風月庵だより

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老老介護記 南無釋迦牟尼佛

2019-02-28 13:44:28 | Weblog

2月28日(木)雨【老老介護記 南無釋迦牟尼佛】

久しぶりの雨です。このところ母はお寺にいますので、毎晩のトイレ介助で少々バテ気味です。101歳まではなんとか自分で介護をしてきましたが、102歳になってからは、母の身体的機能もだいぶ衰えたので、施設の力を大々的にお借りすることになりました。今、預かってもらっている施設は、相談員の方の目もよく行き届いていて、施設のなかも清潔ですし、食事がとてもおいしいと母が言いますので、本当になによりの施設に入れてよかったと、つくづく感謝しています。

母も、かなり幻覚や幻聴が時々あるようで、施設でテレビを観ていますと、テレビの中の人が自分に逢いに来てくれたと錯覚を起こしたり、お部屋の電気が、私の名を呼び続けている、と言ってみたりしています。

もし、自分も母と同じ歳まで命があったとしたら、そのようになってしまうのか、と思うと、そうならない前になんとか帰りたいと切実に思うのです。ただ、恐らくそれほどの長生きはできないでしょうから、心配ご無用といったところでしょう。この世の命に区切りがあるということは、実に不思議ですね。

目をつぶる前には、「南無釋迦牟尼佛」と称えられたら、最高だと思っています。

(本師、余語翠巖老師にご揮毫いただいた半切の南無釋迦牟尼佛を縮小して額装にしました。昨年の晋山式の記念品としました。この中の印刷されたものはありますので、ご自分で額装なさろうという方は、ご一報ください。ただし、このブログの主人である、私をご存知の方のみになりますが、お葉書を下さい。)

 

#南無釋迦牟尼佛

#余語翠巖老師

#老老介護

#幻聴

#幻覚


『法華経』メモ「譬喩品」1

2019-02-26 10:42:51 | Weblog

2月26日(火)晴れ【『法華経』メモ「譬喩品」1】

「譬喩品」には、〈火宅の喩〉が説かれています。火の燃え盛る邸宅から、遊びに夢中になっている息子たちをなんとか救い出したいと願う、その家の主人は、方便を使って救い出すことを考えた。つまり羊車、鹿車、牛車の玩具で、宝もので見事に飾られた玩具を、この邸宅の外に置いたから、さあ、出てきてそれで遊びなさい、と告げたのです。

それを聞いた子どもたちは、喜び勇んで、外に出てきました。これで燃え盛る邸宅から出ることができたのです。子どもたちはお父さんに言いました。先ほどおっしゃった三種類の乗り物をください、と。

それに対して、与えられたのは、ただ一種類の大白牛車(だいびゃくごしゃ)です。真珠や宝珠で飾られ、黄金の花輪で飾られ等々、大変に立派な本物の乗り物でした。

三界において愛欲に執着して生きる子どもたちは、救い出そうとする親の言葉に耳を傾けないので、方便を用いて、救い出したのである、と説かれます。

汝、舎利弗よ「私は、それらの平等である息子たちのために直ちに、この最も勝れた譬喩によって、この[ただ]一つのブッダになる乗り物(一仏乗)を説くのである。あなたたちは[それを]受け入れるがよい。すべてが、勝利者[であるブッダ]となるであろう。」(植木雅俊訳)

と、ここでも、すべての人が、ブッダに成れることが説かれている。[そのブッダに到る乗り物には、]「無量億千の諸の力・解脱・禅定・智慧及び仏の余の法あり。(訓読の個所)

この個所ですが、解脱や禅定や智慧や多くの力は、大白牛車に乗って、修行の末に得られる状態であり、乗りさえすれば棚ぼた式に得られるものではない。やはり修行してのことです。この譬喩について、三車か四車、法論がなされてきましたが、牛車(菩薩乗)と大白牛車(一仏乗)が同じか別かの論争です。皆さん、ご承知の論争です。法相宗の基は三車家、天台智顗、光宅寺法雲、華厳の法蔵は四車家とされている、と辞典にありますが、植木先生の訳は、四車の方の解釈としてとらえてよいでしょうか。

この乗り物に乗って、いかにしてブッダに成りうるか、「譬喩品」においても「四聖諦」が説かれています。苦諦・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)の四諦です。

