風月庵だより

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水を担いて河頭に売る

2008-06-21 22:50:42 | Weblog
6月21日(土)曇り【水を担いて河頭に売る】

岩手・宮城内陸地震が起きてから1週間がたちました。まだ行方不明の方全員の発見にはいたってないようです。突然の出来事で、一瞬にして命を落とされた方もいたことでしょう。ご冥福を祈るばかりです。

明日は我が身かもしれません。

さて、昨日帰りの電車の中で、私の子供時代の愛称を呼ぶ人がいます。横を見ましたら、弟の仲良しが立っていました。明日の土曜日は施茶せちゃをする、というので本日、母を連れてお茶をご馳走になりに行って参りました。彼はなかなかのお茶人で、洒落たお茶室をお持ちです。そして一ヶ月に一度は、ご近所の方を招いてお茶を接待してくださるというお気持ちこそ洒落ているといえましょう。

お茶室に足を入れまして、目に入ってきましたのは、床の間にかけられたお軸です。今日のブログ・タイトルの「擔水賣河頭」のお軸が掛けられていました。それは私の師匠がお書きになったものです。最近インターネットのオークションで手に入れたのだそうで、私のために掛けておいてくださったのですね。これも洒落たお心遣いといえましょう。

禅僧の書かれたお軸は読めない字も多いですが、師匠の作品に関しては、私は全て読むことができそうです。それはいつも傍でご揮毫なさるのを手伝っていたお陰なのですが、今回も弟の仲良しのお役にたつことができました。それで今日はこの禅語について少し書いてみます。書の文字は旧字を行書にくずして書いてあります。「擔水賣河頭」(水を擔にないて河頭かとうに賣る)と読みます。

河のほとりに水をかついで来て売る、河には蕩々と水が流れているのに、そこで水を売る情景を思い描いてください。はたしてそのようなことは必要でしょうか。それは端的に言えば、無用のことといえましょう。

ですから無用なことを表現するときに、「水を担いて河頭に売る」などと表現するのですが、師匠は、この世の一切のことは「壮大なる無駄事じゃ」と、時折におっしゃっていました。この禅語を読み解くのに、思い出されるお言葉です。

師匠の書かれた本を繙いてみますと「河の流れに随って、十分足りてあるすがたを会得してみれば、河頭に売っている水をほしがらぬ」とも書かれています。河に十分に水はあるのに外に何かを求めて、外に水を買おうとしているから自由の天地にいることができないのだ、ということでしょう。河頭に水を売っているような世界に引っ張り回されるな、と読むこともできましょう。ちょっと分かりづらいかもしれませんが、これは買い手側のほうから見ての見方です。「水を買う」側です。

「水を売る」側を見ますと、そんな余計事は無用ということになります。だからといって、決して否定的に言っているのではなく、自らのしていることはそうだと自覚することではないかと、私は思うわけです。壮大なる無駄事を敢えてしているのだ、自らの思慮、行為を自覚することともいえましょうか。

この言葉の出典を調べてみますと、『碧巌録』57則の頌の著語じゃくごにあります。「蚊虻が空裏の猛風を弄び、螻蟻が鉄柱を撼ゆる がそうとしている」という頌の部分につけられています。蚊やあぶが猛風の中でいかに立ち向かおうとも無駄ですし、けらや蟻が鉄柱をゆさぶろうとしていることは、無駄な努力ということはよくわかります。この語句につけられたちょっと一言のコメント(著語)が「水を担いて河頭に売る」というのです。なるほどと納得がいくでしょう。

しかし、蟻のような私ではありますが、敢えて鉄柱を揺り動かそうというようなことをしているのだ、というように受け取ることもできるわけです。禅語を読み解く切り口は、一つだけではありませんので、こんな解説を参考として、それぞれにお読みになってくださり、心の世界をひろげてください。