3月3日(月)雨【もちきびときび餅】
今日は久々の雨です。ひな祭りですね。お雛祭りには、いつもこのお雛様を飾ります。寺子屋時代の女性が贈ってくれました。
昨日は、キビ餅を頂きました。お正月のご祈祷で、檀家さんたちにお配りした餅キビで作ってくれたのだそうです。ご飯を炊くときに、スプーン1杯くらい入れて炊いたら、白米だけよりも健康的かと思って、今年は餅キビにしてみたのです。
3月3日(月)雨【もちきびときび餅】
今日は久々の雨です。ひな祭りですね。お雛祭りには、いつもこのお雛様を飾ります。寺子屋時代の女性が贈ってくれました。
昨日は、キビ餅を頂きました。お正月のご祈祷で、檀家さんたちにお配りした餅キビで作ってくれたのだそうです。ご飯を炊くときに、スプーン1杯くらい入れて炊いたら、白米だけよりも健康的かと思って、今年は餅キビにしてみたのです。
3月2日(日)晴れ【ウクライナロシア戦争について究極の見解】
ウクライナとロシアの戦争は一日も早く終わってほしいけれども、なかなか簡単には割り切れない深い闇があるようです。祈っています。平和を。トランプ大統領は戦争をやめさせたい大統領です。今までは兵器産業からの圧力、儲けたい人々の思惑が戦争を長引かせているようです。
伊藤貫さんは、世界の政治経済アナリストとして、本当に優れた見解を持っていると思いますので、紹介してさせてください。
2月27日(木)晴れ【実は最近心外な事に振り回されていたこと】
一通の手紙が届いたのが、19日です。
頭ごなしに私の意見に対しての反対意見でした。
その前にご葬儀も一日おきにあり、大変な日程をさいて会合に参加したのですが、その折、私の意見について何の反論もなく、それでよいのか、と思っていたのです。
しかし、それは少し熟慮が必要なことでもあり、私も先方の長と相談するつもりでした。
確かにごもっとも、といえる内容ではありました。
しかし、会に参加、わずか4人の会議でした、していたにもかかわらず、そのときにはうまく合わせておいて、後からガン、と偉そうに批判反対の内容で、文面の最初にお詫びの一言が無いこと、に私は心外だったのですね。
その上、私は誰もないがしろにしていませんのに、あなたにはそのようなことをする資格はない、というような捨て台詞が最後に書かれていて、これまた驚いてしまったのです。
なかなか腹の虫がおさまりませんでしたので、時間の経過に任せました。私が十重禁戒の中で、一番守らなくてはならないのは第九不瞋恚戒です。
実は気短なのです。腹が立ちやすいのです。子供のころから正義感が強すぎる、と先生に言われていました。
とにかく悟っていない、証拠です。自分で腹を立てている自分を笑えるようになるまでは、反応を相手に示さない、と考えています。
あーあ、なんと腹の小さいことよ、私は。というのが今日のブログ記事です。
皆さんは腹が立った時は、どうして解消していますか。
*結局は自分との葛藤です。相手がどうということではないのですね。たしかに一言の詫びも無く頭ごなしな反対意見を言う人がいるということを、私が受け入れられれば何の問題も無いのです。
お蔭で私も学びになりました。頭ごなしに自分の意見を通そうとするのは、反発されるだけだから、自分も気をつけようという学びになりましたね。そして久々に失礼なことをされて、心外であると、憤慨する自分をみれました。いつも静かに波風の立たない心の状態を保っているような顔をしていましたが、一度波が押し寄せたならその波を数倍にも高く上がらせる心になるということを認識しました。
2月26日(水)晴れ暖か【花粉症は発症していません】
米粉でパンを作ってみました。日頃からパンはあまり食べませんでしたが、このところパンのグルテンは花粉症によくないというので、三か月一切の小麦製品を食べませんでした。花粉はもう飛んでいるのでしょうか。
全く花粉症になっていませんので、分かりませんが、やはり小麦製品を食べないことは、効果があるのではないでしょうか。
パンがそれほど食べたいわけではありませんが、米粉でパンのようなものを作ってみました。
オーサワの米粉
黄な粉
豆乳
絹豆腐
ベーキングパウダー
少し塩
こんな材料を適当に混ぜて、蒸してみました。
割合美味しかったです。
そのうち、何回か作ったなら、慣れていろいろと考えられそうです。
4毒抜き、と言いますが、いくらでも食べるものは溢れています。食べきれないで困るほどです。
ただ、小麦製品、植物性の油、乳製品、甘いもの
これだけは食べないだけのことです。今まで玄米菜食ですから、植物性の油だけが信じられませんでしたが、理論をよく理解しましたので問題はありません。いくらでも応用はできます。面白いです。
とにかく老衰であの世に帰ろう、だけが目標です。果たしていかに?