(恐れ多くも『法華経』に添える写真は、三匹の外猫ちゃんたちです。初めてこんなシーンを見ましたので。)

#『法華経』

#「譬喩品」

 


塩尻和子先生最終講義 

2019-02-24 21:26:25 | Weblog

2月24日(日)晴れ【塩尻和子先生最終講義】

今日は昨日の冷たい北風と違い、日中は割合に暖かい日でした。今日は納骨の方がありましたので、昨日の強い北風とは違い、助かりました。

それにしましても、昨日の風は強く、その上冷たい風でした。そのような天候でしたが、塩尻先生の最終講義には、大教場に一杯の多くの聴衆がお集まりでした。場所は、川越の霞が関にある東京国際大学です。

先生は、イスラーム研究者で、東大で「アブドゥル・ジャバールの倫理思想」で博士(文学)を取得なさっています。筑波大学を定年退職なさってからも筑波大学の副学長を務められ、2011年から、東京国際大学の特命教授、そして国際交流研究所の所長をお務めになっています。

一昨年、先生の講義を受けさせていただくチャンスがあり、今回も拝聴に伺いました。この地球上の争いやテロやイスラームに関する不穏な状況を考えますと、イスラームに関してこの時代に生きる者として、少しでも知りたい、というのが私の思いです。理解もせずにただ批判ばかりしていてはならないと考えます。私が理解したから、それでどうなることでもないでしょうが。

「イスラーム文明と近代科学」という題での講演でした。いかにイスラーム文明が高度なレベルであったかということを具体的な例をあげながら紹介していただきました。化学や数学、天文学さらに医学に関しても、かなり高度なレベルであったということです。例えば、太陽年(一年間)は、365日5時間49分15秒であると15世紀のイスラームの天文学者たちは観測していたそうです。その数値は現在の観測値よりわずか25秒多かっただけであったそうです。「イスラーム支配下では、アッバース朝(749~1258)以降、各地に展開した小王朝の時代であっても、統治者たちは、「科学アカデミー、学校、天文台、図書館」を設立して、学問を奨励した。」と塩尻先生の資料に書かれています。

「イスラーム文明」について、私の理解の中で漠然としていますので、インターネットで調べてみますと「イスラーム文明は、7世紀のアラビア半島でのアラブ人社会の中に起こった、ムハンマドを始祖とするイスラーム教によって生み出された文明、文化である。」という表現がありましたが、これは、塩尻先生の解説とは、多少違っています。ムハンマドは570年ころ~632年6月8日の生卒年がwikipwdiaに書かれています。しかし、このようなイスラム文明のとらえ方は、かなり一面的かもしれませんし、イスラム文明を誤解してしまうことになるのではないかと、塩尻先生の講演を聞かせていただいて私なりに理解したのですがいかがでしょう。

塩尻先生の資料を抜き書きさせていただくと、「融合文明:イスラーム文明は、イスラーム政権の統治下で先行する諸文明、西アジアのメソポタミア、エジプト、ヘレニズムの各文明や、征服地の伝統文化が融合し、発展したために「イスラーム文明」と呼ばれ、またアラビア語を用いて著作・研究が行われたために「アラビア文明」とも呼ばれる。

私は、イスラーム文明について知識は乏しいですが、西洋の文明より劣っているのではないか、という印象を持っていました。しかし、先生の講演によって、そうではなく、イスラーム文明が、ルネッサンスの展開にも刺激を与えた、ということがわかりました。どちらが優位かということは、争いを起こす元になりますが、お互いに学びあい、刺激しあい、地球の文明が発展し、人類にとってそれこそ有為になることが、望ましいことだと痛感いたします。

イスラーム文明はアラビア半島から起こって西アジアに広がったものであるが、西アジアにとどまらず、周辺のヨーロッパや中国の文明にも大きな影響を与えた。イベリア半島のトレドやシチリア島を通してキリスト教世界である中世ヨーロッパ文化に影響を与え、さらにルネサンスの展開の刺激となった。」(塩尻先生の資料より)

 

