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきである」と判示し、実質的に裁量を認めている(原子力委員会や原子炉安全専門審査会という存在の意味が大きい)。
専門的・技術的裁量は、主に要件裁量の段階において認められることになる。もっとも、本件の場合、内閣総理大臣に効果裁量が与えられているようにも解されるが、その前提が「原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断」にあることから、要件裁量も認められるという構造になっているのであろう。
●(やはり専門的・技術的裁量) 最三小判平成5年3月1日民集47巻5号3843頁(家永教科書第一次訴訟、Ⅰ―82①)
最高裁判所第三小法廷は、教科書検定において「学術的、教育的な専門技術的判断」が求められることから文部大臣(当時)の合理的な裁量に委ねられるとした。しかし、「合否の判定、条件付合格の条件の付与についての教科用図書検定調査審議会の判断の過程(検定意見の付与を含む)に、現行の記述内容又は欠陥の指摘の根拠となるべき検定当時の学説状況、教育状況についての認識や、旧検定基準に違反するとの評価等に看過し難い過誤があって、文部大臣の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、右判断は、裁量権の範囲を逸脱したものとして、国家賠償法上違法となるものと解するのが相当である」と述べた。
この判決においては、結局、裁量権の行使が違法と判断されたことになる。
●(清掃計画と裁量) 最一小判昭和47年10月12日民集26巻8号1410頁(Ⅰ―78)
事案:浄化槽清掃業を営むXは、市長Yに対してH市における汚物処理業の許可申請を行ったが、Yは不許可処分をした。Xは不許可処分の取消しを求めたが、最高裁判所第一小法廷は、Xの請求を認めた東京高等裁判所判決を破棄し、事件を同高等裁判所に差し戻した。
判旨:市町村長が許可を与えるか否かについては「清掃法の目的と当該市町村の清掃計画とに照らし、市町村がその責務である汚物処理の事務を円滑完全に遂行できるかどうかという観点から、これを決すべきものであ」り、市町村長の自由裁量に委ねられている。
以上の事例は、要件裁量が認められたものである。しかし、判例の立場が効果裁量説から要件裁量説に移ったという訳ではない。
●(学生に対する処分) 最三小判昭和29年7月30日民集8巻7号1501頁
某公立大学の学生は、A教授の解雇反対を主張して教授会の会場に入り込み、退場を求められたが拒み、大声で発言を続けて教授会を流会させた。このため、学長はこの学生を放学処分に付した。最高裁判所第三小法廷は、学生について懲戒処分を発動するか否か、懲戒処分のうちのいずれの処分を選ぶかを決定することが懲戒権者の裁量に委ねられていると述べている。
学生に対する懲戒処分は、次に示す例とともに効果裁量が認められる典型的な事例であるといえる。
●(公務員の懲戒処分) 最三小判昭和52年12月20日民集31巻7号1101頁(神戸税関事件、Ⅰ―83)
事案:税関の職員だった被上告人3名は、組合活動において指導的役割を果たし、業務の処理を妨げたとして懲戒免職処分に付された。3名はこの処分の無効確認と取消しを求めて出訴した。
判旨:最高裁判所第三小法廷は、国家公務員法に定められた懲戒事由が公務員について存在する場合に「懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されている」と述べている。
判例の流れを概観する限り、結局、要件裁量か効果裁量かという問題ではなくなっており、法律の規定の仕方、あるいは立法による行政への委任の仕方によって要件裁量が認められるか否かという問題になっている。
そればかりでなく、裁量は、要件裁量の段階、効果裁量の段階においてのみ認められる訳ではない。ここでは、塩野宏『行政法Ⅰ』〔第五版補訂版〕(2013年、有斐閣)125頁以下の説を取り上げ、説明をしていく。
