風月庵だより

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全巌東純禅師について

2008-11-19 21:44:11 | Weblog
11月19日(水)晴れ【全巌東純禅師について】(全巌禅師の頂相の写真は撮らせていただいたのですが、ブログに掲載の許可を頂いていませんので、全巌さんのふくよかな風貌をお見せできませんがお許しを)

一昨日と昨日、曹洞宗総合研究センターの第10回学術大会が、宗務庁のあるグランドホテル内で開かれました。大変盛会でした。

私の研究発表についてのみ紹介させていただきますと、「全巌東純禅師の行状」について発表しました。全巌東純禅師といいましても殆どの皆さんはご存じないかもしれません。しかし、あらためて調べてみますと、なかなか興味のある禅僧です。15世紀の日本、14歳のとき自らすすんで羽黒山で剃髮し修行生活に入りました。真言密教の修行を20年以上にわたってつとめた後に、禅宗に改宗なさった方です。

そうして私のメインの研究である器之為璠禅師という方と、永澤寺でついに相見なさいまして、この方こそ我が師と思われたに違いないのです。それからは器之禅師に隨身しまして永澤寺から長門の大寧寺、それから周防の龍文寺というふうに、器之禅師の動くところどこまでも隨身してついていきました。おそらく全巌さんは器之禅師に出会う前からすでに僧侶としての力量豊かに備わっていた方なのでしょう。まもなく省(さとり)を認められます。

器之禅師もおおいに全巌さんのことを認められていたのでしょう、すぐに大寧寺の住持職を譲った器之禅師の弟子の大庵禅師の元に送りました。これはおそらく大寧寺の跡取りにするつもりの計らいと私は見ています。力量のある人物を見抜いて、後継者とすることは、当時の寺院経営にとって重要なことであったと思います。

山形出身の真言僧が禅僧となり、鎌倉、京都を経て、やがては長門・周防(山口)の国にまで至り、ついに正師を得て、さとりを開き、一ヶ寺を任せられるようになる、こんな足跡を追いかけますと、その人が彷彿と私には浮かび上がってきます。まして雪舟が描いたという、この方の頂相(肖像画)を先月山口の瑠璃光寺で拝見させていただいたので、風貌までが目に浮かびますので、なおのこと文字だけの資料から少し抜け出していただいけたのだと思います。

しかしあまり資料がありませんので、これからまだまだ研究の余地はあります。それにしましても研究の中心である器之禅師だけ頂相も木像も今のところ発見されていないようです。器之禅師の師匠の竹居正猷禅師は、九州鹿児島の妙円寺に木像が残されています。弟子の大庵須益禅師は瑠璃光寺に頂相と、全巌さんが描かれたという肖像画が残されています。さらにその弟子の全巌さんの頂相は、なんと雪舟筆として残されています。器之禅師のだけがございません。どこかに残されていないものでしょうか。ご存じの方はいませんか。

当時、大寧寺からは多くの住職が、總持寺の輪番住職としてあがっています。全巌さんも、大庵禅師もあがっています。輪番にあがるにはかなりの費用がかかったそうで、おそらく千両くらいといわれていますが、大内氏の菩提寺として大寧寺がいかに財政豊かなお寺であったかということがわかります。

全巌さんは大寧寺住職のあと、山口瑠璃光寺の2世となり、大寧寺は弟子の足翁永満禅師に譲ります。このとき周防の龍文寺は大庵禅師の弟子、つまり全巌さんの兄弟弟子の為宗仲心が住職をしています。こうして、長門、周防、そして現在の山口市のある地の要所をしっかりと器之禅師の法系が押さえている構図をみてとることができます。戦の絶えない時代、寺の果たした役割は武士の城と同じように意味のあったことでしょう。

と、こんなようなことをいろいろと調べたりしています。山口の地で六百年前に活躍していた曹洞宗の禅僧に呼びかけながら、道を求めて生きた姿から学ぼうとしているわけです。なぜ器之為璠禅師と研究の縁がつながったのかわかりませんが、多生の縁かもしれません。

