風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

『約束の旅路』

2007-05-26 23:36:39 | Weblog
5月26日(土)晴れ暑し【約束の旅路】(日の出、著作権の問題がありパンフレットの写真は使えないと思いますので、願いをこめて日の出にしました。)


あなたは「モーセ作戦」をご存じですか。「ソロモン作戦」をご存じですか。
『約束の旅路』という映画で私は知りました。

「モーセ作戦」と「ソロモン作戦」とはエチオピア系ユダヤ人をイスラエルに救出するために行われた作戦のことで、1984年11月から85年1月にかけて行われた作戦をモーセ作戦といい、91年に行われたのをソロモン作戦といった。スーダンの難民施設から、モーセ作戦では8000人、ソロモン作戦では15000人のエチオピア系ユダヤ人が、旱魃の危機から救われてイスラエルに移送されたのである。

エチオピア系ユダヤ人はアフリカの黒人の中で唯一のユダヤ人である。彼等は先祖代々ユダヤ教を信じ、いつの日か聖地エルサレムに帰還できることを夢みていた。その日がついに来たのだ。

時のイスラエルを掌握していたメンギスツ政権はエチオピア系ユダヤ人(ファラシャー土地を持たない者ーと侮蔑的に呼ばれている)の移住を禁じていた。彼等がスーダンまで逃れてきたら、そこから飛行機で脱出させるという計画が、アメリカとイスラエルの支援を受けて実行されたのである。

彼等はエチオピアを抜け出しスーダンの難民キャンプに辿り着くまで、徒歩で数千キロもの旅を続けた。途中で多くの人々が飢餓や病気で死んだり、裏切りにあって殺されたり、苦難の旅路であった。

しかし難民の中には、旱魃から逃れてきた、ユダヤ人ではないエチオピア人も多くいた。その中にこの映画の主人公、シュロモ(9歳)がいる。シュロモの母はたった一人残った家族のシュロモを、エチオピア系ユダヤ人として偽り、イスラエルに逃れさせようとしたのである。この難民キャンプで暮らすより、よいところに違いないことを母は知っていた。ちょうど同じ年頃の息子を失ったエチオピア系ユダヤ人の女性が彼を息子と偽って飛行機に乗せてくれたのである。

シュロモの母は言った。母にすがりついて離れようとしない幼い息子を突き放して言った。「行きなさい、生きて、そして(何かに)なりなさい」と。
これが原題の”Va,vis et deviens"である。

決してユダヤ人ではないということを言ってはならない、とその母にも、またイスラエルに連れて行ってくれた母代わりの女性が亡くなるときにも、シュロモは約束をさせられた。ユダヤ人でないとわかれば、直ちにスーダンに送り返されてしまうのだから。

シュロモは理解ある養父母とその家族の愛を受けて、成長する。この映画は彼が少年から青年になり、「国境無き医師団」の医師の一人としてスーダンに戻るまでが描かれている。そして……(最後のクライマックスであり、作者が訴えたかったシーンはこれからご覧になる人のために書くのは控えます)

6月1日まで神保町の岩波ホールで上映されているので、観に行くことのできる方には是非お勧めしたいので、これ以上は書きません。

私はこの映画を観て、世界を知ることは自らを知ることである、とあらためて感じました。世界には苦難の道を歩んでいる地球人類としての同朋がどれほどに多いことか。あらためてこのたび日本人としてこの時代に生きている自分を照らし観ます。

そしてアフリカの難民の人々を思います。未だ戦火のやまないイスラエルとパレスチナの人々を思います。イラクの人々を思います。アフガンの人々を思います。北朝鮮に拉致された人々を思います。貧困にあえぐ人々を思います。圧政に苦しむ人々を思います。幼くして過酷な労働を課せられている子供たちを思います。普通の生活が全ての人々に得られますように。

