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+ 彼岸花のころ・・・ 円高立国論  大毘盧遮那仏・大川隆法、降臨の国

2010年09月09日 10時58分13秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

  彼岸花  しまいて逝きし  父のこと

     梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 あと二週間ほどで彼岸を迎える。

 彼岸となると、やはり父のことを思い出す。

 そんなことを予想もしないで、彼岸花の田畑を歩いたものだった。

 

 死ぬことは、おそれるべきことではない。

 霊界に帰るということであって、苦渋の世界から卒業するめでたいこ

とでさえある。

 しかし、この世を去る悲しみ、別れる悲しみがあり、病床にあると、そ

の苦痛もある。

 それが、死の苦しみではあろう。

 

 死とは、あの世への転生である。

 死そのものをおそれることは無い。

 しかし、この世の人生に十分な仕事をしないまま去ることはまことに

残念なことである。

 だからこそ、残された人生に悔いの無い努力をしなければならない。

 

 しかし、父は、十分に試練の人生を生きたと思う。

 夢を実現できなかった息子の行く末を案じる気持ちが残ったであろう

が、もはや親の責任ではない。

 子の夢は、父の夢でもあったであろう。

 そのことを申し訳なく思う。

 

 しかし、幸福の科学という奇跡の法門に入っているだけでも、誇りと

してよいことである。

 キリスト教徒としても、最も先進的なクリスチャンとして誇るべきであ

る。

 現代にあって、イエスキリストの言葉に接したのだから、全世界のキ

リスト教徒の中でも数少ない、選ばれたる者といってよい。 

 

 父のあの世における平安を祈りたい。

 戦争の時代を生き、炭鉱の厳しい仕事で子供を育て、自らすべての

老後の始末をしてこの世を去ったのである。

 立派な人生であったと改めて思う。

 その苦労に報いたいと思う。

  

 

 

 

 

 

 

 円高立国論 】 


 今の日本人にとって最も大切な立国論は、政教分離の邪念を払う

教えであろう。

 大川隆法著 幸福の科学出版刊『宗教立国の精神~ この国に精

神的主柱を』 を熟読することである。

 その理解なくしては、日本という国の存続は許されないことであろう。

 

 傍論として、円高に国家改造の示唆があるということについて問題

提起したい。

 円高とは、日本が世界から頼られていることを意味している。

 日本の価値が高く評価されていることを意味している。

 足し算だろうが引き算だろうが、頼りがいのない通貨を高く評価する

ことはありえないことである。

 

 すなわち、円高とは、頼られているのであるから、頼りがいのある実

力を発揮しなければならないという国際的使命を示唆しているのである。

 本物の国になれということである。

 高くても欲しいものを供給する国になれということである。

 

 そこで問題提起したいことは、高付加価値の産業技術の発揮だけ

ではないということである。

 それは何か。

 観光である。

 温泉ではない。

 仏陀再誕の地であり、宇宙人まで帰依して集まってくるほどの最高

大霊がこの日本に降臨しているということである。

  観よ、日本の光を!

 

 その正体は、聖武天皇が指揮して建造された奈良の大仏、大毘盧

遮那仏の本体こそは、大川隆法総裁の姿に他ならない。

 『太陽の法』など数百冊にのぼる法典がインチキといえないならば、

そういうことになる。

 悟りの力というより論理的にもそうなる。

 

 すなわち、世界最高大霊、エル・カンターレの国、日本というだけで、

世界中の人々が円高でも何でも参詣したい国なのである。

 地球最高大霊が降りている国の評価が低いはずがないではないか。

 円高には、そうした意図も隠されているように思う。

 

 大川隆法総裁のこの世の寿命も、残り三十年を切っている。

 日本滅亡の岐路に迷っている場合ではない。

 偏見を捨て、真実に気付かなければもはや日本人ではあるまい。

 天照様の厳しいお言葉も、そうした日本人のふがいなさに対する悔

しさでもあろう。

 

 円高から逃げてはならない。

 日本の使命を果たすべきである。 

 