他にもいろいろとご紹介したいのですが、とても私の力では及びませんので、先生のご著書をwikipediaより紹介させていただきます。

  • ヨルダン=野の花の国で 未來社 1993
  • イスラームの倫理 アブドゥル・ジャッバール研究 未來社 2001
  • イスラームの生活を知る事典 池田美佐子共著 東京堂出版 2004
  • リビアを知るための60章 明石書店 2006
  • イスラームを学ぼう 実りある宗教間対話のために 秋山書店 2007
  • イスラームの人間観・世界観 宗教思想の深淵へ 筑波大学出版会 2008

難民を助ける会や、シャンティ国際ボランティア会や、国境なき医師団などなどから送られてくる難民の人たちの情報、殊に子どもたちの生活について目にしますと、まことに平和を望まないではおられません。

高い文明を持っていた、持っている、イスラーム世界の人々の平穏な日常が取り戻されますようにと願わずにはおられません。私の年齢から考えますと、あの世に帰る日もそれほど遠くはないのですから、この世にいる間に少しでも理解をして、あの世に帰っても世界の平和の為にエールを送りたいのです。

イスラーム文明を理解し、敵対することなく、お互いの文明を認め合って、この狭い地球で暮らしあうことを、心から願ってやみません。 シリアにもアフガニスタンにも、他の紛争の地にも一日も早く平和がもたらされますように祈ります。

(会場となりました東京国際大学。60カ国以上の国からの留学生が学んでいるそうです。)

#塩尻和子先生

#イスラーム文明

 


『法華経』メモ「方便品」2

2019-02-11 14:03:53 | Weblog

2月11日(月)曇り【『法華経』メモ「方便品」2】

今日も寒いですね。でも、このあたりは、昨日は少し雪が土の部分だけ積もっていましたが、夕方にはすっかりとけてしまいました。仏壇の移動を頼まれていましたので助かりました。

さて、再び「方便品」について、少し書いておきたいと思います。恐縮ですが、自分の覚えですので、お付き合い願います。また間違っていることを書いていたりしましたら、ご指摘くださいませ。

「我出濁悪世 如諸仏所説 我亦随順行」:

「我、濁悪世に出でたり、諸仏の所説の如く、我も亦、随順して行ぜん」:『賢明な世間の指導者[であるブッダ]たちが語られるように、そのように私もまた実行するでありましょう。私もまた、この恐ろしい激動の[時代の]ただ中で衆生たちの汚濁の真っただ中に生まれてきたのである[からです]』(書き下し・現代語訳 植木雅俊)

同じ個所を岩本裕訳では次のように訳しています。「賢明な世の指導者たちが語るように、余もまた、そのように言うことにしよう。余もこの怖ろしい揺れる世界に、人々の堕落の真中に出現した」

私は残念ながら、サンスクリット語は分からない。しかし、岩本訳ではピンときませんでしたが、植木訳を読むと、お釈迦様の時代も「恐ろしい激動の時代」という表現によって、この世は、「いつの時代も激動の時代なのだ」と深く感じました。お釈迦様の故郷の町であり、シャーキャ族の中心地であったカピラヴァスツも、コーサラ国の瑠璃王に滅ぼされていたり、この時代も決して穏やかな時代ではなかったのです。しかし、地球が第一次世界大戦や第二次世界大戦を終えても、いまだあちこちで戦争の絶えない状況です。地球人類は争いを克服することのできない人類なのでしょうか。

(昨日の雪はうっすらとお地蔵様の頭にも。前日にあまりに寒いので毛糸の帽子を被っていただきました。)


『法華経』メモ「方便品」

2019-02-09 23:10:44 | Weblog

2月9日(土)曇り夕方より雪【『法華経』メモ「方便品」』】

今日は寒かったですね。夜のうちに雪が積もるかと思っていましたが、うっすらと雪が土の上に被っていた程度で助かりました。今日は納骨がありましたので、昨日からの天気予報ではかなり積もるのではないかと心配していました。無事につとめることができました。しかし、夕方より雪は深々と降っています。

このところ、古い過去帳の清書につとめています。先代からお預かりした過去帳がぼろぼろになりつつありますので、すべて書き改めています。住職になってから五年を過ぎまして、檀家さんの一軒一軒についてよく分かってきたときですので、丁度よい頃合いだと思っています。

書き改める前は、各家の石塔からはわからなかったのですが、各家にも戦死なさっている人が随分多くいたことがわかりました。戦争が終わって73年、区切りの年には関係なく、今年は特に戦死してしまった方々のご供養をさせていただこうと思っています。