*『約束の旅路』監督ラデュ・ミヘイレアニュ(ルーマニア系ユダヤ人)、2005年フランス映画

もし観に行けない方には小説もでています。
*『約束の旅路』ラデュ・ミヘイレアニュ、アラン・デュグラン著 小梁吉章訳、集英社文庫

光市母子殺人事件公判について

2007-05-25 12:56:42 | Weblog
少年への死刑の適用争点 差し戻し審始まる 光母子殺害(朝日新聞) - goo ニュース

昨日この事件の差し戻し控訴審が広島高等裁判所で行われた。この事件の発生の4月14日が来るたびに香を手向けてより八年になる。本村洋氏の会見が報道されるたびに一貫して、父として夫としての氏の切実な主張に耳を傾けてきた。

今は26才になるこの犯人について、本村氏が極刑を望む姿勢に一点の曇りもない。それに比してこの度21人も付いたという弁護人は、なにを主張したいのか。この事件を通して死刑廃止を訴えたいのか。筋を違えていることも分からないのであろうか。

死刑廃止を訴えたいのなら、違う手段があるだろう。自分の主張を世に訴えたいとしてこの事件を利用しているにすぎないのではないか。この犯人の更正を真に望んでいるとは思えない。

さていつもは新聞を読まないのだが、今朝は駅のスタンドで新聞を買った。読売新聞を選んでみた。この事件に対してどのような報道が為されているか読んだ。

今朝テレビの報道を観ていて、あまりに呆れてしまった弁護側の主張を再検討してみたいと思ったのであるが、それについては記載がなかった。

記憶に頼って、弁護側の主張を書いておきたい。
「この少年は母親を失っており、母親にあまえるようなつもりで抱きついて殺してしまった。(強姦は)生き返らせようとして姦淫し、生をいれるつもりであった。(夕夏ちゃんの)首に紐を締めたのは蝶々結びをしてあげようとしたのだ。」

正確ではないかもしれないが、このようなことを弁護士が陳述したのである。この言葉にたいして、私がなにかコメントをつける必要はないだろう。

世の中はおかしくなってしまったのだろうか。弁護士ともあろう者がこのような事を述べるとは、世も末とはこのことだろう。

本当はこのような弁護士の汚れた言葉を我がログ上に載せたくはないのだが、これをご存じないかたの為にあえて書いた。

しかし文字で伝えるのが命の新聞報道であるが、このようなことまで報道してもらいたいものだと、これは別の問題であるが、たまたま読売新聞を購入して感じたことである。余計なことを多く報道するマスコミだが、必要なことは報道が足りない面もあることをこの事件であらためて知った。

あらためて本村弥生さんと夕夏ちゃんのご冥福を心より祈ります。そして本村洋さんのご健闘を祈らずにはおれません。

残酷では

2007-05-23 12:13:08 | Weblog
5月23日(水)晴れ【残酷では】

日曜日に聞いたTBSラジオでの話し。

ある芸能人だか社会的に活動している女性の話。

ストレスの多い生活で、蛙のペットを飼ったそうである。外国からの珍しい蛙で、ほとんどが顔のような蛙だそうで、一日中じっと動かないそうである。それを見ていると癒されるのだという。あまりに忙しい自分の生活に比して動かない蛙は癒しなのであろうか。

そしてこの蛙の餌は、「生きているコオロギの子どもなんです。毎日一匹ずつあげるんですよ」

そう言っていた。こともなげに。そして自分は癒されているのだという。

無題

2007-05-20 23:54:31 | Weblog
5月20日(日)晴れ【無題】(今は亡き友人のお母さんが描いて下さった合掌する童子です。これは転載不許可とさせて下さい。)

外に風が吹いている音がする。窓をほんの微かに開けておくと、風の音が聞こえてくる。今日は日中は暑いほどであったが、日が落ちる頃から気温は下がったようだ。

さて先週も目を覆いたいほどの事件があった。子の親殺し、それも猟奇的な殺し方でどうしてこのようなことができるか、誰も考えられないほどのことだ。特にそれが母であれば一層である。子どもの面倒を見に来て、その子に殺されるとは、母には全く考えられまい。一瞬でも目を覚ましたであろうから、いまだ悪夢の中にいるような状態なのではあるまいか。

このような場合、引導を渡す責任は特に重いであろう。

秋田の米山豪憲君が不慮の事故にあってしまったのは今月の17日であったが、あの事件も一年がたってしまった。あまりに次々に事件が起きてしまうので、前の事件は忘れ去られてしまっているようだが、うやむやにならないようにしてもらいたい。マスコミも、一つ一つの事件の後始末を報告してもらえると有り難い。

