ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

久しぶりに、或るドイツ語の体系書(教科書)を読んで

2019年12月30日 00時03分30秒 | 法律学

 仕事の関係もあって、久しぶりにHeinrich Wilhelm Kruse, Lehrbuch des Steuerrechts, Band I, Allgemeiner Teil, 1991を読んでいます。書名を訳せば「租税法教科書第1巻総則」というところです。

 ドイツにおいて租税法学が独立した分野として成立したのは、せいぜい100年程前のことで、きっかけは1919年のエルツベルガー財政改革の産物の一つであるライヒ公課法〔Reichsabgabenordung (RAO)〕の制定なのですが、その辺りの事情がなかなか興味深く、またこの本を読んでいると歴史の重さと深さを感じるのです。Albert Hensel, Der Finanzausgleich im Bundesstaat in seiner staatsrechtlichen Bedeutungを読んだ時にも感じたことではありますが、歴史を踏まえた書物は、それが近い過去に関するものであっても遠い過去に関するものであっても面白いし、薄っぺらくもないのです。

 ライヒ公課法と言えば、日本では故中川一郎博士が長らく取り組まれており、大学図書館などで研究成果に触れることもできます。勿論、こうした業績を読むことも大事ですが、その上で原書にあたることも必要でしょう。

 学部生時代(とくに1年生であった時)に、一冊の参考書を徹底的に読み潰してよかったと思っています。私の場合は、青木一郎『わかりやすいドイツ語』(郁文堂)という本を購入し、読んだ上でノートに要点を書いたりして勉強しました。最終的に、ノートは数冊になりました。第二外国語が必修であった時代に学部生であったことはよかったと、常に思っています。

 また、学部生時代にドイツ憲法史に関する訳書〔C. F. メンガー(石川敏行他訳)『ドイツ憲法思想史』(1988年、世界思想社)〕を入手できたことも幸いでした。何度読み返したかわからないくらい読んだのです。

 このブログで、私はかつて、法学部の学生は社会思想史を学ぶべきであるという趣旨を記しました。「法学部の1年生は、社会思想史を勉強しなさい!」(2012年10月10日21時40分45秒付)、「レッセ・フェール(laissez-faire)」(2012年11月06日02時11分05秒付)および「法学部の学生は、世界史(とくに社会思想史)を勉強しなさい!」(2015年04月15日00時48分26秒付)を御覧ください。

 今もその信念に変わりはありません。ただ、憲法史、法制史というような分野にも目を通すとよい、ということを付け加えておきましょう。政治史、政治思想史でもよいです(かなり多くの部分で、憲法史、政治史、政治思想史は重なります)。何故、今の制度はこうなっているのか、その制度の背景は何であるのか、ということを知るには、結局、過去の経緯に遡らざるをえないからです。

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2011年4月4日、梶が谷駅

2019年12月30日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第419回:「東急田園都市線途中下車(11) 梶が谷駅(その1)」(2011年5月28日〜6月4日掲載)

 第420回:「東急田園都市線途中下車(11) 梶が谷駅(その2)」(2011年6月4日〜10日掲載)

 いずれも、写真撮影日は2011年4月4日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 1963(昭和38)年10月11日、大井町線(大井町~溝ノ口)が田園都市線と改称されました。それ以前から多摩田園都市計画が実行に移されており、当時の高津区野川が第1弾として完成しています(おそらく現在の宮前区野川でしょう。野川の一部は高津区ですが)。そして、1966(昭和41)年4月1日、田園都市線の溝の口~長津田が開業しました。これにより、梶が谷、宮崎台、宮前平、鷺沼、たまプラーザ、江田、市が尾、藤が丘、青葉台、田奈、長津田の各駅が一斉に開業します(あざみ野駅だけは昭和52年、西暦に直せば1977年、5月25日の開業です)。

 田園都市線に乗れば、多摩田園都市計画の範囲がよくわかります。溝の口駅から下り電車に乗ると、ほどなくトンネルに入ります。それを抜けるとすぐに梶が谷駅に着きますが、二子新地駅から溝の口駅までと梶が谷駅とでは、風景の違いが大き過ぎて同じ川崎市高津区とは思えません。まして、溝の口駅と梶が谷駅とは800メートルしか離れていないのです。トンネルを境に、まるで別の市か県にやってきたように感じられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。多摩田園都市は梶が谷駅から中央林間駅までの間に展開しています。川崎市高津区に生まれ育った私も、田園都市線を渋谷~溝の口、溝の口~中央林間と区別するくらいでして、溝の口駅より奥は別世界と捉えてしまいます。

 そういうことで、今回は、溝の口駅より奥に展開する多摩田園都市の起点ともいうべき梶が谷駅を取り上げます。東急田園都市線途中下車シリーズの第11弾ということになります。

 梶が谷駅は川崎市高津区にあります。これまで、このシリーズでは二子新地、高津、溝の口を取り上げていますから、今回をもって高津区にある田園都市線の駅をすべて取り上げたことになります。駅名は「梶が谷」、地名は「梶ヶ谷」です。但し、この駅の所在地は高津区末長です。

