春眠の 山の寝息の 雲流れ
馬馬糞 Bafun
Bafun
忙中閑あり。草木目覚めて花を咲かせ新緑を伸ばして
いる。
生き物たちは巣作りに、えさ集めに多忙である。
人もまた、新年度の仕度にあわただしい。
そうした生き物たちが駆け回っている春山は、忙中閑あり
というように、のんびりと春眠を楽しんでいるように見える。
そんな雲を見ていると、
「う~ん、忙中閑ありであることよ・・・」と、春眠同通、うと
うととする。
その春眠を揺り動かすように各地で地震が頻発している。
まだ、世紀末に預言された天変地異は終わっていない。
目覚めない自己中心の人間が多すぎるからであり、戦争
の世紀がまだ終焉しておらず、地球の喉元に核兵器を突き
つけているからである。
人口爆発地帯はチャイナやインドばかりではない。
地獄もまた急激に悪霊人口が増え続けているらしい。
暗く寒く、臭く汚い地獄が、悪霊の臭い息で充満している
のかと思うと、ぞっとする。
自殺者、邪淫の男女、詐欺強欲の徒、嘘つき、間違った
教育をしている教師、ごくつぶしの公務員、愚痴・不平不満
を撒き散らす根暗人間、暴力団、邪教教団・・・。
日本人の半数以上がその類だというから、天変地異でク
リーニングする最終手段も残っていて不思議はない。
《「敵」とは何か》
団塊の世代は、仮想敵がいなければ発展できない時代を
駆けてきたといえるかもしれない。
政治に物申す世代として権力を敵に回した。
貧困をみて育ったから資本主義を敵に回した。
それが、誤った反政府左翼運動となって大暴れした。
しかし、その熱もはしかのように治まって、夢から覚めた
ように就職し、アメリカの背中を追い詰めていった。
その彼らが、今年から大定年時代を迎えるというのであ
る。
その後に続く若者たちは、一体何のために競争し、努力
するのかと、自分の所在なさに迷っているように見える。
敵とは一体何のか。
敵の本質とは何か。
競争に欠かせない善なのか、それとも、地獄の鬼か。
発展に欠かせないのはライバルである。
しかし、競争には、よい競争とわるい競争があるように、
「敵」にも善悪がある。
善なる「敵」とは、発展の友というべきライバルである。
お互いにルールを守り、切磋琢磨してゆける、尊敬できる
相手である。
悪い「敵」とは、ルールも誠実さもない暴力闘争の輩であ
る。
いわば、暴力団のようなものである。
これは、発展する競争社会に対立する、悪質で陰険な「敵」
にほかならない。
ライバルと、発展障害とは区別しなければならない。
ライバルにたいしては、誠実に努力してゆけばよい。
問題は、悪質な「敵」にどう立ち向かうかである。
同時代に生きる人間の責任である。
人間社会の負の清算である。
だからこそ、司法権力が毅然として立ち上がらなければ
ならない。
これは、公権力の役割である。
悪に立ち向かうには、反社会的表象行動に対して予防
的に拘束隔離しなければならない。
ばい菌に感染したら殺菌処置をとるというのでは手遅れだ。
事前に抑制しなければならない。
ルールを守るという信頼関係はないのだから、駆除のた
めの識別と倫理道徳および職業訓練等の手段を講じる必
要がある。
だから、結果責任に終始する刑法理論は、見直されなけ
ればならない。
個人主義、自由主義の理想論からマイナーな世界に追い
やられてしまった近派の教育刑論は、根底から再評価され
なければならない時代に来ているのではないか。
刑罰の目的は行為責任としての応報刑だけでは不足である。
ルール無視の世界に、人権尊重のルールが機能するはず
もない。
どのルールを無視したかよりも、ルールを無視する価値観
そのものが再教育されなければならない。
反社会性の程度はさまざまであろうが、スポーツマンシップ
を共有し、フェアプレーの信頼関係がもてなければ、競技は
成り立たないのと同じことである。
国際政治でいえば、チャイナ・コリア・北朝鮮は悪質な障害、
まさに、「敵」である。
発展の必然ではなく、発展の障害である。
こうした国際障害政府に対して、ルール違反国家としての
レッテルを宣言し、制裁しなければならない。
コリアは一見まともそうだが、バンコクには、コリアの偽ブラ
ンド専門店が観光ガイドを使って暗躍している。
日本政府がチャイナ政府を国家として認定することは国際正
義に反する。
独裁政治が行われ、北朝鮮を傀儡とし、周辺国家を侵略し、
まともな法体系をもたず、環境破壊、不法経済は国際的混乱
を招いて止まない権力機構だからである。
他方で、台湾政府を国家として正式に認定しないことも正義
に反する。台湾が国家でなければ一体なんだというのか。
チャイナにおもねて、台湾を裏切るような政治姿勢では、筋
が通らない。
国際ルールを守らないことは悪であり、善悪は明示しなけ
れば、悪が正されることはない。
悪と同じ土俵に立つべきではない。
したがって、国際法上の国家の認定基準も見直されなけれ
ばならないであろう。
正義は貫かれなければならない。
ルールを守らず、約束を守らない国は、国家として認定すべ
きではない。
国際平和の障害だからである。
北朝鮮の核生産防止のための六ヶ国協議が成立する土俵
はないのである。
正義は、アメリカを最高責任者とする、核兵器撤廃の宣言で
あり、最終的に、アメリカが最後の核を廃棄するというプログ
ラムであろう。
そうでなければ、北朝鮮への核兵器放棄の要求は、所詮、
力の論理でしかない。
これを主張するのが日本の役割であろう。
政治の駆け引きは、正論が示された後の実施プロセスでは
あり得ても、正論なき駆け引きは、暴力団の体質とさして変わ
らないことになるであろう。
政治は神聖である。
襟を正して、叡智を持って行われるべきである。
梅士 Baishi