知らざれば 塩カズノコに 飛びあがり
梅士 Baishi
今日は、自転車通勤で運動不足である。
明日は一日汗を流したい。
さて、エル・カンターレ祭であったが、やはりリアルでなければなあ
と思う。
ましてや、録画では気が抜ける。
そんな風に、エル・カンターレは遠い存在になった。
駐車場整理をしながら総裁の講演会を聞いていた時代がわが黄
金時代であった。
乞食であっても転生して仏陀の法を学びたいという龍樹の願いに
比べたら恵まれた状況であったと思う。
仕事から直帰して、風呂に入り、プシュと缶ビールを開けた。
買ってきた数の子を口に入れて、その塩辛さと生臭さに飛び上がっ
た。
味付き数の子かと思ったら、単純な塩数の子だったのだ。
塩抜きは薄い塩水に8時間、また塩水を入れ替えて8時間かかる
のだそうである。
数の子を食べるにも伝統の技術と文化があったのかと驚いたこと
である。
正月の縁起物とはいえ、いやあ、数の子恐るべし。
もっとも、いまさら数の子を食べたところで子孫繁栄には縁のない
身ではある。
それとも・・・、まさか・・・、いやいや、本日を生野菜にしてはならな
いであろう。
まだ、非言語的コミュニケーション演習をしている。
非言語とは言語間隔ないし行間言語というべきか。
その極端な例が無視・無言という非言語かもしれない。
そうえいば、シカトという非言語があるが、これはコミュニケーション
とは最も対極をなす表現ではある。
信頼関係の破綻である。
職場にはよくみられる非言語である。
【 中国・朝鮮韓国・マスコミの悪知恵への発展的考察 】
エル・カンターレ祭の『智慧の挑戦』とはどんなだったろうか。
天使の智慧と悪魔の知恵のせめぎ合いがある。
地球霊界ではほぼ決着のついている対立であるが、地上では決着
がついていないというか、腹立たしくも一定の悪徳の支配がある。
善悪の対立は弁証法的運動法則の現れなのかもしれない。
もちろん、悪を正当化するものではないが、悪は未熟のいいわけで
あり、いいわけとして悪が存在していると言うべきかもしれない。
善に対して悪が競い立ち、その悪を制して免疫のある次なる善が
現れるという発展的運動法則である。
正・反・合という弁証法の「合」とは妥協ではなく、克服である。
悪は、未熟の一形態であり、発展への課題と方向性を示唆する症
状というべきかもしれない。
中国や韓国の悪態は、健全な国家のあるべき姿を示唆する症状で
あるとすれば、奪う政治としての権力闘争を反省しなければなるまい。
中国もマスコミも韓国も、嫉妬や猜疑心による知恵の発揮という共
通性がある。
それとは逆方向の知恵とは何か。
それは恐怖政治、嫉妬による収奪、責任転嫁の権力闘争を戒める
反省が求められる。
徳治政治、自助努力、責任ある自由、信仰が国家運営の基本にな
くてはならないことを意味している。
信仰とは、神の智慧に学ぶ姿勢であろう。
使命感であろう。
それにしても、悪に対して自分への戒めにするとして、どのように
対峙するべきなのか。
やはり、悪とは戦わなければならない。
法を説いて分からなければ、たたかねばならない。
体罰は必要な時がある。
天変地異がまさにそれである。
いかなるときにも、体罰が許されないというなら、刑罰も許されない
であろう。
ただし、体罰には教育的配慮、警告的手続きが必要なのである。
中国に対しては、その手段も尽きようとしている。
反省なき悪徳支配の国は亡びざるを得ない。
それが歴史の法則である。
最後の警告が発されていると知るべきなのである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党