なぜこのように人間としての常軌を逸した事件を、日本の社会が生み出しているのか、真剣に考えなくてはならないだろう。現代は何を食べているか。実際に口にするものでも、心身のバランスを欠く食品が多いが、目にするもの、耳にするもの、手に触れるものなど、心身にとって影響を受ける多くのものが、バランスを欠くものであることを、改めて見直すことが必要であろう。

教育審議会などもあるようだが、是非考えていただきたいし、社会のバランスを保てるように、一人一人ができることを何かしら行動していきたい、と思う。僧侶の役割も大事だとつくづく思う。小さい子供たちには、特になにか話していきたい。きちんと話をすると、子供のうちは素直にきちんと聞いてくれる耳を持っている。

大人になってからでは遅い。この度の少年も、成績が落ちてしまったり、注目を浴びていた中学時代から一変しての高校生活の軌道修正をするチャンスはあったはずであろう。彼も、そしてアメリカの32人もの人を殺めた青年も観ていたという悪魔的なDVDのように、精神を害する作品のチェックは社会がしていかなくてはならないだろう。

そんな表面的なことではないという意見もあるだろうが、できることからなにかしなくては、日本社会はさらに危なくなるだろう。

あまりお役に立たない独り言を書きました。
今週も楽しくお過ごし下さいますよう。

前後際断について

2007-05-19 18:04:54 | Weblog
5月19日(土)曇り時々雨【前後際断について】 (昨日の茜雲の湧いたところ、今朝の雲は薄墨色)

先週、トラックに「前後断」と書かれていたことについて紹介した。しかし仏教語としては「前後断」が本来の文字であることも紹介した。そしてあまり人口に膾炙かいしゃしていない言葉ではなかろうか、と書いたのであるが、意外にもある野球選手のグローブに書かれていたりするそうである。その意味としては、前に投げた球にとらわれず、次の送球に全力を投ずる、というようなことであるそうだ。

やはり、前後を裁断するというような意味ととられているようである。果たして『大智度論』においてはどのような解釈がなされているか探してみた。『大智度論』は『摩訶般若波羅蜜多経(大品般若経だいぼんはんにゃきょう)』の注釈書である。
〈原文〉
云何菩薩摩訶薩為世間洲故發阿耨多羅三藐三菩提心。須菩提。若江河大海四邊水斷是名為洲。須菩提。色亦如是。前後際斷。受想行識前後際斷。乃至一切種智前後際斷。以是前後際斷故。一切法亦斷。須菩提。是一切法前後際斷故。即是寂滅即是妙寶。所謂空無所得。愛盡無餘離欲涅槃。須菩提。菩薩摩訶薩得阿耨多羅三藐三菩提時。以寂滅微妙法為眾生說。須菩提。是為菩薩摩訶薩為世間洲故發阿耨多羅三藐三菩提心。(『摩訶般若波羅蜜多経』巻十五「知識品第五十二」T8-332b)
〈訓読〉
云何なるを菩薩摩訶薩は、世間の洲の為の故、阿耨多羅三藐三菩提心を發おこすとなすや。須菩提よ。若し江河、大海の四邊の水を斷ずるは、是を名づけて洲と為す。須菩提よ。色も亦た是の如く、前後際が斷じ、受想行識も前後際が斷じ、乃至一切種智も前後際が斷ず。是の前後際を斷ずるを以ての故に、一切法も亦た斷ず。須菩提よ。是の一切法は前後際が斷ずるが故に、即ち是れ寂滅、即ち是れ妙寶なり。所謂いわゆる空にして所得無く、愛盡き餘無く欲を離れて涅槃す。須菩提よ、菩薩摩訶薩は、阿耨多羅三藐三菩提を得る時、寂滅微妙の法を以て衆生の為に說く。須菩提よ、是を菩薩摩訶薩は、世間の洲の為の故、阿耨多羅三藐三菩提心を發すというのである。(『摩訶般若波羅蜜多経』巻十五「知識品第五十二」T8-332b)
〈試訳〉
どのようなことを、菩薩摩訶薩は、世界の洲を見たことをきっかけとして、この上ない、正しい悟りの心をおこすというのであろうか。須菩提よ、江河、大海の四邊の水をせき止めらているのを、これを洲という。須菩提よ、色もまたこのように、前後際が断じており、受想行識も、また仏の智慧も、前後際が断じている。このように前後際が断じていることを以て、一切法もまた断じているのである。須菩提よ、この一切の法は前後際が断じているので、即ち寂滅、即ち妙宝なのである。よく言われるように、空であり、掴めるようなものではなく、執着は尽きて、煩悩は無く、欲を離れて、寂靜の境に入るのである。須菩提よ、このことを、菩薩摩訶薩は、世間の洲を見たことをきっかけとして、この上ない、正しい悟りの心をおこすというのである。

