風月庵だより

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六月の空を送る

2006-06-30 23:49:27 | Weblog
6月30日(金)晴れ【六月の空を送る】

田舎の墓所に水道を引こうと計画したら、墓所の名義が我が家の名義ではないことがわかった。それまで我が家の墓所と疑いもなく思っていた。祖母が当時の金額で五十円で買ったと聞かされていたからである。

ところが祖母の頃の人は、口約束だけで名義変更などということに気がつかなかったようだ。気にもしなかった、という方が当たっているかもしれない。しかし分かった以上は名義変更をしなくてはいけないので、気になっていたのであるが、ようやく仕事が一段落ついたので明日から田舎に行って来る予定である。しかし仕事も休まなくてはいけないし、登記されている人の遺産相続人と会わなくてはいけないし、司法書士にお願いしてこなくてはいけないし、こういう仕事は私にはなんだか荷が重い。

きっと費用もかかるであろう。それも気にはなるが、先祖や父のお骨を納めてある墓所が他人名義だと分かった以上、なんとしても我が家の名義に直さなくてはならないだろう。
というわけで、いつも怠け者のブログで恐縮ですが、三,四日休ませていただきます。

今日で六月も終わり。ひまわりの好きだったという御手洗怜美ちゃんのために背景をひまわりにしてきた。しかし怜美ちゃんのことにとどまらず、あまりに悲しい事件が今月も多く起きてしまい、ひまわりの背景が悲しく見えたことが一度や二度ではなかった。

北朝鮮の拉致問題もいつも気にしているが、今回のめぐみちゃんのご主人だったという金英男氏の会見も予想通り北朝鮮に仕組まれたものであり、真相には少しも迫ることはできなかった。日本人として総力をあげて拉致された人々を取り戻さなくてはならない。どうしたらよいのであろうか。

自分に起きさえしなければ、誰も対岸の火事のように思ってしまうきらいはあるし、全ての事件を我が事と受けとめることは難しいが、せめて応援のエネルギーだけでも送りたいと思う。私が韓国やインド、ヨーロッパと一人で外国を歩いた頃は、金日成氏の時代であったので、拉致からは免れただけで、私にも起こりえた出来事である。

めぐみちゃんのお母さんの悲痛な訴えを、いつも涙無しには聞くことはできない。ヘギョンちゃんの瞳が前に見たときよりもどことなく悲しげな、憂いを含んでいるように見たのは私だけではないようである。

どうして良いか分からないことだらけの社会にあって、できるだけ助け合い、一人一人が人間としての役割を果たし、凛として生き合っていきたいと願う六月の晦日である。


大富豪の潔さーウォーレン・バフェット氏

2006-06-27 17:59:00 | Weblog
6月27日(火)晴れ【大富豪の潔さーウォーレン・バフェット氏】

ニュースを見ていたら、潔い記事が目に付いた。アメリカの著名な投資家ウォーレン・エドワード・バフェット氏(75)が 、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長夫妻の財団に約370億ドル(4兆3000億円)の寄付をすると発表した、というニュースである。

バフェット氏は「貧しい暮らしを強いられている人々がいるのに“王家の富”を築く考えはない」と述べている。一国の国家予算にも等しい巨額の資産を、執着無く社会に投げ出す姿勢は文句なく素晴らしいものである。貧者の一燈も素晴らしいが、巨額の資産を惜しげもなく拠出することは、なかなかできることではないだろう。

貧者の気持ちは私には充分理解できるが、大富豪の気持ちは到底理解できない。お金があるほどお金に対しての執着は大きいとか、金持ちほどケチだとかは耳にするが、ビル・ゲイツ氏や バフェット氏によってそれは全く覆させられてしまう。

特に遺産を受け継ぐ子供たちの猛反撃が問題になるだろうが、「子どもは(大富豪としての)地位を受け継ぐべきではない」と語っているようで、親の資産を当てにせず、自ら努力すべきだとの持論を、社会に対しても、三人の子どもに対しても常に述べてきたようである。多くの人が学んだらよいだろうと思われる言葉である。

またバフェット氏は莫大な冨を保有しているにも拘わらず、質素な生活を送っていることでも有名であるという。ビル・ゲイツ氏は彼の財団に受け取った資金をエイズ対策や米国の教育環境改善などに利用していくそうである。

こうして社会で活躍して得た富を社会に還元していく生き方は学びたいところである。いわゆる村上ファンドの村上世彰氏も投資家として目標としたところはバフェット氏であったかもしれない。しかし残念ながら彼が得た富は、後から返却されるとはいえ巨額の保釈金に役だったというていたらく。

