望月の 花の小雪を 酒に映し
馬糞 Bafun
数年ぶりに、海の中道公園の桜を楽しんだ。
おそらくは福岡で一番の花であろう。
小雨の花見だったが、それも風情がある。
西行の望月の頃の花である。
清明の頃、桜といわず、さまざまな花が咲き乱れる。
毎年迎える春ではあるが、なんと味わい深いことか。
それは明らかに「善」なる世界である。
善とは、明るく、清清しく、味わい深い。
《裁き心・・・悪への落とし穴》 この世にもあの世にも、善と悪がある。
しかし、あの世の悪は、地獄に封鎖されている。
魂もエネルギーなくしては生きられないから、地獄は、北朝鮮のよ
うに疲弊して飢えと恐怖と病に犯され、吸血鬼のようにこの世の人間
にとり付いて吸血するほかはない。
この世の悪も暗躍するほかはないのだが、善なる世界に混在して
いるから厄介だ。
悪とは、失望、恐怖、嫉妬、恨み、自我我欲・・・、すなわち自己中
心という思い違いからくる排他的な人生観、人間観である。
それが、他人を害することを正当化しているのである。
ある意味で、裁き心というべきではないだろうか。
正しく生きているつもりでいても、この、裁き心こそは落とし穴である。
裁きの基準が、「被害者である自分」を中心とする自己中心に他な
らないからである。
イエスキリストが、「汝、裁くことなかれ」と教えたのは、裁き心が悪
を正当化する落とし穴になるからだと気付く。
己の裁き心こそは、獅子身中の虫、己心の魔であるということなの
である。
人々を悪から守るためには、悪を制裁する公権力が悪を見逃さな
いように充実していることが肝腎である。
制裁とは、摘発し、隔離することである。
再教育は、仕事能力と道徳を施すことだ。
再犯には、死刑を含めて厳罰に処すべきであろう。
《企業の教育責任》
この世の教育機関としては、企業の教育責任を忘れてはならない。
雇用は、生活を成り立たせ、社会生活のルールを叩き込み、犯罪
の制裁を克服して復帰してきた者にチャンスを与える責任がある。
このような雇用を成り立たせるためには、価格競争に依存するよ
うな企業には無理である。
無理だということは、価格競争は正当な競争のルールを逸脱して
いるということを示唆するであろう。
そこにも、企業倫理がある。
《消費者倫理》
消費者も、価格競争を求めてはならない。安ければよいという安易
な貪りが、ワーキングプアを生み出してもいる。
安いということを、正当な競争力とする経済学は、競争のあるべき
ルールを無視した拝金主義経済学というべきであろう。
企業は、先行投資として、貧困ならざる報酬を投資せよ。
それが、リーダーとしての責任でもあるはずである。
経済活動の意義は、貧困の追放にあることを忘れてはならない。
消費者は、投資価値としての質の高さを善なる消費であると知る
べし。
低価格主義の消費は、一種の拝金主義である。
倹約すべきは浪費であって、投資ではない。
学校の教育責任と家庭の教育責任が対であるように、企業倫理
と消費者倫理もまた、対の関係である。
投資とは、人々の役に立つ消費に他ならない。自分を生かし、他
人を生かす道である。
新しい経済の倫理を確立しなければならない。
梅士 Baishi
望月の 諸行無常の 花の下
ひとひら舞いぬ 薄紅の花
白川 馬草 Magusa