彼岸入り 櫓漕ぎ舟など 思い出し
中村 梅士 Baishi
今日は彼岸入りであった。
昨日、彼岸花を探訪したからもう十分に満足である。
長崎の墓参りは、父の命日に行こうかと思う。
ヤイドロンさまの霊言は、傲慢な原始人のような地球人類
にうんざりという内容だった。
肉体感覚にとらわれている価値観そのものがもはや人間に
値しないという苛立ちなのだろう。
たしかにそうなのだろうと思うが、霊界の記憶を消されて
地上に転生すると霊としての感覚は希薄にならざるを得ない
だろう。
例外を除いて霊的実在といっても見えず、観察することも
できない。
紆余曲折を経て、信仰にたどり着く者はいわばエリートで
ある。
大半の凡人は物質的な豊かさを経験すると、霊であること
を忘れるのは当然予想されることである。
地球文明が原始的なままで終わっているのは、転生輪廻の
負荷がきつすぎるということを意味しているのではないか。
ヤイドロン様はそこをどう考えておられるのだろうか。
なぜ、救世主の教えに学ばないのかということが不愉快な
のであろう。
まあ、たしかにそうだと思う。
『太陽の法』を読めば、それがフィクションで書ける内容
ではないことは、人間的知性からも分かることだからである。
ヤイドロン様は、あえて何度もため息をついて見せたのか
もしれない。
もう、いい加減に目覚めよと伝えるためである。
しかし、マスコミ人種を見れば、いかにも頑迷である。
共産主義者も同様である。
なぜだろうと、同じ地球人としても不可解に思う。
幸福の科学に出会わなかったらここまで確信を持つことは
なかっただろうが、大川隆法総裁の法に触れることのできる
時代に生まれたのだから、だれにもチャンスはあったのだ。
法が説かれ始めてからすでに30年以上もたつというのに、
いまだに軽んじているのだから、もはや自業自得であろう。
ヤイドロン様は裁きの神でもある。
生物とも言えないウィルスに憑依され、感染するのも自業
自得であるとため息をつかれるのである。
なぜそうなるのか。
ある意味、地球的転生輪廻の仕組みが、人類には厳しすぎ
るのかもしれない。
人間として下生した救世主を神とは認識できず、罪人とし
て殺してきたのは、学習課題としては重すぎたか、人類が粗
悪すぎたのか、現文明のリセットする決断を迫られているだ
ろう。
なんとも、残念なことである。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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