そして村上世彰氏が儲けたのは不正な方法によるものである。バフェット氏の経営理念を学び直して再出発するか、反省に役立たせるべきだろう。また日銀の福井総裁も村上ファンドへの出資は日銀総裁になったときに精算すべきことであったのだし、このように世界に恥ずかしい姿をさらすよりも潔くやめるべきであろう。短絡的意見ながら月給200万円に未練があるのだろうか。

村上氏も福井氏も銀杏マークであるが、優秀な頭脳を潔く使って貰いたい。また福井氏でなくても優秀であり、ユーモアのある人は他にもいるであろう。いくらでも駒がいるのが社会である。自分がいなくなれば世の中が困るであろうと、残念ながら心配する必要はないのだ。

バフェット氏の潔い生き方を学べば、自ずと日本の富裕者も刺激されるのではなかろうか。(日本でも最近多額の寄附をなさったご夫婦もいらっしゃった。私もあれば、したいのですが。)また今はやりの投資家の皆さんもバフェット氏の経営理念をいろいろと学ばれるとよいと思う。そしておおいに儲けていつの日か日本のバフェット氏にならんことを。

*バフェット氏のパートナーシップ、3つの方法(Wikipediaの記載より)
1、一般:安全域を有し予期されるリターンまたはリスクを獲得できると思える価値以下の株式を購入する
2,裁定取引: 企業の出来事が企業の合併、買収、清算などといった幅広い市場の変化に関連していない株式を購入する
3,支配: 相当数の持ち株を取得するか他の株主と同盟を組むか企業に変化をもたらすために代理人を雇用する
*バフェット氏のマネージメントスタイル(Wikipediaの記載より)
バフェットは自分自身を他の誰よりも資本分配者という見解を持っている。彼の主要な責任は資本を経済によいビジネスに分配することと彼らの現在の管理方法を会社を導くために保持すること。

バフェットはビジネスで企業支配を行うときに、彼はオーナーたちに以下のことは明確にした。
1、自分は会社に経営に干渉するつもりはない。
2,自分はトップの雇用と補償の決断をするつもりである。
3,ビジネスに配分された資本は値札、ハードルレートを取り付けて、この過程がオ-ナーたちに彼らに低いリターンで投資するよりもむしろバークシャー首脳への費用よりも大きなリターンが得られない過度の資本を送らせることを動機付ける。この現金は、高いリターンが提供されているときに投資される自由なお金になる。


老体の悲鳴

2006-06-26 22:23:14 | Weblog
6月26日(月)曇り時々雨【老体の悲鳴】

書道の先生をしていた姉とともに、昨日一日書道展を見に上野に行って来た。先生方の素晴らしい書に圧倒されて夢中で各部屋を巡った。しかし今日はそのためにひどい足の痛みで、思うように歩けなくなってしまったのである。

下駄を履いていったのだが、足袋が少し大きめの下駄の上で歩くたびに滑ってしまい、それが足腰にダメージを与えてくれたようである。以前に紹介したことのある光線治療をしたが、それだけでは追いつかない痛みである。

近所の治療院に駆け込んで、足裏のマッサージなどを施してもらい、今はだいぶ楽になったが、まだふくらはぎが痛くて正座はできない。足に合わない履き物がいかに足腰に悪影響を与えるか、よくよく肝に銘じておかなくてはならない。もう歳なのであるから。

若ければ、こんなことぐらいで歩くのに支障が出るほどのことにはならないであろう。足だけではなく、治療院の先生にツボを押されると、体の何処といわずあちこちが痛くて悲鳴をあげるほどであった。肩の凝りはひどく、首の凝りもひどく、目の疲れもひどく、飛び上がるほど痛い。内蔵と関係のあるツボを押して、私が悲鳴をあげるたびに、先生はここは胃、これは肝臓、これは脳下垂体等々とおっしゃる。

「こんなに肩を凝らせたらアブナイですよ」と先生は言われた。私もこの頃は時間の余裕もないし、いろいろと余裕がないのでつい治療院に伺うのをご無沙汰してしまっていたが、やはりたまには凝り固まった体をほぐさないと、体がアブナイと実感している。考えれば丁度タイミングよく足が痛くなって良かったと今思っている。

今まとめている室町時代の禅僧の語録がもう少しできりがつくので、つい根を詰めてしまっている。こういうとき体をこわす可能性が高いと思うし、兄がくも膜下出血で亡くなっているので、私も気をつけなくてはならない。つい若いつもりで無理をしてしまうが、体には労りつつ動いてもらうようにしなくてはならない。

このブログをお読み下さる皆様は体に無理を強いてはいませんか。どうぞ時々体をほぐしに治療院のドアを叩いてください。またはほどのよい運動、もしかしたら無謀なのは私ばかりかもしれませんが。確実に来る自分の死を想像すると実に不思議な気がします。ただ一つの命、大切に大切に。