さて、表題の『法華経』メモですが、今日は「方便品」第二について少し考えてみたいと思います。「方便品」には声聞乗や独覚(縁覚)乗や菩薩乗の三乗は方便であり、真実には一仏乗しか存在しないと説かれる。「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し。」と。ただ方便力によって三乗を説いたのだと開示されている。

まだ声聞の一人である舎利弗に対してこの品は説かれている。また三乗の者たちも、必ず仏となることが説かれているのだが、もう悟っていると考え違いをしている増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷たち五千人が、釈尊の法座から立ち去るのである。

しかし、「慚愧清浄にして仏道に志求する者有らば、当に是くの如き等の為に、広く一乗の道を讃むべし。」ここを植木雅俊先生の現代語訳は次のように訳されている。「慚愧の念を持ち、清らかであり、また最も勝れた最高の覚り(菩提)[の獲得]へと出で立っているところの衆生たち、それら[の衆生たち]のために私は、畏れなきものとなって、一つの乗り物(一乗)についての限りない讃嘆を説くのだ。」(『梵漢和対照・現代語訳『法華経』上131頁)

そうして、「方便品」最後にも、「汝等、既已に諸仏の随宜方便の事を知りぬ。復、諸々の疑惑無く、心に大歓喜を生じて、自ら当に作仏すべしと知れ」この最後の個所を植木雅俊先生は次のように現代語訳されている。「だからこそ、世間[の人々]の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込められた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとなるであろう。[だから]あなたがたは歓喜を生じなさい」と。(同133頁)この個所の漢訳は、「歓喜を生じて」とするよりは「歓喜を生ぜよ。」とした方がよいか。

釈尊の教えを信じる者は、すべてブッダとなることが説かれているところの大事な章であることがわかる。今私の手元には、『法華経』を信奉しているR会、K教団、S学会の経本があるが、同じように「方便品」の最初が出されている。

辛嶋先生の講演によると、この「方便品」の後半と、「譬喩品」の偈頌は、『法華経』の核であり、それと「方便品」から「授学無学人記品」までのトゥリシュトゥブ・ジャガティーという韻律の偈頌が『法華経』の最古層であり、大乗仏教の最古層といえる、ということでした。紀元前一世紀、東インドあるいはインド南東部で成立した、ということです。「方便品」から「授学無学人記品」までの散文とシュローカという韻律の部分は紀元後一、二世紀ガンダーラ地方で作成されたということです。一つの「品」(章)の偈頌と散文が別々に成立して、一つの「品」になっているということは面白いですね。*トゥリシュトゥブ・ジャガティーという韻律の偈頌とシュローカという韻律については、宿題にさせてください。

*シュローカ (śloka) とは、インドの伝統的な詩節ガーター)の形式のひとつで、8音節からなる句(パーダ[1])を4つ並べた32音節から構成される。サンスクリットプラークリットによるインド古典詩の韻律においてもっとも一般的に使われ、ラーマーヤナマハーバーラタのような叙事詩でも主に使われる。 (wikipediaよりの引用です。)

ちょっと長くなりまして失礼いたしました。

(雪はまだ深々と降り続いています、が、まだそれほど積もっているほどではありません。明朝やいかに。)

 

#『法華経』

#『法華経』の成立年代

#「方便品」

#植木雅俊訳

 

 


『法華経』メモ

2019-02-05 09:41:52 | Weblog

2月5日(火)曇り【『法華経』メモ】

昨日の暖かさはどこへやら、今日は寒いです。ご訪問の皆様のところはいかがですか。

さて、先日駒澤大学で辛嶋静志先生による『《法華経》—「仏になる教え」のルネサンス』という題の講演がありました。なんとしても聞かせていただきたいと思っていましたので、当日は深谷まで行かねばなりませんでしたが、ホームに入っていた電車に飛び乗って、なんとか間に合いました。これから生涯の学びは『法華経』だと思っています。

辛嶋先生については、どのようにご紹介したらよいでしょう。仏教文献学の大家と一言でいうにはあまりに多くの御研究があるようですが、ドイツ語や中国語による著書もおありの大学者という表現でお許しいただいておきます。

『法華経』はご存知のように全二十八巻がありますが、その成立年代にはかなりの幅があり、紀元前一世紀から後三世紀頃に及んでいるということです。(私は、学び初めの者ですので、分かり切っていることを書くと思いますが、ご了承ください。)