 梶が谷駅には急行も準急も停車しませんが、運行上は重要な地点の一つとなっています。朝のラッシュ時にはここで急行または準急の退避が行われます。夕方のラッシュ時には原則として行われませんが、ダイヤが乱れた時には行われることがあります。また、おそらくは開業時から、宮崎台側に留置線があります。半蔵門線との相互乗り入れが本格化するまで、田園都市線には梶が谷で折り返す電車が走っていました。そのために留置線があったのです。現在、この留置線は大井町線の急行として運用される新6000系が止まっていることが多いようです。

 また、右のほうには車庫があります。こちらは最近できたもので、大井町線の急行として運用される新6000系がこの車庫に入ります。

 奥にトンネルがあります。その上が道路になっていて、末長と梶ヶ谷の境界になっています。トンネルの左側に、私がよく行く家電店の一つ、コジマNEW梶ヶ谷店が見えます。ここは私が大分大学に勤務していた頃に開店しました。それ以前はメイツレーン梶ヶ谷というボーリング場で、その1階にドアーズというホームセンター(ディスカウントショップ?)がありました。幼い頃、父に連れられてよく行ったものです。

 駅は2面4線、右側から1番線、2番線、3番線、4番線で、1番線と2番線が下り、3番線と4番線が上りです。2番線は急行の通過待ちをする各駅停車が止まります。また、4番線は、いつからかわかりませんが通過電車用となりました。

 ここは身代り不動の最寄駅でもあります。駅から徒歩で8分ほどの所にあります。起伏があるのですが、歩いて行くか、車で行くか、ということになります。実は「身代り不動尊前」というバス停もあるのですが、梶が谷駅からであれば1日1本、20時台にあるだけです。高津営業所へ行くバスですが、早い話が車庫に入るための回送のようなバスでして、1本だけがお客を乗せるという訳です。

 大井町線用の8090系が回送として走ってきました。早朝の上りの何本かが鷺沼から大井町へ、夕方以降の下りの何本かが大井町から鷺沼まで走ります。鷺沼に車庫があるためです。3月の震災以降、節電ダイヤとなっていますので、大井町線の場合、日中は大井町~二子玉川のみの営業運行となっています。

 こちらは4番線のホームです。何年か前までは、こちらでも乗降が可能でした。たしか、3番線が急行または準急(1980年代までは快速)の通過待ちをする電車のホームで、4番線がそれ以外の各駅停車のホームでした。急行または準急(快速)は、以前から4番線を通過していました。この先、ホームの途中にポイントがあり、大井町線の車庫への出入りをする電車を見ることがあります。今では通過専用のホームとなり、乗降ができません。

 田園都市線では、江田駅にも通過列車専用ホームがあります。下り電車の1番線と上り電車の3番線で、どちらにも柵が設けられています。また、欠番(?)がある駅もあります。大井町線が乗り入れる二子新地駅と高津駅には、2番線と3番線のホームがなく、田園都市線のホームは下り電車の1番線と上り電車の4番線しかありません。藤が丘駅にも2番線のホームがありません(ホームは下り電車の1番線と上り電車の3番線です)。ついでに記すならば、東横線と目黒線の元住吉には1番線と6番線のホームがありません(1番線は東横線の下り通過列車用、6番線は東横線の上り通過列車用です)。

 

 梶が谷駅は急行・準急通過駅ですが、運行において重要な駅の一つであり、構内も広くなっています。駅には大井町線急行電車のための車庫があり、その反対側に保線区の施設があります。

 保線用のディーゼル機関車が置かれています。クレーンも装備しています。これらは車両として扱われていないようです(東急に限ったことではありません)。保線作業を見る機会はなかなかないものです。

 マルティプルタイタンパー、通称マルタイです。線路の下に敷かれている石(バラスト)の高さを調整し、敷き直し、つき固めを行います。これによって線路の高さを調整することになりますが、この機械は線路を持ち上げることにも使います。また、線路が曲がっていてはどうしようもありませんから、修正もしなければなりません。これもマルタイで行います。安全な運行のためには必要不可欠な機械であるということです。

 マルタイの後にもディーゼル機関車があります。昔の国鉄のディーゼル機関車、DD16のような姿です。何のために使われるのかはわかりませんが、他の車両を牽引するのでしょうか。前部に機械が取り付けられていることがわかります。

 再び、宮崎台側の留置線です。手前にも保線用の機械が置かれています。留置線に旧5000系や7200系などが置かれていた1970年代を思い出します。現在のように10両編成が行き交うようになったのは1980年代になってからのことで、1970年代には本数も少なく、旧3000系、旧5000系、5200系、旧6000系、旧7000系など、ほとんど全系列と言ってよいほど様々な車両が、3両とか4両とかで走っていました。また、不定期列車もありました。そもそも、大井町から走ってきてこの駅止まりという電車すらありました。

 梶が谷駅の建物です。改札口は一箇所だけです。最近リニューアルされた東急線の駅には、改札口、自動券売機コーナーのスペースが広くとられている構造の所が多いのですが、この駅は昔ながらの私鉄の小駅という感じを強く残しています。開業してから45年、基本的な構造は変わっていないはずです。私自身は梶が谷駅を利用する機会をあまり持たなかったのですが、近くを通ることが多かったので、何度となく駅舎だけは見ていたのでした。駅の隣、この写真で言えば左側に東急ストアがあるという点も、何十年もの間に変わっていないはずです。

 もっとも、全く何も変わっていない訳でもありません。自動改札機の奥には1000円理容のQBハウスがありますが、これは最近のものでしょう。ただ、それ以前に何があったのかはわかりません。

コメント (4)
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