さらに先生が注意なさったこと、冷房で体が冷えすぎないようにということです。

書道展

2006-06-24 20:32:52 | Weblog
6月24日(土)晴れ【書道展】

今週は光市の事件についての意見を書いたので、その内容に関する責任を感じてなかなか次の記事を書けなかった。書いているときにも責任を感じるし、書いた後も死刑に対しての自分の意見に対して責任を感じている。人間として死刑を容認する意見を書くことが、大変に重たい。

しかし何の罪もない人の命を奪うという行為は決して許されるものではない、というしっかりとした声を社会があげなくてはならないだろう。それから逃れて自分だけ高見の見物をしていることはできない。少年たちを甘やかせ過ぎている大人にも責任がある。

このたびの奈良の少年による放火事件にしても、少年は「リセットしたかった」と言っている。テレビゲームではないのだ、人間が生きているこの世は。私はいつもテレビゲームを目の敵にして反対しているが、この事件でもその思いを強くした。あまり判断力が付かない幼い頃から、テレビゲームで育った脳かまたは感性なのか、科学的な分析は私にはできないが、どこかが狂ってしまって、人生さえリセットできるような錯覚を持ってしまうのである。

テレビゲームだけのせいではないが、とにかく子供たちを取り巻く環境にあまりに責任が無さ過ぎる。光市の事件にしても、人間としてどうしてそのようなことができたのであろうか、とさえいうような残虐な方法による悪質な犯行であった。具体的にここでブログに文章化することさえ避けたい内容である。

七年で出所してしまうような無期懲役であるのなら、その上の極刑しかないであろう。ある国には百年以上の刑があるというが、そのような方法も考えなくてはならないのではなかろうか。

刑よりもなによりも大事なことは、自らの犯した罪の重さに目覚めて、人間らしい心を取り戻してくれることである。死刑廃止論者の安田弁護士さんも自分の説を通したい為に、この事件を利用してはならないのではなかろうか。

さて今日のタイトルは書道展です。重い内容の後で恐縮ですが、ある書道展をご紹介させていただきたい。

日書院展 第55回
日時:6月24日今日から29日(木)まで。午前9時~午後4時半(最終日は2時半)
場所:東京都美術館(上野駅公園口より徒歩五分)
主催:日本書道院
後援:全日本書道連盟 毎日新聞社 毎日書道会


私も実は出品しています。良い先生に恵まれて五年ほどその先生のご指導を頂き、ようやく出品を許されました。作品は半切(畳の半分ぐらい)の大きさです。足を運んでいただければ幸甚です。私の作品はともかく他の先生方の素晴らしい作品をお楽しみ頂ければと思います。(恐縮ですが、私の作品は二階三〇番の部屋に展示されているようです。)

光市母子殺害事件に思う

2006-06-20 23:10:24 | Weblog
6月20日(火)晴れ暑し【光市母子殺害事件に思う】

1999年4月14日に起きた光市の母子殺害事件に対して、今日最高裁の判決が下された。死刑を求めた検察側の上告を認め、広島高裁の無期懲役判決を破棄し、審理を高裁に差し戻す、というものであった。

本村洋さんの妻の弥生さん(当時23歳)と長女の夕夏ちゃん(当時11カ月)が元少年Aによって、非情な殺害に遭ってしまっってから、はや7年が経つ。元少年Aの野獣のように残忍な手段にかかって、死んでいった二人の無念と、残された夫であり父である洋さんの更なる無念を察すると、無期懲役という判決は納得のいかないものであったと思う。

この事件のように明らかに犯人が特定され、犯した事件の全容が明らかにされている場合は、冤罪の過ちは決してないのであるから、厳罰が下されてしかるべきでは無かろうか。
被害者の人権が全く無視されている状態は、本村氏など犯罪被害者の会の活動やマスコミによって喚起された世論の力などにもよって、多少は少しずつ改善されているようではある。

しかし加害者の更正という美名のもとに、犯した罪に相応しい判決が下されていない事件が多いのではなかろうか。特に18歳、少年法の規制があるが、18歳と言えば立派な大人である。十分に判断のできる年齢だ。もし18歳にもなって殺人は人間として犯してはならないことだ、と判断できない人間であるとしたら、なおのこと社会復帰させることは大問題である。

勿論元少年Aの更正を私も心から願っている。更正とは自らの犯した罪の深さを知ることであろう。良心に目覚めたとき彼は真に救われるからである。更正=社会復帰ではなかろう。


無期懲役という判決は文字通りに無期懲役ではなく、減刑され社会復帰の可能性が大きいのである。この元少年が、今や25歳になっているが、知人に送った手紙に「何年かすれば社会に復帰」できることや「死んだ二人はどうせ戻ってこない」というようなニュアンスのことを書いているようである。このような状態の被告に思い通りの判決を下すことは被告の更正を促すものとはならないだろう。