行政庁の判断過程は、①事実認定、②事実認定への構成要件のあてはめ(要件認定)、③手続の選択、④行為の選択(するかしないか、するとしたらどのようなものをするか)、⑤時の選択(いつするか)に分けられる。
①は、裁判所による審査の対象となる。事実認定に裁量を認める訳にはいかないであろう。
②について裁量が認められるとする考え方が要件裁量説である。この場合、行政の終局目的というような程度にしか要件が定められていない、あるいは要件が法律上何も規定されていない場合に認められるというのである。
③についても、認められる場合がある。逆に、実体判断のための行政手続について裁判所による統制をした例(最一小判昭和46年10月28日民集25巻7号1037頁。Ⅰ―125番。個人タクシー事件)、行政庁の判断した材料およびその判断の仕方(他事考慮など)について裁判所による統制をした例(東京高判昭和48年7月1日行裁例集24巻6・7号533頁)がある。いずれも、後に取り上げる。
④について認める説が効果裁量説である。この考え方は、美濃部三原則に示されているように、国民の権利を侵害し、国民に負担を命じ、または国民の自由を制約する行為には(自由)裁量を認めず、逆に、国民に新たに権利を設定するなど利益を供与する行為、または直接的に国民の権利義務に関係のない行為には、原則として(自由)裁量を認める、というものである。
⑤についても、認められる場合がある。その例と考えられるのが、次の判決である。
●最二小判昭和57年4月23日民集36巻4号727頁(Ⅰ―131)
事案:上告人である不動産会社Xは、建設会社Aと建物の建築請負契約を締結した。Aは建築資材の搬入をBおよびCに依頼したが、車両が道路法と車両制限令に抵触するため、道路管理者である東京都Y区に特殊車両通行認定を申請した。この申請は受理されたが認定がなされなかった。この建物の建設については住民の反対運動があり、Y区は、反対する住民との間での話し合いによる解決がなされるまで車両認定を保留するという通知をし、実際に半年近くも保留された。これに対し、Xは工事の中断によって損害を受けたとして損害賠償請求を行った。
判旨:最高裁判所第二小法廷は、車両制限令第12条に規定される、道路管理者による車両の認定は許可などと異なり、確認的行為としての性格を有するもので基本的には裁量の余地はないとしつつも、この認定に附款を付しうることなどを理由として、具体的な事案に応じて裁量権を行使することが全く許されない訳ではないと述べた。
現在においては、上述②および④のいずれにも裁量が認められ、さらに②および⑤についても裁量を認める場合がありうる、という傾向にある。これは、法律によって全ての行政活動を拘束できるように規定することが、もともと難しいし、ますます難しくなっていること、仮にそのようにするとかえって行政の硬直化を招くおそれがことによる。それだけに、裁量統制の問題はさらに重要になる。
▲事実認定に裁量は認められるのか?
上記においては、「事実認定に裁量を認める訳にはいかない」として、行政庁による事実認定は全面的に裁判所による審査の対象となる、という立場をとった。しかし、近年、学説において、事実認定に裁量が認められる場合がある、という立場もみられる。
たとえば、宇賀克也『行政法概説Ⅰ行政法総論』〔第5版〕(2011年、有斐閣)322頁は、「事実認定については行政裁量は認められないのが原則であるが、原子力発電所の安全性のように高度な科学技術的問題について専門的行政機関が判断を行った場合、裁量を承認する判例もある。この点を明言するのが、高松高判昭和59・12・14行集35巻12号2078頁である」と述べている(宇賀教授があげる判決は、伊方原発訴訟控訴審判決である)。
また、櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕(2006年、有斐閣)98頁は、伊方原発訴訟最高裁判決のように、安全性の審査のような専門技術的判断が問題とされる場合には、要件裁量ではなく、事実認定裁量とでも言うべきものが認められるか否かについて見解が分かれる、と述べる。さらに、同書99頁は、ドイツ法とアメリカ法との違いを述べたうえで実質的証拠法則を持ち出しており、事実認定についても行政裁量が存在すると表現するかのような記述をなす※。
