その花も 花の命の ままに散り
馬糞 Bafun
桜花は、維新の志士のごとく、若々しく咲いたままに散ってゆく。
老いてゆくのも悲しいが、若い面影のままに別れて行くのも悲しい
ものだ。
しかし、花は散れども、季節は巡る。
諸行無常の人生観は、一期一会の花鳥風月を愛でつつも、死に甲
斐を求める修行の旅である。
その旅は、三途の川を越えても続く。
死ぬということは、一幕のこの世の人生ドラマを終えるということで
あるが、そのドラマを素材にして、あの世での課題研究が始まる。
そしてまた、未来に転生する。
諸行無常とは、永遠の時を駆けてゆく学びであり、一万年一昔という
大きな文明への取り組みでもある。
散る一花に思いを寄せつつも、一万年一節のロマンにも生きている
ということである。
人生はまさに、気宇壮大である。
倫理道徳教育が仕込まれつつあるが、ちんまく生きることではない。
人の輪も、人の道も、無限の宇宙に通じるロマン街道でもあるのだ。
だからこそ、自己中心であってはならない、他人のために己を発展さ
せよと教えられるのである。
愛と慈悲、智慧と勇気が、やりがいを生み、生きがいを生み出す。
やる気が出ない、生きがいがないというのは、自己中心の思いを捨
てていないからである。
それこそが、不幸の鎖なのだ。
死に甲斐とは、自己中心の思いを捨てることに他ならない。
他人のために、時代のために、命を惜しまないという生き方に他な
らない。
花もまた、散ってこそ美しく、また、新たな春に花を咲かせるのだ。
転生輪廻とは、巡る季節の花のようでもある。
転生輪廻は、この世限りの唯物論的人生観からは生まれない。
この世限りの人生であるならば、この世限りに楽しく自己中心に生き
ることを間違っているとはいえないであろう。
老後を悠々自適に海外ですごすことが流行っている。
しかし、悠々自適に過ごすなら、あの世で十分である。
この世は、死ぬまで学び、死ぬまで修行に努める場所だからである。
心安らかであることは、老後には大切であるが、修行者であることを
悟るならば、如何なるときも心安らかである。
それが修行の課題でもあるからだ。
倫理道徳とは、このような人生観を教えることである。
転生輪廻の理をしらずして、倫理道徳の根拠を語ること能わず、と知
るべきである。
しからざれば、死は恐怖であり、死はあまりにも空しい。
いずれ死ぬる人生に、生きる意味を見出すことは難しい。
自分がよければよいという人生観に分があるということにもなろう。
しかしながら、そもそも、因果の法則に終末があれば、論理として成
り立たない。
原因結果の法則があるということは、「存在」は変化してやまない、
永遠の存在であることを示唆しているのである。
その永遠を語るとき、そこに仏神の存在を悟らざるを得なくなる。
それが、論理のむこうにある洞察というものであろう。
アインシュタインが、特殊相対性理論の果てに、神を悟ったように・・・。
プラトンが説いた「無知の知」もまた、ああ、なんと、無限であること
よ・・・。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi
花ごとに 巡る輪廻の 彼岸かな
馬糞 Bafun
咲き誇る 花は輪廻の 花吹雪
吹き渡りたる 彼岸にも咲き
白川 馬草 Magusa
長い時を駆ける者にとって、この世はあまりにも短すぎる。
転生輪廻なくして、どうして走り続けられようか。
どうして、死を受け入れられようか。
転生輪廻は仏神の慈悲であり、存在の理由である。
梅士 Baishi