なんとか風邪も乗り切ったようですが、二週間以上風邪引き状態で三十五キロ位になりました。 風吹けば木の葉のごときこの身かな


子猫ルナの心配

2008-11-12 21:22:32 | Weblog
11月12日(水)曇り【子猫ルナの心配】

《 あたしの遊び友達は、どうしたのかしら、毎日寝てばかり。あまり遊んでくれません。遊んでもらいたいんだけど。白い丸い(ペットボトルの蓋のこと)ので、あたしヒトリで、追いかけて遊んでいるのも大好きだけど、やっぱりね、一緒に遊びたいな。

「ニンゲンノカゼハ、ネコニハ、ウツラナインデスカ、アンシンシマシタ」と、あたしの遊び友だちは、なにか四角いような入れ物を耳にあてて、入れ物とお話ししています。それにぶらさがっている飾りを、あたしはとても好きなの。あたしが手でいじると「ダメヨ」と言われてしまいますけど。

早く起きてもらいたいニャー。このまま起きてくれなかったらどうしよう。もう遊んであげるのやめようかしら。》

と、ルナは心配そうに時々見ていました。お陰様でようやく少し起きられるようになりました。でもなかなか治りきりません。風邪は万病の元、と言いますから、特に私は加齢ですので、気をつけたいと思っています。皆さんも本当に風邪にはご注意ください。


風邪にご注意

2008-11-11 13:16:00 | Weblog
11月11日(火)曇り【風邪にご注意】

風邪でまたも寝込んでおりました。今年は毎朝、海洋深層水を飲むようにしたり、水分補給やら気をつけていたのですが、ちょっとした不注意で引き込んでしまいました。お陰様でルナとずっと一緒に過ごせました。実にのびのびと寝ています。

それに比して私は、来週の火曜日学術大会があり、論文発表を控えています。だいぶ焦っています。焦りながら風邪の熱にうなされていました。今日は少々よくなりましたので、書き上げなくてはなりません。

ブログの方は、あまり記事を書けないですみませんが、ご訪問の皆様すみません。くれぐれも風邪にはご注意ください。

まぼろしの邪馬台国

2008-11-01 22:02:03 | Weblog
11月1日(土)晴れ【まぼろしの邪馬台国】(この空の写真は映画とは関係ありませんが、いつも空に浮かぶ雲のロマンに惹かれている私の写真です)

今日は映画『まぼろしの邪馬台国』を観てきました。大変に感動的な映画でした。

主演は吉永小百合さんです。夫の宮崎康平役は竹中直人さん、本当にこの方は役者ですね。他に共演者は窪塚洋介、風間トオル、平田満、由紀さおりさん等等です。

古代日本の邪馬台国はどこにあったか、それは今も特定されてはいません。それを探し出すことは、いまだ歴史研究者にとってのロマンでしょう。島原にそれはあったと確信していた宮崎康平は、妻和子さんの手とも足とも目ともなる協力を得て、邪馬台国を探し求めたのでした。妻和子さんが目ともなったのは、康平さんは全盲だったからです。

二人の書いた『まぼろしの邪馬台国』は第一回吉川英治文化賞を受賞しました。それは昭和42年のことです。この度、己の信ずる仕事に没頭し、それを貫くことの感動を教えてくれる映画となって甦りました。また人間の信頼の絆をあらためて教えてくれる映画でもあり、不毛の仕事にも立ち向かう勇気を与えてくれる映画ともなっています。

そして映像芸術としても楽しめる映画です。吉永さんが卑弥呼に扮するシーンも、吉永ファンにとってはわくわくするようなシーンになっています。近年の吉永作品として、映画評論家風月劫外としましては、一番の映画といえましょう。

詳しい内容の説明は、ご覧になる人の楽しみをそぎますので、詳細はさけますが、本当に楽しめる映画です。今日から全国封切りになりましたので、是非是非ご覧ください。


なお「島原の子守歌」は宮崎康平作詞・作曲だそうです。