このような人間が再び事件を犯す可能性は、全くないとは言えないし、犯した罪相応の罰を受けることは当然のことであろう。もしこの加害者の罪を犯した年齢が18歳に近い年齢であったと言うことを理由に、無期懲役の判決を再び下されるようなことになったら、社会に対する悪影響は想像を絶するものがあるだろう。

この元少年の弁護人は死刑廃止論者として有名な方であるが、この被告の犯した殺人さえ誤魔化そうとしていることは、この被告に対してもっとも悪いことである。本当に彼の更正を願うのならば、罪を認めさせて人間の心を取り戻させる事が大事ではなかろうか。

神谷信行弁護士という方の講演を聞いたことがあるが、この方は殺人事件を起こしたある少年の弁護を担当なさったそうだが、この少年が良心に目覚めるように心をくだかれた話しであり、感銘を受けた。単に裁判において軽い判決を勝ち取ることが、被告の更正につながるとは思えない。

しっかりと事と次第を見極めなくては、社会は崩壊してしまう。この元少年Aのような人間がどうしてできてしまったのか、この元少年Aも生まれついての犯罪者ではない筈だ。少年をとりまく環境全てが反省し、社会にそして天に謝罪しなくてはならない。

しかし元少年Aの犯した罪は消えない。人の命を奪う殺人という行為は人間として絶対に犯してはならない行為である。この裁判を通しても社会に強くこのことを伝えなくてはならないことだ。

弥生さんと夕夏ちゃんになんと言ったらよいのだろう。ご冥福を祈る言葉だけでは空しい。

子どもや少年が安易に殺人を犯すような社会の状況をなくそう、この問題にみんなで真剣に取り組もう、殺人に駆りたてるような一切のゲームを禁止しよう、子どもには暖かい手作りの食事をたべさせよう、秩序ある社会をつくろう、拝金主義の愚かしいことを社会が認識しよう、子どもたちが優しい心を持てるような環境をつくろう,子どもたちに背筋を伸ばすことを教えしっかりと判断のできる人間に育てよう、等等、、、

お二人に捧げる言葉は社会の反省の言葉、私も社会の一人の構成員である。社会悪に対して無力であることを深くお詫び致します。
 
7年間苦しみ抜いてきた本村さんの言葉を紹介しておきたい。「被告は18歳以上。刑法でも死刑を認めている。何とか人間の心を取り戻して死刑を受けてほしい。悔い改めてもなお、命を落とさなければ償えない罪がある。その残酷さを知って、犯罪が起こらぬようにする方法を社会は考えなければならない」。

この元少年の母は彼が中学生の時に自殺してしまったという。母の無条件の愛の手が傍にない被告の寂しかったであろう心には同情し、気の毒であると思うが、そうであるからといって犯した罪は許されるものではない。

バーチャル・ラブ

2006-06-18 20:37:43 | Weblog
6月18日(日)ほとんど雨【バーチャル・ラブ】

先日テレビで面白い報道を見た。テレビ・ゲームの声優さんのイベントに多数のファンが押しかけて、大いに盛り上がっているというものであった。そのテレビ・ゲームは特に恋愛を題材としたゲームだそうで、そのゲームに出てくる素敵なキャラクターの声を担当している声優さんたちの生の姿に会えるというイベントなのだという。架空のキャラクターに対する愛情が、その声の主にも愛情を仮託するようなものなのだろうか。

このようなイベントはかなり前から流行っているようで、知らなかったのは私ばかりであろう。このような現象を萌え現象というのであろうか。恋愛テレビゲームとはどういうものか、遅ればせながら少しインターネットで調べてみた。

美少年誘惑シミュレーションゲームとか恋愛アドベンチャーとかあるようだが、それがどういうものかは分からなかった。何故わざわざインターネットでこんなことを調べてみたいと思ったかというと、先日のテレビに映った娘さんが、会社から一刻でも早くに帰ってこのゲームをするのが、なによりの楽しみだと言うのを聞いて、奇異に感じたからである。

本当の恋愛をする年齢なのに、どうしてバーチャルの世界に遊ぶほうを楽しんでいるのだろうか。それが私には疑問でもあり、奇異にも映ったのである。テレビゲームの恋愛ならば、失恋の苦しみも無いだろうし、相手に気を遣う必要もないから気楽であろうし、傷つくことも無いだろう。

私などは失敗だらけ、間違いだらけ、ちょっとかっこよく言うと傷だらけのような人生であったので、バーチャルの世界に遊ぶほうを楽しむ若者とはまるで異なる人生である。どちらが是でどちらを非と言うことはやめよう。バーチャルな恋愛に興じて、現実逃避をしているのではないかと、はじめは思ったのだが、それは短絡的かもしれないと思い直した。