訂正「為世間洲」の訳について、フクロウ博士よりコメント欄にご意見を頂きました。〈「世間(生きとしいける者たち)のために、洲(よりどころ)となるために」と訳すほうがよいのかもしれません。〉と。また『小品般若経』の該当箇所には「為世間作洲(世間の為に洲を作す)」と鳩摩羅什(344~413)は訳していますのでよりはっきりと「洲」は「拠り所」と訳すのが妥当であるとお教え頂きました。そして洲という言葉に掛けて、さらに前後際断の説明の方便として使っていく、というということになるようです。上記の訳は間違っていますので、書き加えました。

『大智度論』の中には「前後際断」の語、それ自体についての注釈は無い。この箇所についての注釈としては、「究竟道」と「世間洲」についてあるので、その注釈のなかに前後際断について説かれているので、それをみてみたい。
〈原文〉
究竟道者所謂諸法實相畢竟空。色等法前際中無後際中亦無現在中亦無。凡夫人憶想分別業果報諸情力故有顛倒見。聖人以智慧眼觀之皆虛誑不實。如前後中亦爾。若無先後云何有中。能如是為衆生說法。則安處衆生於究竟第一道中。世間洲者如洲四邊無地。色等法亦如是。前後皆不可得。中間如究竟道中破。入前後空故。中間亦空。(『大智度論』巻七十一「釋善知識品第五十二」T25-558c))
〈訓読〉
究竟道とは、所謂、諸法實相畢竟空なり。色等の法は、前際の中にも無く、後際の中にも亦た無く、現在の中にも亦無し。凡夫の人は、業果報、諸の情力を憶想分別するが故、顛倒の見有り。聖人は、智慧の眼を以て之を觀るに、皆な虛誑きょおう不實なり。前後中の如きも亦た爾なり。若し先後無くんば云何が中有らん。能く是の如く衆生の為に法を説いて、則ち衆生を究竟第一道の中に安處す。世間洲とは、洲の如く、四邊に地無し。色等の法も亦た是の如し。前後皆な不可得なり。中間は究竟道の中に破するが如し。前後空に入るが故に、中間も亦た空なり

試訳をしても分かりずらいので(私自身にも難しいのだが)、説明を試みたい。

一切法は空であるのだから(全てのものには掴めるような自性はないのだから)、(次際に引きずって持って行くように続いていくものはなく)、前際(過去)も、後際(未来)も、中際(現在)も断滅しているのである。全てのことはそれ自体で存在しているのではなく、諸々の縁によってあるのであり(衆縁和合している)、実体がないのだから、先も後も中も断滅しているのである。

これが自分とも、これが自分のものとも掴めるようなものはないのだから、一切の執着を放ちなさい、という教えがあるのだと、「前後際断」の言葉を読み取ることになるだろう。

このことを衆生の為に説くのは、究竟第一道(この上ない最高の悟り)に安らがせたい為なのである、と『大智度論』では注釈しているわけである。

『大智度論』は現在さえも無い、と注釈しているが、過去と未来は無いが、絶対の現在はある、という受け取り方もあり、そのように解すると、「今を生きる」という解釈も出てくることになろう。このような解釈は多分に禅的解釈といえるだろう。

