葉桜の 残りし花を 湯に浮かべ
中村 梅士 Baishi
今朝の気温は13.5℃、寒の嵐が去って、平穏な朝が
戻った。
それにしても厳しい冬だったと思う。
爪を見ると、インフルエンザ以来体調を崩した跡が爪
の凹み線に表れていた。
冬のシベリアに行ったらどうなるのだろう。
花はほぼ散ってしまった。
入学式までは持たなかった。
代わりに牡丹桜が満開を迎えている。
別府から鉄輪まで向かう車道沿いには延々と牡丹桜の
並木道が続いていた。
牡丹桜は、まだ花の季節が続いていると言う安堵感を
与える花である。
牡丹桜が散るころの花吹雪はどか雪のようである。
そんな桜を楽しみたい。
さて、今日は新年度の初登城となる。
経営組織としての学校への関心は薄らいだが、無視す
るわけにもゆかない。
隠居席を与えられているのだから、新校長には挨拶し
ておこう。
D・カーネギーの法則を学習しなければならない。
自由とは自主的に道を選んで社会に貢献することであ
る。
自由は選択の自由に始まる。
しかし、選択するためには教学と演習の教育がいる。
そうした観点からの教育が欠けていると思う。
教育とは単なる技術的教学ではない。
技術の目的にある生き方、考え方を教えなければ教育
にはならない。
技術的選択の前に、人生観的役割の選択が必要だから
である。
それが志を生み、モチベーションを高める。
ところが、現代教育からは信じることの大切さや、正
義の観念が見失われてしまった。
何のために勉強するのかというと、受験競争に勝って
学歴優位のタイトルを取ることが目標となった。
しかし、その先がない。
官僚か、一流企業を目指すことに価値を感じれば、勝
ち組に繋がりやすい。
その先にある「国家百年の計」は見当たらない。
植民地国家の貧困とは、教育の堕落にある。
国家観を喪失し、目的論を喪失しているのである。
夢のある未来創造にこそ、選択の自由を開く教育であ
りたいものである。
実験実証されていないものは存在しないものであると
いう科学的偏見を排除すること、これも教育変革に欠か
せない重要な指針であることを忘れてはならない。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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