10月7日(木)曇り【『尾畠春夫のことば』を読む、その2】


尾畠さんのことは、ほとんどの方がご存知だと思いますので、マスコミで紹介されていることの紹介は不要でしょう。
少しだけ、生い立ちについて、紹介しておきたいと思います。
大分県国東氏で、1939年10月12日に生まれています。父親は下駄職人で、7人もの兄弟がいて、その三男だそうです。大変貧しかったそうで、いつも売れ残りのイワシを家族9人で食べていたそうです。お母さんは、尾畠さんが10歳の時に栄養失調で41才の若さでお亡くなりになってしまったそうです。お酒のみで愚痴ばかり言っているような父親だったそうですが、尾畠さんにだけ特に厳しく、体に傷がつくほど乱暴をしたそうです。ストレスのはけ口にされていたのかもしれない、と、表現していました。
小学5年生になったとき、尾畠さんだけ大きな農家に奉公に出されたのだそうです。10才か11才くらいでしょうか。朝4時に起き、馬の世話や牛の世話、田畑の仕事や、家の手伝い等夜寝るまで、休みなく働かされたのだそうです。それなのに、ご飯はお代わりをもらえなかったそうで、いつも空腹をかかえていて、牛馬の飼料の中から、腐った芋などをほじりだして食べ、飢えをしのいでいたのだそうです。育ち盛りの少年のうえに、朝から晩まで働かされるのですから、どんなにかひもじかったことでしょう。
それでも雨が降って仕事にならないとき、学校に行かせてもらえたときは、とても嬉しかったそうです。勉強が好きだったのですね。でも小学5年から中学3年の5年間で、3か月半くらいしか学校には行けなかったそうです。中学2年生の時、突然、この農家から暇を出されて、その次はパン屋さんに奉公に出されたのだそうです。
パン屋さんは朝が早く3時には起きてパンを仕込んで、焼きあがったらそれを配達したそうです。道は今のように舗装されていない泥だらけの道なので、やはり大変でしたのと、学校から遠くなってしまったので、通学できなくなってしまったのだそうです。でも主人たちは良い人で、きちんと食べさせてもらえたそうです。
中学を卒業してから、別府の魚屋さんで働くことになったのだそうで、そこで、お茶碗にご飯が山盛り、それも夢にまで見た白いご飯だったそうです。商売人になれば白米が沢山食べられる、これを一生の仕事にしようと、そしていつか自分の店を持ちたい、と目標を持ったのだそうです。
朝早くから遅くまで、がむしゃらに働き、店のご主人はしっかりと仕事を教えてくださったそうです。そこも奥さんが自分の身うちを呼び寄せたので、尾畠さんが要らなくったようで、解雇されてしまうのですが、そこのご主人は尾畠さんのことを気にかけてくれて、別の魚屋を紹介してくださったり、しばらくしたら、魚屋をやるならフグをさばくのを勉強せい、と言って下関の市場に行くようにとすゝめてくれたのだそうです。このおやっさんには、感謝したそうです。
下関でフグのさばき方や、魚の買い付けを一通り学んだのですが、10年で店を持とうと目標を決めていた尾畠さんは、あと残り4年は、お客さんとの会話の仕方や経営を学ぼうと、さらに神戸に修行の先を決めたのです。この時、21才。
神戸では「従業員募集」のあった大きなお店に飛び込んで、すぐにそこの主人に実地試験をされます。舌平目など4種類の魚のさばきをするようにいわれますが、すでに6年間一生懸命魚屋の腕を磨いてきていますから、尾畠さんの腕をみて、すぐに採用してくれたのだそうです。一か月後の給料袋を覗いて、とても驚いたそうです。今まで200円と300円でしたから、その倍くらいは頂けるだろうと思っていたのですが、中身はなんと6000円だったそうです。それでも貯金はあまり溜まらなかったそうです。この神戸時代の4年間では、「男大学」で男としても磨いたのだそうです。店を出すには十分なお金はありませんでした。
そこで、上京していたお兄さんが、お金をためるのなら東京で鳶職をやれ、と勧めてくれたのです。魚屋から鳶職とは、ずいぶん思い切った転職になりますが、3年と決めて、今度は男大学は全くしないで、慣れない鳶の仕事を、また必死で働いたのだそうです。1964年ですからオリンピックのあった年です。好景気の日本は建築関係の仕事はいくらでもあったのです。(私もアベベが高校の前を走ったことを覚えています。そんな頃、尾畠さんは蒲田の方で鳶として働いていたのですね。)
お給料の良いときは、5万円くらいあったそうです。今の相場とは違いますが、かなりの高給でしょう。3年と決めていたそうで、充分お店を持てるほど溜まったようです。しかし、尾畠さんの働きを見込んで、鳶の親方が半纏をくださったそうです。その意味は跡取りとしてどうか、という程の意味なのだそうですから、尾畠さんは何をやっても、誠心誠意、知恵も働かせて、どんな仕事でもプロの働きをなさるのですね。
子どもの頃、食べるものにも欠いた苦労や、朝早くから夜遅くまで働きどおしの苦労やら、父親の今でいう虐待にあったりしても、少しもめげず、不屈の精神と、目標を決めたら、それに向かって修業して腕を磨き、自力で独立を果たす気力、魚屋「魚春」を開業するまでの話はここまでです。
著者の白石かづこさんが本にまとめてくださったお蔭で、尾畠さんの人生から学ぶことが多いです。
尾畠さんの珠玉の言葉の数々の紹介は次にしたいと思います。
(たった今、かなり大きな地震の揺れがありました。猫たちが一斉に反応を示しました。大きな被害が無い事を祈ります。)