「前後際断」を一切を空であることを観て、執着しない生き方を学ぶか、過去や未来との対比として現在をとらえるのでなく、絶対の今の一瞬一瞬ととらえて、刻々を大事に生きるか、どちらの受け取り方もあり、であろう。

前後際断という一語にも、仏教の教えの根本が学べるのである。

トラック野郎の前後さいだんについて

2007-05-13 18:44:32 | Weblog
5月13日(日)曇り一時晴れ間あり【トラック野郎の前後さいだんについて】

環状八号線を走っていたら、「前後裁断」「今を生きる」と、横に大書しているトラックに出会った。それは2トン車のボックス型のトラックである。トラック野郎は好きなことを自分のトラックに書いたり、描いたり、色を塗ったりして楽しんでいるが、このような仏教的な言葉に出会ったのははじめてである。

そこで本日は「ぜんごさいだん」について、少し。
さて「前後さいだん」の字であるが、仏教経典のなかでは、「裁断」ではなく「際断」である。「前後際断」は前後際を断じる、という意味である。前後際とは、前際と後際のことであり、前際は過去、後際は未来、過去と未来を対立的に見る見解を裁断して、絶対の現在に生きること、と『禪學大辭典』(大修館書店)には書かれている。前後際・断であり、前後・裁断ではない。

しかしこの解釈はかなり意訳された一見解でもあるようだ。経典に説かれている『前後際断』の解釈については、前際と後際が断絶していることと言い、それは一切法が空であり、涅槃であること、真理を意味している。また前際は未来から言えば、現在であり、後際はさらなる未来を指す、というように、前際は過去、後際は未来というように固定的にはきめられない。


この言葉は道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」巻にも使われている。道元禅師はここに一箇所使われているだけのようだが、『大般若経』という経典の中には60箇所以上、その他『維摩経』などにも出てくる仏教語である。

このトラック野郎は、おそらく仏教経典の中に出てくる「前後際断」の言葉を知っていて、それを一箇所だけ変えて「前後裁断」として使ったのだと思う。一般的には前後を裁断して、「今に生きる」と続けた方が分かりやすいかもしれないが、それではせっかくの仏教語の本当の意味が失われてしまうので、やはり「前後際断」と大書してくれて、この字は何だ、と、疑問を持って貰った方がよいかもしれない。

一般的に有名な言葉の一箇所を変えて、面白みを狙った言葉などがあるが、「前後際断」はあまり有名ではない仏教語なので、そのまま使って貰う方がよいように思う。それとも前後・裁断のほうが、前後際・断よりも分かりやすいので良いではないかと、言われると果たしてなんと答えたらよいものか。皆さんはいかがお考えになりますか。

さて、このトラックははたしていかなる会社のトラックかと、社名を見ようとしたが、信号が変わってしまったので、読み取れなかったが、英文表記の文字が書かれていて、他の日本語は書かれていないようだった。

いろいろな仏教語を大書したトラックが、どんどん街を走ってくれて、あれは一体どんな意味か、と聞かれたりしたら面白いのだが、などと思ったことである。仏教語は確かに分からない言葉が多いのだが、今日は思いがけず「前後裁断」のトラック野郎のお陰で、「前後際断」を、学んでみた。

「前後際断」の本来の意味からはずれるが、今を刹那的に生きることではなく、前際と後際、それこそ悠久の過去も永劫の未来も全部ひっくるめて、凝集した現在只今を生ききること、と私は受け取った。そんな一日も暮れようとしている。今日は母の日、電子辞書が欲しいというので、プレゼントしました。

*前後際断について『大般若経』の一部を紹介します
此一切法前後際斷。即是寂滅微妙涅槃。
(一切法は前後際断であるが故に寂滅微妙涅槃である。)
*「前後際断」については後日再考します。

*恐縮ながらコメントの管理を管理人お任せで、しばらく試してみますので、宜しく。

お節介おばさんの弁

2007-05-12 22:59:42 | Weblog
5月12日(土)晴れ【お節介おばさんの弁】

朝、出勤途中の出来事。小学生の集団が、遠足にでも出かけるのだろうか、賑やかに駅前の一角にしゃがんでいた。そこに目の不自由な女性が杖をたよりに歩いて来た。引率の先生は、周章てて子供たちを後ろに下がらせた。その女性は気配に気づいて、足を止めたが、引率の先生こそ、その行く手をかなり遮ってしまっていた。