※なお、櫻井敬子・橋本博之『行政法』〔第4版〕(2013年、弘文堂)118頁も参照。
もし、ここで事実認定に裁量が認められるというのであれば、安全性の審査は事実認定の段階での審査であり、そこに裁量が認められる、というように理解しうることとなる。
実際のところ、宇賀教授の記述のうち、前半は曖昧な記述となっていて、事実認定と要件認定とが区別されているのか否かが判然としない。
そして、仮に事実認定の裁量をいうのであれば、具体的にいかなる場面において裁量が働くのか。
しかし、安全性云々が問題となる場合に、事実認定とは「設計図に書かれた数字、図、計算式が●●のようになっている」と判断することである、ということを意味するのではなかろうか。従って、その段階において裁量が認められる訳はないのである。原子力発電所に限らず、高層マンションでも何でもよいのであるが、数字、図、計算式が安全性の基準に照らして妥当なものであるか否かは要件認定の問題であるはずである。
もっとも、「各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的、専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的な判断」というのは、実質的に要件認定が原子力委員会で行われているということで、内閣総理大臣が事実認定をしているというようにも読めなくはない。しかし、これでは諮問という形式を無視しかねないし、原子力委員会の判断を尊重したところで必ずしもその通りに判断しなくともよいということであれば、事実認定とは全く異なる。むしろ、効果裁量的なものと理解したほうがよいくらいである。
宇賀教授による記述についてのもう一つの疑問は、伊方原発訴訟控訴審判決のどの部分が、事実認定に裁量を認めるものと理解しうるのであろうか、という点である。
解答として考えられるのは、「原子炉等規制法が右のとおり抽象的、包括的な規定をするにとどめていることは、原子炉の安全性に関する判断につき行政庁の専門技術的裁量を予定し、その一環として、右判断のために必要な具体的基準を下位の法令及び行政庁の内規等で定めることを是認しているものとみられ、要するに、その基準の内容については、科学的・専門技術的見地から原子炉の安全性を確保するに足りると合理的に考えられる範囲内で、これを行政庁の裁量に委ねているものと解せられる」という部分である。
しかし、これは事実認定ではなく、安全基準の設定の話である。安全基準の設定は、事実などを基にはするであろうが、要件設定を意味するのであり、要件認定に関する部分であろう。従って、事実認定における裁量ではない。このことは、判決の次の部分からも明らかであると思われる。
「更に、右の原子炉規則等に定められている審査基準や設置法の安全審査会に関する規定からも明らかなごとく、原子炉の安全性に関する判断は、極めて複雑な技術体系を有するものを対象とし、多くの専門分野にわたる事柄につきそれぞれの専門家を動員して行われるものであり、しかも、その判断には、将来の予測に係る事項についてのものも含まれており、なお、事柄によつては、判断の方法・根拠等につき選択の余地があり、複数の方法のうちいずれかを選択したことが専門技術的見地からして不合理ではないとみられる場合もあると考えられる。したがつて、原子炉の安全性に関する判断は、それぞれの専門分野についての専門技術的知見に基づく個別的な判断を集積し、現在における科学的技術的知見、実績、専門家である審査委員の学識、経験等を結集した上での総合的な評価・判断として成り立つものといわざるを得ないから、かかる判断過程等からしても、右判断が行政庁の裁量を伴うものであることは否定すべくもない。
そうすると、原子炉等規制法及び関連法令は、行政庁に対し、原子炉の安全性が肯定された場合における原子炉設置の許否についての政策的裁量のみでなく、安全性を肯定する判断そのものについても専門技術的裁量を認めていると解せられるから、原子炉設置許可処分は行政庁の裁量処分であるといわなければならない。