先生の講演内容を、私が〈かいつまんで〉で紹介するような失礼なことはできませんので、植木雅俊先生の『法華経』の現代語訳を読んでいて、その「序品」はたしかに『般若経』の影響が強いことを確認しました。辛嶋先生の講演内容には、『法華経』「法師品」から「如来神力品」、と「序品」、「嘱累品」「薬草喩品」後半は、『般若経』の影響を受けて創られた、ということがありました。

「序品」の書き出し部分は『八千頌般若経』の書き出しとほとんど同じという植木本には詳しい注釈がついていました。『法華経』の「序品」は二世紀頃ガンダーラ地方で成立したであろうと、辛嶋先生のお話でした。

学びたいことは山ほどありますが、さあ、私に残されている時間は????私は今、なにしろお寺の運営に一生懸命ですから、あの世の存在を信じている私は、いかにしてお寺を次の世代に引き継いでいくか、また、ご葬儀についても法事にしても、僧侶、宗教者がしっかりと責任をもって勤めなくてはならないか、と、いうことを伝えていきたいと考えています。

ということで、メモはこれにてやめまして、学びに入りたいと思います。今まで、この一文を書くのに、五人もの来客にお邪魔?されました。住職とは、そういうお役ですね。

皆様、寒いですから風邪にはご注意ください。隣のおじさんはインフルエンザになりました。

(我が家の内猫、タロー君です。ママや兄弟のいる小屋の中にちょっとお邪魔していました。)

#『法華経』メモ

#『法華経』「序品」

 


老老介護記 母との合唱

2019-02-01 10:19:42 | Weblog

2月1日(金)晴れ、寒い【老老介護記 母との合唱】

母がしばらく帰っていました。施設にお願いしたり、帰ってきたりで、なんとか私も時間を使うことができます。やはり夜何回も起きなくてはいけない、ということがかなり私にとっては負担になっているようです。施設に預かってもらうこともできないご家庭は、大変ではないかと思いますが、ご家族が何人かいるとよいですね。

さて、この度は、母といろいろな歌を歌ったりして、楽しみました。島倉さんの「東京だヨ、おっ母さん」とか、「影を慕いて」とか「夏も近づく」とかです。私は「東京だよ…」の2番は苦手です。「優しかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと 桜の下でさぞかし……」「逢ったら泣くでしょ 兄さんも」という歌詞になるとつい涙がでてしまいます。私の兄は戦争ではなく、クモ膜下出血によって突然にこの世を去りました。まだ57歳という若さでした。

「知床旅情」も歌いました。ルビの振っていない歌詞カードでしたが、一字を除いてすべての漢字を読めるので母の頭脳はまだしっかりしていることがわかりました。読めなかったのは「羅臼」という文字だけでした。母が子供の頃に家が没落して、子供のころから奉公にだされたのだそうです。大きな足袋屋で何人も職人さんがいたそうですが、お父さんという人が母の母親が亡くなってしまってから、大酒飲みになってしまい、店は潰れたのだそうです。昔、足袋屋は繁盛した職業のようです。そんなで学校には行けませんでしたが、自分で努力して字を読むことも書くことも立派にできます。計算もできます。

母が奉公先の赤ん坊を背負って、つい先日まで通っていた小学校に行って、教室を覗いたそうです。そこの壁には上手だったので貼りだされていた自分の絵が飾ってあったのを見た、という話を聞いたことがあります。この話を思い出すと私はやはり泣けてきます。今も涙が浮かんできます。赤ん坊を背負う幼い母の姿と、その時の心情が思いやるのです。切なかったろうと思うのです。「おしん」という番組がありましたが、おしんのような頑是ない子が、子守りをしている姿が目に浮かびます。

母と歌を歌いながら、今年は103歳になろうという母とこうして歌を歌うことも、いつまで続くか、と、ふと思うと、やはり涙腺が緩んできて困りました。

しかし、そのあと、トイレ介助が大変なことになって、涙は吹っ飛んでしまいました。老老介護をつとめている皆様、どうか、自分もインフルエンザにはご注意くださいませ。はや2月です。

(外猫の母猫と娘の猫です)

 

#老老介護記

#おしん時代の母の姿