先生の立っている位置と子供たちの先頭の一列が坐っている場所は、視覚障害の人のための黄色の誘導用ブロックの上である。私は改札に行きかけたのであるが、思わず戻って先生にお願いした。「先生、そこは坐らせてはいけない場所です。子供たちにもこの機会に教えてあげて下さい」と。

日頃、何の気なく見過ごしているが、黄色の視覚障害者誘導用ブロックは駅や公共の場には設置されている。ホームの黄色の線も視覚障害の人のためのブロックである。以前はよく「白線まで下がってお待ち下さい」と駅の放送はあったが、それが黄色になったの「視覚障害者誘導用ブロック設置指針」が出されてからであろうか。(昭和60年に出された設置指針のコピーをこのログの最後にあげておきました)

私は時々お節介をするが、「完璧な人間でないのに、人に注意をするのは間違ってはいないだろうか」と、言う人がいる。確かに、間違いなく、私は完璧な人間などではない。むしろ欠陥人間のほうの部類である。しかし、何時の頃からか、自分もそのうちこの世から消えて無くなる、と思うようになってからだろうか、時々お節介おばさんを演じている。(もともとかしら?)

他人にお節介することは難しいし、資格はあるのか、と言われると、資格などは全くない。お節介をするときの基本は、お節介と認識しつつ、非難するのではなく、お願いをする気持ちで述べることだろうか。(しかし、いちいちそれほどに考えているわけではない)

ある時の事を思い出した。小学1、2年生位の少年が、横断歩道を行ったり来たりして遊んでいるのを目にしたときのことである。十字路にある横断歩道なので、危険きわまりないことをしているのである。私は車から降り、少年の手をつかまえて歩道に連れてきた。「坊や、危ないことをしてはだめよ。車にはねられたらどうするの。命は一つなのよ」と勿論注意した。少年は驚いたようにコクンと頷いた。

その少年の胸には名札がつけられていた。何年かたってもその名前を覚えている。彼の苗字は、大事な実印を、私が落としたときに、拾ってくださった人の苗字と同じだった。その人はその交差点の近くに住んでいるので、その家の子どもかもしれない。そうでないにしても助け合いが巡り会っているように、今でも思い出す。

やたらめたらにお節介をしているわけではないが、言われた人の気を害さないよう、気を付けたいとは思っている。ホームの端にじっと立って、電車が入ってくる放送をしているのに、動かない人を見れば、「さがった方がいいですよ」と言い、駅の階段などで、乳母車を抱え、さらに荷物を持つ母がいれば、荷物を持ってあげたり、できる範囲のお節介を焼いているだけのことである。そんなですから、今しばらくのお節介、お許しを。


*視覚障害誘導用ブロックについて:
昭和60年8月21日 都街発第23号 道企発第39号都市局街路課長・道路局企画課長から北海道開発局建設部長・沖縄総合事務局建設部長・各地方建設局道路部長・各都道府県土木部長・各指定市都市計画局長・土木部長・道路四公団担当部長あて
通達

 今般、別添のとおり、視覚障害者誘導用ブロック設置指針を作成したので、今後これによられたく通知する。 なお、「歩道および立体横断施設の構造について」の取扱いについて(昭和48年11月14日 都街発第57号、道企発第61号)のうち「2 その他留意事項 2)盲人対策」、参考図-8及び参考図-9は削除する。
別添
第1章 総 則
 1-1 目 的
 本指針は、視覚障害者誘導用ブロックの整備に関する一般的技術的指針を定め、その合理的な計画、設計、施工及び維持管理に資することを目的とする。
 
 1-2 適用の範囲
 本指針は、道路法の道路に視覚障害者誘導用ブロックを整備する場合に適用する。

 1-3 視覚障害者誘導用ブロックの定義
 視覚障害者誘導用ブロックは、視覚障害者が通常の歩行状態において、主に足の裏の触感覚でその存在及び大まかな形状を確認できるような突起を表面につけたブロックであり、道路及び沿道に関してある程度の情報を持って道路を歩行中の視覚障害者に、より正確な歩行位置と歩行方向を案内するための施設である。