花粉症の皆さん、試してみませんか。三か月は必要でしょう。花粉症の季節が終わってしまうかしら。それなら来年にかけましょう。
2月25日(火)晴れ【梅早春を開く】
この時期になると、いつでも、この言葉を思い出します、「梅早春を開く」
たしか如淨禅師の言葉だったでしょうか。
お寺にある5本の梅の木も、一斉に咲きだしました。特に次の写真の梅の幹をご覧ください。まるで私のようです。こんなにすごいむろだらけの幹ですが、花を咲かせています。生きています。
これだけのブログ記事にて失礼いたします。
2月20日(木)曇り【『ガイアの法則』を読んで 地球人類は地球の細胞】
今日も寒かったです。先週は暖かい日もあったのですが、気候の変化についていくのが、なかなか大変ですね。母がよく「風は背中から引く」と言っていましたので、なんと背中にホカロンをつけました。
さて、昨日『ガイアの法則』という本を読みました。舞踊芸術家、文筆家と紹介されている千賀一生さんという方の著書です。
かなり私の感覚と知識には、難解な内容でした。
「宇宙には聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則」
「地球の歳差運動1スピン2万5776年
その1/16の1611年は人類文明が繫栄する周期リズム
その1/16,約101年もまた人類に多大な影響をもたらす。
2020年の101年前は、世界を大混乱と恐怖に陥れたパンデミック、スペイン風邪だった
など、(カバーの裏表紙より)
2020年は云わずと知れたパンデミック、コロナウイルスですね。
しかし、この本を読みながら、私が感得したのは、人類の一人一人はこの地球の細胞である、現在81億人以上の人間が、この地球上で生息しているわけですが、なんだ、私たちは地球の細胞じゃないか、いや人間のみならずすべての生物、植物も含め、地球の細胞ということ。
私たちの体には60兆個以上の細胞があるそうですが、その細胞のミトコンドリアなどが弱まれば、病気になるように、地球上の人間も健康な人間もいれば病の人間もいます。人間の細胞に正常な細胞があれば癌細胞などもあるように、この地球も、ガイアも、病んでる細胞もあれば、元気な細胞もあり、カラスも猫も犬もアリもスズメも皆それぞれ地球の細胞。
そんなことが書いてあったわけではありませんが、この本から私が得た感想です。
興味の有る方は、この本をお読みください。私が書いていることが、全くまとはずれなことを言っているとお思いになるでしょう。
*白花水仙というのだそうです。香りが素敵です。皆様にこの香りを届けられないのが残念。
2月18日(火)晴れでも寒い【と、ある日の奇跡話】
電車の中で、どの本を読もうか、積読の中から、持って行こうと思ったのですが、今日は尼僧団の話だから、これにしよう、と、なんとなく尼僧団のコーナーにしまっておいた本を引っ張り出して手にしました。
それは『舟にきざむ』という尼僧の大先輩である小島賢道老師がお書きになった本です。
電車の中で、ページを開いて読むうちに、中に数枚の短冊が挟まれていることに気が付きました。
なんとそれはルンビニ園という養護施設の理事長をおつとめくださった恒田仙英先生のお手紙でした。
今日は、富山では恒田先生の一周忌です。
胸がいっぱいになりました。
帰りの電車のなかでも、ちょっとしたことがありました。
二日後の法事の人が、亡き人がお好きだったというデルフィニュームという花を飾ってほしいと、言われました。
そのような花は、いつものお花屋さんにはなさそうで、二軒ほど見てみましたがありません。また明日探しましょうと思いながら、最寄りの駅のホームに電車が入ろうという時、線路沿いに「花」という文字が目に入りました。私の車を停めてある側と反対側でした。
いつも降りる駅の傍の花屋さんですが、10年以上住んでいますが、知りませんでした。
暗くなっていましたが、思い切ってその花屋さんを目指しました。
デルフィニューム、ありました。
さらに「〇〇さんですか」と花屋の主人に言われました。「2回ほどお誕生日の花をお届けしたことがあります」と言われました。