一昔前の『ベルサイユのバラ』のオスカルやアンドレに多くの女性が憧れたようなノリかもしれない。宝塚ではまだベルばらの公演をしているのだろうか。一昔前などと言ってはファンに叱られるかもしれない。

私は子どもたちがテレビゲームに夢中になることは、大いに反対しているが、子どもの頃からテレビゲームで育った子供たちは、長じてもバーチャルな世界から脱出できないのではないだろうか。現実逃避ではなかろうかという見方は、短絡的ではないかと一度は思ったのだが、やはりバーチャル世界に遊ぶだけでは人間としてどうなのか心配である。

どのぐらいの比率の若者たちがバーチャルな恋愛に夢中なのかは分からないが、比率は問題ではない。一人一人だから。一人一人のことを心配している老人である。あなたの人生は比率とは関係なく、たった一度のあなたの人生だから。傷つくことを恐れずに、ゲームで養った恋のテクニックを駆使して、リアル・ラブに挑戦してみては如何。

そして失恋に泣くこともあるだろうが、その涙は何物にも代え難い、自分のもの。バーチャルとは違う。現実は予測できないことだらけの面白さがある。ゲームは全て予測されたプログラムで組まれているのではなかろうか。こんなことを書いているとは私もよほどの暇人であるが、自分の知らなかった社会現象に驚いたので、考えてみた。

多くの人が今夜はクロアチアと日本のサッカーの試合に、これから沸くだろう。予測できないどんな展開になるだろうか。生身の人間が生み出す熱いドラマが始まる。

苦難の尼僧史、その3

2006-06-16 12:46:51 | Weblog
 6月16日(金)雨【苦難の尼僧史、その3】

江戸時代における尼僧差別の歴史については研究に及んでいないが、昭和の初めの状況を鑑みても、差別の歴史は推して知るべしであろう。ここでは具体的に資料が残されている現代の尼師たちのご苦労を振り返ってみたい。

五、 差別と闘った尼師たち

昭和二十一年敗戦を迎え、男女の平等化に世の中の趨勢も向かうようになり、曹洞宗宗制によって尼僧の嗣法がようやく認められるところとなった。何時の頃から制度上の尼僧の嗣法が認められていなかったかは研究に及んでいないが、江戸時代、明治時代、大正時代は許されていなかった。尼僧が嗣法をようやく許されたのは、昭和二十六年のことである。

江戸天保十年(1839)に次のような書き付けが残っている。
近来御府内に罷り在り候尼僧共、庵主と唱し弟子取り致し候儀、宜からず事に付き、向後庵主と唱え弟子取り致し候儀は相成らざるの段、申し渡されるべし。云々。

(訳)このごろ江戸の町に住む尼僧の中で、庵主と称して弟子をとっているが、宜しくないことである。今後庵主と称して弟子を取ることはしてはならない。云々。
御府内は江戸城を中心としてその四方。品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川以内の地のこと。

実に尼僧が低く見られていた一つの例である。降って明治五年三月二十七日、神社仏閣の女人結界の制が廃止され、比叡山等に尼僧が入れるようになったことは特筆すべきことであろう。

とはいえ尼僧の地位はまだまだ劣位に置かれ、明治三十九年の宗制改正の「曹洞宗宗憲」でも尼僧に関する規定は一つもないのであった。当時の尼僧たちが差別に泣いたであろう事は想像に難くない。

そのような尼僧界の状況から、「尼僧学林設置案」が明治三十五年三月十五日に発布され、九月一日にはこれが施行された。しかし尼僧の教師資格や待遇に関しては、何らの配慮がまだ払われない状態が続いたのである。「尼教師分限称号令」が発布されたのは昭和四年のことである。(内容はやはり男僧とは違い、依然として差別的なものである。)

男女僧侶の平等権を認められ、男僧・尼僧の差別が撤廃されたのは、ポツダム宣言の後、宗教法人令により、新宗制が制定された昭和二十一年(1946)六月十五日のことである。さらに昭和二十六年四月三日宗教法人法が公布されて、男僧尼僧の差別は大部分の点において平等な待遇となった。しかしそれでもまだ尼僧が自分の弟子に伝法することはできなかったので、尼僧団団員一同から、尼師僧による弟子への伝法ができるようにとの請願書が提出されたのである。

これら尼僧の宗制上の差別撤廃に対して、小島賢道師長沢祖禅師等は敢然として差別撤回を望んだ。そしてついに男僧尼僧の差別撤回が決議されたのは、実に昭和四十五年になってからのことであった。それは道心堅固に法燈を守り、修行し続けてきた尼僧たちの悲願であった。一般社会ではすでに男女同権が叫ばれて久しいというのに、人に道を説くべき宗教界にあって、遅きに失した観があろう。

