11月19日(水)晴れ【全巌東純禅師について】(全巌禅師の頂相の写真は撮らせていただいたのですが、ブログに掲載の許可を頂いていませんので、全巌さんのふくよかな風貌をお見せできませんがお許しを)
一昨日と昨日、曹洞宗総合研究センターの第10回学術大会が、宗務庁のあるグランドホテル内で開かれました。大変盛会でした。
私の研究発表についてのみ紹介させていただきますと、「全巌東純禅師の行状」について発表しました。全巌東純禅師といいましても殆どの皆さんはご存じないかもしれません。しかし、あらためて調べてみますと、なかなか興味のある禅僧です。15世紀の日本、14歳のとき自らすすんで羽黒山で剃髮し修行生活に入りました。真言密教の修行を20年以上にわたってつとめた後に、禅宗に改宗なさった方です。
そうして私のメインの研究である器之為璠禅師という方と、永澤寺でついに相見なさいまして、この方こそ我が師と思われたに違いないのです。それからは器之禅師に隨身しまして永澤寺から長門の大寧寺、それから周防の龍文寺というふうに、器之禅師の動くところどこまでも隨身してついていきました。おそらく全巌さんは器之禅師に出会う前からすでに僧侶としての力量豊かに備わっていた方なのでしょう。まもなく省(さとり)を認められます。
器之禅師もおおいに全巌さんのことを認められていたのでしょう、すぐに大寧寺の住持職を譲った器之禅師の弟子の大庵禅師の元に送りました。これはおそらく大寧寺の跡取りにするつもりの計らいと私は見ています。力量のある人物を見抜いて、後継者とすることは、当時の寺院経営にとって重要なことであったと思います。
山形出身の真言僧が禅僧となり、鎌倉、京都を経て、やがては長門・周防(山口)の国にまで至り、ついに正師を得て、さとりを開き、一ヶ寺を任せられるようになる、こんな足跡を追いかけますと、その人が彷彿と私には浮かび上がってきます。まして雪舟が描いたという、この方の頂相(肖像画)を先月山口の瑠璃光寺で拝見させていただいたので、風貌までが目に浮かびますので、なおのこと文字だけの資料から少し抜け出していただいけたのだと思います。
しかしあまり資料がありませんので、これからまだまだ研究の余地はあります。それにしましても研究の中心である器之禅師だけ頂相も木像も今のところ発見されていないようです。器之禅師の師匠の竹居正猷禅師は、九州鹿児島の妙円寺に木像が残されています。弟子の大庵須益禅師は瑠璃光寺に頂相と、全巌さんが描かれたという肖像画が残されています。さらにその弟子の全巌さんの頂相は、なんと雪舟筆として残されています。器之禅師のだけがございません。どこかに残されていないものでしょうか。ご存じの方はいませんか。
当時、大寧寺からは多くの住職が、總持寺の輪番住職としてあがっています。全巌さんも、大庵禅師もあがっています。輪番にあがるにはかなりの費用がかかったそうで、おそらく千両くらいといわれていますが、大内氏の菩提寺として大寧寺がいかに財政豊かなお寺であったかということがわかります。
全巌さんは大寧寺住職のあと、山口瑠璃光寺の2世となり、大寧寺は弟子の足翁永満禅師に譲ります。このとき周防の龍文寺は大庵禅師の弟子、つまり全巌さんの兄弟弟子の為宗仲心が住職をしています。こうして、長門、周防、そして現在の山口市のある地の要所をしっかりと器之禅師の法系が押さえている構図をみてとることができます。戦の絶えない時代、寺の果たした役割は武士の城と同じように意味のあったことでしょう。
と、こんなようなことをいろいろと調べたりしています。山口の地で六百年前に活躍していた曹洞宗の禅僧に呼びかけながら、道を求めて生きた姿から学ぼうとしているわけです。なぜ器之為璠禅師と研究の縁がつながったのかわかりませんが、多生の縁かもしれません。