そして、荷物が一杯の上に、花を抱えて歩くのは大変でしたが、私の車を停めてあるところまで、送ってくださいました。
と、こんな奇跡話です。友人に言いましたら、それは自動操縦されているのだそうです。
数十年前は、よく見えざる世界からの通信を受けていましたが、気の弱い私は、書かれている世界の方に逃げました。霊能者になるタイプではない、と自分で決めまして、その通信を受けないようにしたのですが、今ならば、少しは大丈夫かもしれませんね。
2月12日(水)晴れ【弟子の僧堂安居先 永平寺東京別院推奨】
弟子の一人が、まもなく永平寺の本山修行から送行(そうあんー卒業とはちょっと違いますが、一応既定の修行を終えて修行先を送られて出てくること)してきます。ご本山では、典座寮(台所係)と直歳寮(しっすいりょうー雪かきやお掃除係)を勤めさせて頂きました。
ご本山は3年安居しませんと、知殿寮(法要などを司る係)配役にはなりませんので、3年以上安居できる徒弟の方には、とても良いと思います。
しかし、わずか一年では、僧侶としての法要に関して必要なことは学ぶことができません。つくづくわかりました。
そこにいきますと、東京南青山7丁目にある永平寺東京別院の長谷寺は、規模も本山ほどではありませんが、檀家さんも多く、お墓もありますので、法要に関して必要なことも学べますし、僧侶として身に付けなくてはならないことの多くを一年でも学べます。
また安居している雲水さんたちの雰囲気がとてもよいです。
また現在は安居する雲水さんの人数がほどがよいですから、いろいろなお役を勤めなくてはなりませんので、いろいろと学ぶことができます。
徒弟を僧堂修行に出したいとお考えの方には、是非お勧めしたいです。
此処で一年の安居でもよいですが、三年も安居できる人はさらによいでしょう。お寺に戻っても、すぐに役に立つことができると思います。
坐禅修行を一生なさりたい目的の方には、またそのような目的にあった修行道場があると思います。
どこで修行したか、徒弟の方たちにとって、一生重要なつながりができますので、慎重でありたいです。師匠としての責任と思っています。
そんなことで、東京別院長谷寺をお勧めしました。
2月10日(月)晴れ【不知最親切 地蔵に学ぶ】
『宏智頌古』百則(『従容録』)の第20則に「地蔵親切」という則があります。
地蔵といってもお地蔵様ではなく、地蔵院という寺の住職であった桂琛(けいちん)(867~928玄沙師備の法嗣‐はっす)という禅僧のことです。
先日「不知」という言葉について書きましたので、地蔵桂琛さんの「不知最親切」について一筆。
挙。地蔵問法眼、上座何往。眼云、迤邐行脚。蔵云、行脚事作麼生。眼云、不知。蔵云、不知最親切。眼云、豁然大悟。
挙す。地蔵、法眼に問う。上座何くに往くや。眼云く、迤邐(いり)として行脚す。蔵云く、行脚の事、作麼生(そもさん)。眼云く、知らず。蔵云く、不知最も親切。眼、豁然(かつねん)として大悟す。
地蔵が法眼(ほうげん)に聞きました、おまえさんはどこに往くのかね、と。
法眼は答えました、「ぶらぶらと行脚します」と。
地蔵は云いました、「行脚とはいったい何なのかね」と。
法眼は云いました、「知りません」と。
地蔵は云いました、「不知というのは、最も親切じゃのう」と。
法眼は、この言葉に行き詰っていたのがパッと開き、悟ったのです。
ざっと訳しますと、こんなところです。法眼は地蔵の弟子です。
法眼は「不知ーわかりません」と云ったに過ぎないのですが、師匠の地蔵は「不知とは最も親切」と答えたのです。
このブログで数日前に「不知」について書きました。知らない、ということは、地蔵は不知ということは一番よく知っていることだ、と教えてくれたわけです。
ここで「親切」の意味を『禅学大辞典』を開きますと、「ぴったり適合する。非常に親切なこと」とあり、『禅語辞典』には「自分にとってグサリとくること」とあります。現代の意味に波及していますが、禅語の意味は多少違いますので、辞書で確認が必要ですね。
不知ということは一番よく知っていること、ここが大事なところでしょう。