尼僧の教育についても、駒澤大学の門は開かれていなかったが、小島賢道師、加藤真成師、谷口節道師、足立貞光師、倉田梅岳師の五人の尼師が門を叩いて、、大正十四年に聴講生としてようやく受け入れられたのである。五人は勉学に励まれ、その勉励により、卒業年度、昭和三年には専門部の卒業証書を授与されたのである。

これら尼僧の地位確立の為、ご苦労くださった先人の功績を肝に銘じておきたい。自然に流されるだけでは、今の尼僧に、男僧と同権の地位は手に入らなかったのである。しかし「苦難の尼僧史」と題したにしては、あまり苦難のお姿を書き切れなかったことご容赦願いたい。

*私は上記の尼師方の中で、小島賢道師の晩年にお会いすることができ、加藤真成師には親しくご教授頂きました。今、尼僧として生かされていることへの報恩の思いもあり、先人のご苦労を書き留めさせて頂きたいものと思い、簡単ではありますがブログ上に書かせて頂きました。

このような一文もブログというような不思議な手段で社会に発信されること、小島先生も加藤先生も、ご存命ならば「ほおーっ!おみゃーさん、面白いことだわな」とあの澄んだ目を輝かされたのではなかろうか。

*もしこれを女性の方がお読みならば、仏道に導かれて生きる尼僧という生き方もあることをお勧め致します。苦難の歴史を書いた後でなんですが。

*嗣法:師から弟子が法を嗣ぐこと。釈尊の法が連綿とインド、中国を経て日本に伝わり、その法は師から弟子へと伝承されている。制度上も師から弟子として認められると、法を伝えられたという証しの嗣書を頂く。

参考資料
『曹洞宗尼僧史』曹洞宗尼僧史編纂会 昭和30年
『比丘尼の自省 舟にきざむ』小島賢道
「中世仏教における尼の位相について」石川力山 『禅研究所年報』平成4年3月

樺美智子さんを悼む

2006-06-15 19:36:59 | Weblog
6月15日(木)曇り【樺美智子さんを悼む】

1960年の今日、 樺(カンバ)美智子さんが亡くなられた。60年安保闘争で日米安全保障条約改訂阻止を叫んで、4000人余の全学連の学生が国会に突入し警官隊と衝突した。その時、樺さんはこのデモの隊列の中にいたのである。機動隊による暴力のせいか、デモ隊にまきこまれて圧死したか、それぞれの主張があって原因は明確にされていないが、国会突入のデモの最中に若い命を落とされてしまったのである。

当時東大に在学していた樺さんはブント(共産主義者同盟)のメンバ-であり、文学部の副委員長をつとめる活動家であった。ブントは反日本共産党系の全学連の主流派である。アメリカ帝国主義と日本が手を結ぶことに反対して、多くの若者たちがこの条約の批准に熱く抗議していたのである。このとき重軽傷712名、被逮捕者167名と記録されている。重傷者のなかには教え子を心配して探しに来られた大学の教授もいたという。


当時の学生たちは、日本の将来を真に憂えていた。樺さんもそのような若者のお一人であった。学生運動の是非はともかくとして、日本国の将来を真剣に考えていた若者たちがいたことを、今日樺さんの命日であることに気づき、思い起こしたのである。(私が大学生になったのは、この事件のあとであるが、時折このことは報道されたので、印象深く覚えている。私が学生の頃は過激派の内ゲバがひどくなり、学生運動は社会から遊離してしまった。)

このような大きな犧牲を払ったが、日米安保条約は6月19日には国会で承認され、その月の23日には批准されてしまったのである。今でさえも果たしてアメリカとの協力関係が、このようでよいのか、議論されるところである。この条約に明記される〈基地の許与〉により、(旧条約にもあった項目であろうが)沖縄や厚木や基地のある街の人々は迷惑を蒙っているのである。

またこの地球上でいつも戦争を起こしているアメリカの言いなりになっている日本、これでよいのであろうか。ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン、イラク戦争等々。アメリカが、起こさなくてもよい戦争を起こしているではないか。これらの戦争によってどれほど多くの尊い人間の命が奪われ、今も奪われていることだろうか。

樺さんが生きていらっしゃったら、「私たちが命を賭して反対した理由が判ったでしょう」とおっしゃったであろう。

ご冥福を祈ります。(もうとっくに生まれ変わって、世界のために地球上のどこかでご活躍なさっているかもしれない。)

