ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

JR板橋駅前にある近藤勇の墓所

2013年06月06日 00時04分25秒 | まち歩き

 西武多摩湖線の一橋学園駅のそば、小平市内の国土交通大学校での仕事を終えて、高島平の大東文化大学板橋校舎に向かいます。国分寺から中央本線に乗り、新宿で埼京線に乗り換えました。通常であれば池袋で東上線に乗り換えるのでしょうが、私は次の板橋で降りました。

 板橋駅は、JRの駅としては唯一の板橋区所在駅ですが、駅の東口は北区滝野川となっています。地図を見るとかなり複雑で、この駅に板橋区、北区および豊島区の境界があり、駅のホームは豊島区にもかかっています(近くにある東上線下板橋駅は豊島区にあります)。

さて、その板橋駅の東口、北区滝野川に、近藤勇の墓所があります。実はこのことを全く知らず、実際に見て驚きました。

詳しいことはわからないのですが、北区滝野川と板橋区板橋にまたがった所に板橋刑場があり、近藤勇はこの刑場で斬首されました。1868(慶應4)年4月25日のことです。

ちなみに、墓所とは言いますが、実際に埋葬されているのはここではないそうです(あるいは、当初はここに埋葬されたが後に移されたのかもしれません)。

 敷地内には立像もあります。彼については写真も残されていますので、見比べてみるのもよいでしょう。

 1834(天保5)年、武蔵は石原に生まれます。現在の調布市(あるいは三鷹市)の出身ということになります。父は宮川久次で、近藤周助という幕臣の養子となります。勇とは通称で、昌宜が本名ということです(幼名は異なります)。1863(文久3)年、勇は新撰組の前身である浪士隊に入ります。新撰組となり、その幹部となった彼は、1864(元治元)年の池田屋事件において自ら攘夷派の拠点に切り込んだのでした。局長として活躍した勇は、鳥羽・伏見の戦いには参加できず、新撰組も敗れます。そして、甲陽鎮撫隊を編成して甲府を占拠しようとしましたが官軍に敗れました。この際に永倉新八などが離脱します。そして、勇は下総の流山で捕えられました。大久保姓を名乗ったものの、やがて正体が見破られてしまい、斬首となった訳です。

 近くで写した訳ではないのでわかりにくくなってしまいましたが、碑の右側には近藤勇、左側には土方歳三の名が刻まれています。新撰組の副長であった土方は、1835(天保6)年、現在の東京都日野市に生まれ、1869(明治2)年5月11日、函館(当時は箱館)での五稜郭の戦いで戦死します。

 墓所には永倉新八の墓もあります。彼は新撰組でトップを争う剣豪の一人ですが、元々は松前藩士であり(但し、出生地は現在の東京都台東区)、脱藩して新撰組に入るのですが、近藤勇と対立する場面も幾度かあり、ついに、上述のように袂を分かちます。その後も新政府軍に抵抗したようですが、杉村家の婿養子となり、小樽に移住したとのことです。死没地も小樽で、彼は1915(大正4)年まで生きました。別れたとは言え、終生、近藤勇および土方歳三のことを思っていたようで、滝野川の墓所を建立したのは永倉でした。他人の心情は理解できないものですが、路線では対立していても慕ったり敬ったりする気持ちはあるのでしょう。近藤の刑死、土方の戦死が、永倉の思いを変えたのかもしれません。あるいは懐かしさなのか。いずれにせよ、彼ら三人は、たとえ短い一時であったとは言え、同士だったのです。 


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