本師余語翠巖老師は「天地本源のいのちの姿が、このようになっていることなのだから、いちいちそれを考えているわけにはいきません。そのままになって、ちょっともそういうことが意識にのぼらない、そういうことを「知らん」というわけです。」
と説かれています。
いかがでしょうか。「不知」について参究してみました。愚痴言わず、不平不満のない、人生、何があっても。
*眠っていると知らないで寝ているタロー君です。その上の紙は「布団の中でルナな寝ているか確認!!」と書いてあります。
2月8日(土)晴れ【南泉白牯 仏性を考える】
今日は2月8日です。時のたつのは、あまりに早く、これでは私もあの世に帰らなくてはならない日が、あっという間に来る感じがあります。
2月15日を日本では一応お釈迦様のお涅槃の日、としていますので、禅寺では涅槃会摂心(接心)が行われるでしょう。
今、二人の弟子が僧堂修行していますので、もうすぐ接心を勤めることでしょう。自分は、それほど長時間の坐禅をしている時間も、体力もありません。本当に接心に耐えられるときに修行することは、大事です。
さて、先日、『従容録』の石井修道先生の研究会に参加させていただき、久々に『従容録』に触れました。私の研究は『宏智頌古』(わんしじゅこ)百則で、『従容録』の元となっている頌古です。ご存じと思いますが、『碧巌録』の元になる頌古は『雪竇頌古』(せっちょうじゅこ)百則です。
さて、『宏智頌古』69則に「南泉白牯」として、次のような「本則」があります。
挙。南泉示衆云、「三世諸仏不知有、狸奴白牯却知有」
(訓読)挙す。南泉衆に示して云く、「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」。
このような本則です。「何」が有る、ことなのでしょうか。(『宏智頌古』として考えますので、著語は抜きました。)
一つに「仏性」と言えます。多くの老師の提唱録がありますが、それをひきだしてくるのはやめにしまして「仏性」として考えましょう。三世の諸仏は、仏性があることを知らない、狸奴白牯(りぬびゃっこ)ーところが狸や雄牛などの動物は、仏性の有ることを知っている。
これはどういうことを言っているかと考えますと、簡単に言えば、諸仏は今自分がしていることは「よいことをしている」などという自覚なく、当たり前に為すことが仏性の表れであり、それを「よいことをしている」とおもっているわけではないが、そうでない輩(諸仏ではない)は、「よいことをしている」と、自分の行為をそう思っている、と訳しておきたいと思います。
つまり自分が為していることが、善行であるなどという顔をして善行をしていない、三世の諸仏は、どっぷり仏性そのものですから、今やっていることが、「よいことだ」などと思っていません。
俗人は自分の行為を、特に世間的に、まあ、善行だろうということを為すとき、「自分は良いことをしているでしょう」「偉いでしょう」などと、ついつい承認欲求を出してしまうのではないでしょうかね。
ところで、本師余語翠巖老師の『従容録』提唱録を読みますと、次のように書かれています。
三世の諸仏と言われるような人たちは、本来のもの、無限定で、説明しきれるものではない天地のいのちというふうなもの、そういうものがあるということも知らない、というのですね。
本人は当たり前の善行をしておるだけじゃ、実際の孝行というのは、しているということを意識しておらんということです。
ところが、牛や狸といわれる動物のようなものは、そういう自分がよいことをしておるということを意識しながらやっている、ということですが、一方はよいことをやっていて、よいことをやっていることも知らん、ところが他方にはよいことをやっていることを鼻にぶらさげている連中がいると、そういうふうに普通は解釈しているわけです。
禅語録を読みますと、わずか数行の中に、かなり深い意味があることを改めて思います。面白いです。私は禅宗で出家して面白いです。
*話は変わりますが、どなたでも、出家志望の方がいましたら、是非当ブログにご連絡くださいませ。出家は面白いです。
*お邪魔猫と知らないで、お邪魔しているルナちゃんです。