ジャーマンアイリスが咲きました

2007-05-11 16:37:19 | Weblog
5年間、鉢の中で育てていたジャーマンアイリスが遂に咲きました。デジタルカメラで写した画像の、ブログデビューにお目見えです。
友人のお蔭でなんとかブログに写真を載せることができそうです。(では。これから「投稿」を押します。果たして如何に。)

画像をクリックしてくださると拡大できます

再び戒名について

2007-05-06 22:01:14 | Weblog
5月6日(日)雨一時激しく降る【再び戒名について】

御陰様で頼まれていた仕事が終わり、宅急便で送り出すことができた。懸念の仕事が一段落すると、やはり万歳と言いたくなる。そこに友人からお茶会のご招待をいただいたので、喜んで出かけてきた。お茶席の名は葵庵きあんである。

真言宗で最近出家したR尼さんと一緒にお招き頂いた。二人の尼僧を迎えるのに、大石順教尼が描いた三猿の図のお軸を架けてくれていた。ご存じとは思うが、両腕を斬られてしまった順教尼は、口に筆を銜えて絵も字も書かれた。それができるようになるまで、どんなにか努力なさったことか。

お膳は、ご亭主が手打ちのお蕎麦と、知る人は知るであろう美酒の「田酒」をご馳走になった。お椀には筍と蕗、小鉢には独活と若布の和え物、これらは料理上手の奥さまの手料理である。それからお濃い茶とお薄を点てていただき、ゆったりとした時を楽しませていただいた。

昨日は地球人類の滅亡と地球の滅亡について、ログを書かせてもらったが、今日はまた穏やかな時の流れをお茶席で味わわせて頂き、その後に、戒名について書くのもなんですが、だからこそ、と言ってもいいかもしれないが、ちょっと一筆書かせて頂きたい。

戒名には本来、差が無いのだということを先ず申しあげたい。佛法のもと、全ての人は平等であることを、釈尊はお説きになられた。佛弟子に階級的な差があることは教義に反することでさえある。院号が付いているか、いないかによって、なんの差もないことを理解していただきたい。私は室町時代の香語を研究したが、その時代、戒名として院号の付いている人は一ヵ寺を寄進したような人か、大名につけられていたのであり、普通には全く使われなかった称号である。

それをいつの頃からか、一般的に使われるようになったのであるが、院号を付けて貰うのに多額の請求や寄付を要求されたと言い、それをおかしいという人がいるが、それは筋が違っている意見である。社会で活躍したので、どうしても付けて欲しいというのであれば、一ヵ寺を寄進するに等しいか、余程お寺に貢献するに等しいことをしなくてはならないだろう。

それなのにあの寺は高いだとか、金儲けだとか言うのは、筋が違っているということを理解してもらいたい。そして、できるならば院号など戒名に付けて貰わないことをおすすめしたい。院号などつけなくとも全く問題は無い。先頃、あるお寺で高いことを言われたのでおかしいから、私に院号を付けて貰いたいということを頼まれて、本当に困った。院号を、売り買いの称号のように勘違いされている人がいらっしゃるようなので、あらためて書かせていただいた。このログをお読み下さる方だけでも、このような間違いはなさらないようにしていただきたい。

それとも世の中の方は日頃お寺へのお布施が少ないとでも思われて、多額のお布施をしてくださりたいので院号を望まれるのであろうか。

日頃お寺や仏教と無縁の生活をしていて、仏事だけでのおつきあいが多いと、いろいろな仏事に関しての誤解が生じるのかもしれない。知り合いの女性だが、死期が近いことを知って、日頃から信仰しているあちこちのお寺に財産をお布施なさった。しかも院号などはのぞまれなかった。


地球人類の滅亡や地球の滅亡を考えるとき、戒名に院号を付ける、付けないなどと執着することは論外のことであると思う。法のもとの平等を真剣に学びたい。そして、たとえ地球最後の日であっても、ゆったりとお茶を点て、ゆったりと一服を楽しむような生き方をしたいものだと願うのである。