風月庵だより

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チョウゲンボウ救出劇

2007-11-28 18:38:46 | Weblog
11月28日(水)曇り【チョウゲンボウ救出劇】

研究所の近くに芝公園があるので、最近昼休みに散歩をすることにしている。今日はその散歩途中でのタカ目ハヤブサ科のチョウゲンボウ救出劇について。 <font color="red">付記:鳥に詳しい方からコメントを頂きまして、この鳥はオオタカの幼鳥ではなかろうかということです< /font>

それは芝公園に隣接する芝東照宮の方に足をのばしたところ、一人の青年に声をかけられたところから始まった。「あのー、ここの近くの方でしょうか」と聞か れたので、「いえ、そうではありませんがなにか?」と答えると、「あの珍しい鳥だと思うのですが、飛べないようなのです」と言った。見るとワシのような鳥 がすぐわきの草むらでじっとしている。そばに近づいてもピョンピョンと少し羽を拡げて歩くだけで飛ぶ様子が無い。「このままですと、カラスや猫にやられて しまいそうなので」と青年は心配そうに言った。どうしたらよいか、私もよい考えが浮かばない。近くの東照宮の社務所のベルを鳴らしたが、誰も出てくる様子 は無い。携帯電話は持ち歩かないので、誰かに訊ねることもできない。

 
そこに丁度親切そうな人が通りかかったので、「お知恵をお貸し下さい」と頼んだところ、「これはみさごか何かタカの類の珍しい野鳥ですよ」と言って、捕ま えてみようかとしてくれたのだが、かえってトリは捕まえづらい塀のほうに歩いて逃げてしまった。そこでじっとまた動かなくなった。(写真のようにです)そ の通りがかりの人は、野鳥の会に聞いてみようと、ご自分の携帯電話で、野鳥の会の電話番号を調べてくれて、すぐに問い合わせてくれた。そこでさらに都庁の 係りを教えてくれたそうで、そこにかけたのであるが、どうも埒があかない様子である。「このままでは猫かカラスの餌食になってしまうんですよ、なんとか助 ける方法はありませんかね、だんだんに少なくなってしまう野鳥ですよ」とその人はなかなか引き下がらない。「私たちに捕まえろ、と言われても嘴は鋭いし、 足の爪も鋭いので危なくて捕まえられませんよ、網があればいいですけどね」都庁の電話口の人はこちらで捕まえられないか、と言っているようである。「それ は無理だから、なんとか来てください」とさらにくいさがっている。やり合うこと数十分のように感じた。その間にも猫が狙っているのを追い払ったり、カラス の襲撃から守ったり、目を離せない。

最初声をかけてきた青年は「すみませんが、昼休みが終わってしまいまして」会社に戻らなくてはならないので、すみませんが、と恐縮しながら帰っていった。 そのうち猫に餌を与えに来ていたYさんも来てくれて、猫を追い払う役を務めてくれた。「チャーチャン、だめ。だめ」と屋根の上から、トリを狙おうとしてい る茶色の猫を払ってくれたりしている。トリの保護に来てくれる話がついたので、私は一度研究所に戻った。いちおう携帯電話とダンボールを持って公園に戻る 途中お巡りさんにも声をかけた。公園に戻ると、トリが塀から下に落ちてしまったようで、救出はさらに難しくなっていた。そこに品川から来てくれたというI さんが大きな捕獲網を持って到着してくれ、いよいよ捕獲作戦開始である。しかしトリは2メートル以上も下にいてそこに降りていくのが難しい。捕獲網のIさ んは私よりは歳を召されているようなので、身軽な私が崖のようなところを降りることにした。なんとかトリを助けたいの一念で崖を降りることができ、網に無 事に捕獲することができた。