もつとも、原子炉の安全性に関する判断が行政庁の裁量とされているのは、その判断の性質にかんがみ、具体的・かつ詳細な判断基準や判断過程等を法律に定めることが適切でないことから、いわば手段的に個別的な判定を行政庁に委任する趣旨であると思われるので、その裁量は、周辺住民の生命、身体にかかわることにも照らし、法律の委任する範囲内で合理的な根拠に基づき適正に行われるべきものである」。
これが事実認定における裁量を肯定する論であるとすれば、事実認定という概念の幅が拡大されてしまっているとしか考えられない。日本における行政裁量論が抱える問題の一端を示すものと言いうるであろう。
3.裁量と司法審査―自由裁量と覊束裁量―
伝統的・通説的見解は、裁判所が審査しうる範囲という点から、自由裁量と羈束裁量とを分けていた。
まず、自由裁量は、便宜裁量ともいい、法が個別事案の処理を行政庁の公益判断に委ね、行政庁の責任で妥当な政策的対応を図ることを期待している場合になされる裁量のことである。行政庁の政治的・政策的事項に属する判断や高度の専門的・技術的な知識に基づく判断であり、それを誤るとしても原則として当不当の問題にすぎない(客観的な法則性に即した法的判断ではない)。従って、判断の誤りは裁判所の審査の対象とはなりえない。当不当の問題として行政不服申立てなどによって行政内部の矯正を待つしかないとされ、適法違法の問題ではないこととなる。授益的行政行為の多くが自由裁量行為であるとされた。
次に、覊束裁量は、法規裁量ともいい、法は明確な規定を欠いているが、行政庁が経験則や法的衡平感に基づいて客観的視点から個別事案に相応しい判断を行うことが予定されている場合になされる裁量のことである。通常人が共有する一般的価値判断に従いつつ、裁判所が法規裁量の正誤を判断する。つまり、法律問題として、裁判所の全面的審査の対象となる。賦課的行政行為の多くが覊束裁量行為であるとされた。
要件裁量と効果裁量との区別については、覊束裁量と自由裁量との区別との関連で争われていた。東京学派は、要件裁量を否定しており、その上で、要件裁量を否定し、基本的に、賦課的行政行為を覊束裁量行為であるとし、授益的行政行為の多くが自由裁量行為であるとした。これに対し、京都学派は、効果裁量を否定し、基本的に、要件が規定されている場合であれば、たとえ不確定概念であっても覊束裁量行為であるとし、全く要件を定めていないか公益概念を示すのみであれば自由裁量行為であるとした。
しかし、この区別も絶対的なものではない。具体的に区別が困難であることも多いし、両者が相対化していることもあって、区別しなくなる傾向にある。自由裁量であるからといって裁判所の司法審査権が全く及ばないという訳ではない(行政事件訴訟法第30条を参照。なお、現在のドイツ行政法学において自由裁量は存在しない旨が述べられるのは、この点にあるものと思われる)。逆に、覊束裁量であるからといって裁判所の司法審査権が完全に行使されるとは限らない。その意味において、自由裁量と覊束裁量とは量的な相違に留まるのであり、質的な相違を示すものではない。
たとえば、前掲最三小判昭和52年12月20日は、公務員の懲戒処分(賦課的行政行為)について「国公法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである」と述べている。東京学派による伝統的・通説的な考え方によれば、懲戒処分は覊束裁量行為であるが、国家公務員法第82条(その前提として同法第98条第1項・第101条第1項、人事院規則14-1第3項(当時)がある)の規定は、覊束裁量と自由裁量との双方を認める規定である(第82条の本文は覊束裁量行為であるとも考えられるが、第3号は自由裁量を規定するものと解釈しうる)。
また、最二小判昭和63年6月17日判時1289号39頁(Ⅰ―93)は、 優生保護法に明文の根拠がないにもかかわらず、医師会による医師指定処分の撤回を認容している。
このようにしてみると、むしろ、行政庁に認められる裁量は質的にも量的にも増大している、ということがわかる。このため、裁量に対して裁判所がどの程度まで審査しうるのかという問題は、依然として重要であり、また、重要性を増してきているとも言いうる。