*樺美智子:(1937.11.8~1960.6.15)遺稿集『人しれず微えまん』

「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

1956年 美智子作

苦難の尼僧史、その2

2006-06-14 21:18:36 | Weblog
6月14日(水)曇り【苦難の尼僧史、その2】

 三、活躍した尼僧たち

全ての僧伝は男僧の編集によるので、男僧の目から見た尼僧史であるし、史伝に登場する尼僧は数少ないのであるが、その中でも幾人かの尼僧の活躍をうかがうことはできる。尼僧史としてまとまった一書としては、近年田島柏堂氏の『曹洞宗尼僧史』の労作がある。この書を繙いてみると、善信尼以来、活躍の足跡を残した尼僧たちの行跡が紹介されている。読み返してみると改めて先人の偉業に驚かされる。その一端をご紹介したい。

遠く奈良時代には、法均尼なる尼僧が凶作による捨て子を、百人近くも養子として養育している。さらに法均尼は恵美押勝の乱に連座して死刑に処せられるところの三百七十五名の減刑嘆願をなしてさえいる。

曹洞宗にあっては、先に紹介した了然尼は言うに及ばず、瑩山禅師の会下に明照尼という優れた尼僧がいたようである。明照尼は師の言を入れて大智祖継のもとに参じ、省悟したといわれている。そして瑩山禅師の法を嗣ぎ、圓通院の院主となっている。また峨山禅師には嗣法を許された尼僧として五人の名が残されている。  

また相模の大雄山最乗寺開祖了庵慧明禅師の実妹とされる華綾慧春尼も特記されよう。尼については『重続日域洞上諸祖伝』にその史伝が記載されている。尼師については美しい顔を鏝で焼いて出家を許されたとか、円覚寺の僧との際どい応酬なども残されているが、これに似た話しは他の尼僧の史伝にもあるので、信憑性が薄い。しかし最乗寺三世、大綱明宗禅師伝に表れる慧春尼については、史実としてかなり信憑性が高い。明宗禅師の法座に座していた慧春尼は密かに言った。「貴僧はなかなか智慧もすぐれ、教えに明るい。しかし自らの安心が出来ていない。」「方向違いの仏道修行をしている。貴僧のためにそれを惜しむ」と。明宗禅師は慧春尼の言に従い、了庵慧明禅師のもとで、さらに修行に励んだという。慧春尼様については項をあらためて記したい。

他にも京都換骨堂に黙旨尼あり、越後に貞心尼あり、京都に『洞上正宗訓』を開板した祖松尼あり、得法の師であり、かつ私財を投じて社会事業に尽くした尼僧たちをみることができる。

 四、劣位におかれた尼僧寺

さて、それではいつ頃から尼僧の劣位は始まったのであろうか。国分寺、国分尼寺の頃にあっては、それほどの劣位に置かれている状況はなかったのではなかろうか。 尼寺は『法華経』の読誦をまかされ、滅罪の役を仰せつかって、国家からの経済的保証を得られていたのである。

ところが鎌倉時代以後、僧尼の管理が武家の手に移るようになると、度牒の制も弛緩し、尼寺の国家機関としての地位が完全に失われることとなったのである。このことにより経済的基盤を奪われてしまったことは尼僧が低く見られるようになってしまった大きな因であろう。

また僧籍に関してもいい加減となり、出家得度式も受けないにもかかわらず、尼僧と称する者が出てくるようになってしまった、というような尼僧の質が落ちたということも、尼僧が低く見られるようになってしまった理由の一つといえよう。幾つかの要因はあろうが、一段と低く見られるようになり、宗制上も劣位に置かれるようになってしまったのではなかろうか。

当然そのような状況の中にも、発心堅固な、厳格に修行を続ける勝れた尼僧たちも多く輩出したのであろうことは想像に難くない。しかし尼僧にとって決定的なダメージは江戸時代に幕府が決めた法度で、尼寺は必ず男僧の寺を本寺としてその所属の末庵とされてしまったことにあろう。

この制度により、尼寺の置かれた立場は、実に低いものとされることとなった。尼僧が劣位に置かれるようになったのは、経済的基盤を失い、男僧寺の下に置かれたことが大きな要因であろうと私は考える。

上記の事以外にも、男尊女卑の傾向が社会にはある。現代においてはだいぶ是正されてはいるが、完全に払拭されているとは言い切れないのである。差別思想を社会から払拭するには人間一人一人の教養によるのではなかろうか。教養は教育とは異なり、教養は人間の尊厳を尊重する知性と、宇宙を感じる感性を持てれば、自ずと身につく心眼である。道元禅師のお考えについては先に「礼拝得髓」巻の引用を挙げておいたので参考にして頂きたい。
(続く)
*この一文は尼僧史を学んでみたいと思い、簡単にまとめた私論の一部です。あまり皆さんには興味がないことかもしれませんが、少しまとめさせて頂きました。
 

苦難の尼僧史(その1)