         立憲女王国・神聖九州やまとの国

          梅士 Baishi        

          

 

・『1ドル55円という発想』⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/e643000cddecc0cb3a667d4e4d6b3b20

・『円高歓迎論』⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/9fb22e4682f1077b6c6218fcae4a28ee

・『円高を政府介入で妨害するな』⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/256f0676fd96af8c168b9ad27a286feb

 

 

 

  

 


 

  

 

 

 

 

 

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+ 日は秋にかしげつつ・・・ 「清濁併せ呑む」とは  愛に関するキリスト教と仏教の対照 

2010年09月09日 09時43分55秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

  秋方に  日をかしげつつ  もの思い 

     梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 台風2過、重陽の節句の今朝は気温26℃と冷え込んだ。

 残暑の句を一句出しそびれてしまった。

 

  汗をかく  こともまた良き  猛暑かな

     梅士 Baishi

 

  

 汗が噴出す夏はどうやら過ぎてしまったようである。

 諸行無常、台風が、夏を掃き出している。

 読書と思考に適した秋である。

 

 

 

 

 

 

 『清濁併せ呑む』とは~ キリスト教と仏教の「愛」についての対照】 


 自分は他人の好き嫌いが比較的はっきりとしている。

 嫌いな人間を敵と認定し、認識票が張られると容易にはがれない。

 食べ物に好き嫌いはないが、比較的米、味噌、魚が好きである。

 しかし、裁くという傾向がある。

 ずるがしこく、要領の良い人間が嫌いである。

 嘘をつく人間も嫌いだ。

 とがっているのはよいが、無礼で、自己中心の人間は嫌いである。

 愚かなのに偉そうにしている者も軽蔑する。

 

 清濁併せ呑むという大将の器ではない。

 敵味方をはっきりさせて、さてそれをどうするかと考える。

 忠誠心で働くのではなく、使命感で働く。

 いわば、貧乏くじを引きやすいタイプだろう。

 しかし、激動の戦いの中では役割があるだろう。

 道を開くことは、金魚のウンコタイプにはできないことだからである。

 

 しかし、清濁併せ呑むということは、参謀にも必要な度量である。

 それが、坂本竜馬の姿に思える。

 参謀と大将の器を兼ね備えている。

 仏神はまさに、清濁併せ呑んで育てている。

 これを愛といっている。

 修行の課題にほかならない。

 

 キリスト教の愛は、汝の敵を愛せよというのだから清濁併せ呑んで

いるのだが、敵と認定しているところが仏教よりも狭い。

 キリスト教はどうも裁きの性癖があるらしい。

 イエス様は別だが、キリスト教の生成過程で、爬虫類型人食宇宙

人による、レプタリアンが愛を学ぶための宗教になったという感じが

する。

 肉食後の懺悔の祈りであり、贖罪の人生観である。

 イエス様を食べてしまってごめんなさいから始まった宗教なのではな

いか。

 

 これに対して仏教は、折伏、悟りのことば、慈悲という待機説法で

味方に取り込んでゆく。

 敵ではなく、伝道の相手である。

 裁きである前に、法を伝えることを愛といっているのではないか。

 そこに度量の広さを感じる。

 

 同じ伝道でも、キリスト教の伝道は、罪から懺悔の帰依に導くが、

仏教は仏の偉大さへの共感から帰依に導く。

 宗教への帰依とは、もらう側から、与える側に転じることを意味する。

 いわば、仏神の使命を助けるために生きることを決意し、仏神の叡

智を学ぶために生きる修行の精神を持つ者となることである。

 

 ただし、大衆的信仰は、救われたいという自己保身に始まることが多

い。

 これはどの宗教にも共通の、いわば信仰入門的形態であろう。

 神社に詣でて神頼みするレベルでは、まだ信仰としては確立されて

いないというべきだろう。

 与える側には立っていないからである。

 宗教の教える「愛」とは、与えることに他ならない。

  

 

         立憲女王国・神聖九州やまとの国

          梅士 Baishi        

          

 

  

 


 

  

 

 

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