なんとか風邪も乗り切ったようですが、二週間以上風邪引き状態で三十五キロ位になりました。 風吹けば木の葉のごときこの身かな
一昨日と昨日、曹洞宗総合研究センターの第10回学術大会が、宗務庁のあるグランドホテル内で開かれました。大変盛会でした。
私の研究発表についてのみ紹介させていただきますと、「全巌東純禅師の行状」について発表しました。全巌東純禅師といいましても殆どの皆さんはご存じないかもしれません。しかし、あらためて調べてみますと、なかなか興味のある禅僧です。15世紀の日本、14歳のとき自らすすんで羽黒山で剃髮し修行生活に入りました。真言密教の修行を20年以上にわたってつとめた後に、禅宗に改宗なさった方です。
そうして私のメインの研究である器之為璠禅師という方と、永澤寺でついに相見なさいまして、この方こそ我が師と思われたに違いないのです。それからは器之禅師に隨身しまして永澤寺から長門の大寧寺、それから周防の龍文寺というふうに、器之禅師の動くところどこまでも隨身してついていきました。おそらく全巌さんは器之禅師に出会う前からすでに僧侶としての力量豊かに備わっていた方なのでしょう。まもなく省(さとり)を認められます。
器之禅師もおおいに全巌さんのことを認められていたのでしょう、すぐに大寧寺の住持職を譲った器之禅師の弟子の大庵禅師の元に送りました。これはおそらく大寧寺の跡取りにするつもりの計らいと私は見ています。力量のある人物を見抜いて、後継者とすることは、当時の寺院経営にとって重要なことであったと思います。
山形出身の真言僧が禅僧となり、鎌倉、京都を経て、やがては長門・周防(山口)の国にまで至り、ついに正師を得て、さとりを開き、一ヶ寺を任せられるようになる、こんな足跡を追いかけますと、その人が彷彿と私には浮かび上がってきます。まして雪舟が描いたという、この方の頂相(肖像画)を先月山口の瑠璃光寺で拝見させていただいたので、風貌までが目に浮かびますので、なおのこと文字だけの資料から少し抜け出していただいけたのだと思います。
しかしあまり資料がありませんので、これからまだまだ研究の余地はあります。それにしましても研究の中心である器之禅師だけ頂相も木像も今のところ発見されていないようです。器之禅師の師匠の竹居正猷禅師は、九州鹿児島の妙円寺に木像が残されています。弟子の大庵須益禅師は瑠璃光寺に頂相と、全巌さんが描かれたという肖像画が残されています。さらにその弟子の全巌さんの頂相は、なんと雪舟筆として残されています。器之禅師のだけがございません。どこかに残されていないものでしょうか。ご存じの方はいませんか。
当時、大寧寺からは多くの住職が、總持寺の輪番住職としてあがっています。全巌さんも、大庵禅師もあがっています。輪番にあがるにはかなりの費用がかかったそうで、おそらく千両くらいといわれていますが、大内氏の菩提寺として大寧寺がいかに財政豊かなお寺であったかということがわかります。
全巌さんは大寧寺住職のあと、山口瑠璃光寺の2世となり、大寧寺は弟子の足翁永満禅師に譲ります。このとき周防の龍文寺は大庵禅師の弟子、つまり全巌さんの兄弟弟子の為宗仲心が住職をしています。こうして、長門、周防、そして現在の山口市のある地の要所をしっかりと器之禅師の法系が押さえている構図をみてとることができます。戦の絶えない時代、寺の果たした役割は武士の城と同じように意味のあったことでしょう。
と、こんなようなことをいろいろと調べたりしています。山口の地で六百年前に活躍していた曹洞宗の禅僧に呼びかけながら、道を求めて生きた姿から学ぼうとしているわけです。なぜ器之為璠禅師と研究の縁がつながったのかわかりませんが、多生の縁かもしれません。
なんとか風邪も乗り切ったようですが、二週間以上風邪引き状態で三十五キロ位になりました。 風吹けば木の葉のごときこの身かな