2006-06-13 23:51:35 | Weblog
6月13日(火)曇り【苦難の尼僧史(その1)】

 一、 我が国最初の出家僧は尼僧であった

 我が国では、飛鳥時代、敏達天皇十三年(584)に善信尼が高麗の僧のもとで出家受戒した。善信尼は渡来僧、司馬達等の娘である。他に禅蔵尼恵善尼の二人がいた。この三人は、後に排仏派の物部守屋等によって三衣を剥奪され、鞭の刑を受けたり、市中を引き回されたり等の迫害にあったのである。

しかし善信尼等の仏教信仰の念は固く、復権の後に百済に渡航、具足戒を受けて正式の大僧となった。この三尼僧についての記述が我が国における僧侶として、初めてのものである。よって歴史的には尼僧が日本における最初の出家僧なのである。
 
そのことによって私が尼僧だからといって尼僧の優位性を誇示する意図はないが、我が国仏教史上初の迫害に遭い、その法難を乗り越え、具足戒を受けて我が国に法燈を受け継いだのは尼僧であるという歴史をあらためて明記しておきたい。

聖武天皇が国分寺、国分尼寺を建立した当時、尼僧、男僧の優劣の記載はない。おそらく男尊女卑の思想は日本民族には無かったのではないか。儒教が入ってきてより一層強くなったのではなかろうか。

しかしいつの頃からか尼僧が男僧よりも劣位に置かれるようになった。それはなぜなのかという歴史的なことを見据えておきたい。現在では法制上の差別は撤回されている。

「原始女性は太陽であった」と平塚雷鳥女史は訴えたが、まさに日本最初の出家僧は女性であったことを確認しておきたい。「日本で初めての法灯を照らしたのは尼僧であった
 
  二、 宗門最初の尼僧と道元禅師の尼僧観

道元禅師の会下に、宗門最初の尼僧、了然尼がいる。「示了然道者法語」によれば、道元禅師がこれを書き示したのは、寛喜三年(1231)であることがわかる。また尼については『永平広録』中に
  〈原文〉
 了然道者、夙有般若種子、切志仏祖大道。雖是女流、則大丈夫志気也
  〈訓読〉
 了然道者は夙に般若の種子有り。切に仏祖の大道を志す。是れ女流なりと雖も、則ち大夫の志気なり
  〈訳〉
 了然道者は早くから智慧の目を持っていて、熱心に仏祖の御教えを学んだ。了然道者は女性であるが、立派な男子と同じ意気込みを持っているのである。

このように道元禅師が書かれているように、了然尼は僧侶としてすぐれた人物であったことが窺える。おそらく、唐代、灌谿志閑禅師を教え導いたというほどの、末山了然尼(生没年不詳、南岳下、高安大愚の法嗣)に因んで与えられた法名であろう。

『正法眼蔵』「礼拝得髓」巻には、随処に得道の比丘尼に対する礼拝の法が記されている。その一節をあげておきたい。
〈原文〉
(しかあれば、)いまも住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんを請ずべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なにの要かあらん。為衆の主人、かならず明眼によるべし。
〈訳〉
住持や首座がいないときには、得法の比丘尼にお願いすべきである。たとえ法臘の高い比丘であっても、得法していなければ、何の役にも立たない。大衆を導く者は優れた法の眼を具えていなくてはならない。

〈原文〉
正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏および三賢十聖もきたりて礼拝問法せんに、比丘尼この礼拝をうくべし。男児なにをもてか貴ならん。虚空は虚空なり、四大は四大なり、五蘊は五蘊なり。 女流も又かくのごとし、得道はいづれも得道す。ただし、いづれも得法を敬重すべし。男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。
〈訳〉
   仏法の真髄を伝承護持している比丘尼は、四果(預流果、一来果、不還果、無学果)声聞、縁覚等の辟支仏や三賢(聖位に入る前の凡夫位の修行の階位)十聖(菩薩の十住の修行の階位)にある者も礼拝し問法に来たならば、比丘尼もこれらの礼拝を受けるべきである。男はなにを以て貴いというのであろうか。虚空は虚空なり、四大(地水火風)は四大なり、五蘊(色受想行識)は五蘊なり。(男といったところで、所詮は五蘊仮和合している実体のないものではないか)それは女流も同じことである。男女にかかわらず得道は得道である。ただ男女にかかわらず得道する者をを敬い重んじるべきである。男女を問題にすべきではない。これは仏道の究極の法則なのである。

また瑩山ケイザン禅師の会下にも多くの尼僧の記録が残されている。女人救済の誓願を立てられて、宗門最初の尼寺、圓通院を建立なさったのは瑩山禅師である。母、祖母への報恩の想いは強く「三世十方の女人を救済し尽くさねばやまない」との発願文を書かれたのは正中二年(1325)のことである。また瑩山禅師については他日考察したい。

*自分自身の研究としてまとめた一文を紹介した。