電話して保護する人を呼んでくれたEさん、猫を見張ってくれたYさん、品川からやってきてくれた東京都の野鳥保護員のIさん、ちょっぴり私、そして最初に 発見し、見張ってくれていた青年のお陰で、このトリは無事に保護され、動物病院に連れて行ってもらえることになった。Iさんがこれは「チョウゲンボウです よ」と教えてくれた。チョウゲンボウ救出劇はこれで無事に終わりました。猫を撮影するために持っていたデジカメでチョウゲンボウを写せましたので皆さんに お見せしました。チョウゲンボウは 餌はネズミやモグラ、ミミズやそして小鳥だそうです。一羽のチョウゲンボウは助けましたが、多くの小鳥たちがいつかは 餌にされてしまうのですね。しかし、このチョウゲンボウを、みすみすカラスの餌になるのを見逃すわけにもいかず、いかんともしがたい自然界のサイクルで す。あのチョウゲンボウは餌を十分にとれずに空腹で飛べなかったのかもしれないという意見もありましたが、果たして如何に。チョウゲンボウは今頃ゆっくり 寝ているでしょうか。










隣人

2007-11-27 21:16:26 | Weblog
11月27日(火)曇り【隣人】

これほどに殺人事件が昔はなかったですよね。情報が今ほど飛び交わなかったというだけではなく、たしかにこれほど殺人事件はありませんでした。昔といってもほんの30年前もこれほどではなかったのでは。どうしてしまったのでしょうか、人間は、日本人は。他国の事はさておき。

でもこんな隣人がいたらなんと心強いことか、という素敵な話もありましたね。あの火事の話ですが、逃げ場を失った若夫婦と赤ちゃんが助けられた話です。なんとか赤ちゃんには煙を吸わせないようにと、窓からなるべく外に出して助けを求めていたのでしょうか。下からそれを見ていた向かいのおじさんが、「俺が受けとめてやるから下に投げろ」と言ったそうですね。3階から下までは約7メートル。少し躊躇したようですが、火の手は迫ってくるし、それしか方法はありません。思いきってお父さんは赤ちゃんを手放しました。その赤ちゃんを、向かいのおじさんは無事にキャッチしてくださったのです。

その上、布団を下に敷きまして、赤ちゃんの両親に飛び降りるように指示してくれたそうです。7メートル上からのジャンプ、恐かったでしょうね。でもお母さんは軽傷、お父さんは足を折ったそうですが、命は助かりました。赤ちゃんの家族は、向かいのおじさんのお陰で無事に命が助けられたのです。このニュースは先週だったでしょうか。このニュースを聞いたとき、機転の効く、頼もしい隣人は有り難い存在だと思いました。今でもこのニュースのことを思うと、救われる思いがします。

私もこんな隣人でありたいとも思います。そんなことを思いながらフォームで電車を待っていました。その駅から始発なので、整列して待っていました。すると2列ほど離れた先に、青年がフォームの端から頭一つ線路の方に出してしゃがんでいます。その先には電車が入ってくるのが見えます。

「危ないですよ!電車が入ってきますよ!」私は叫びました。なんといってもお経で鍛えている声ですからね。2列ぐらい離れていても十分届きました。青年はハッとしたように身を引き、後ろを振り向きました。悪い遊びを見つかった子どものように、青年は背中を見せて歩き去りました。事故にならないでよかったです。でもできれば近くの人に注意して貰いたかったですね。

ちょとした隣人の一言が助けになるときもあるのではないでしょうか。ある少年が横道にそれていたそうですが、顔見知りの近所のおばちゃんがいつも声をかけてくれたそうです。このおばちゃんのためにひとつ真面目になってやろうか、と思って更正した、という人もいるそうです。

昨今は一言注意したばっかりに、グサリということもありますから、相手を読みながらも必要でしょうが、あきらかに人の助けになることは助け合っていきたいですね。そして皆さんもトラブルには巻き込まれませぬようにと願っています。

御陰様

2007-11-25 18:17:02 | Weblog
11月25日(日)晴れ、暖か【御陰様】(暖かい公園にて)

三日間のお休みは終わり。皆さんはどのように過ごされたでしょう。私はお寺の仕事で休みはなかったのですが、法事の途中で、公園や植物園を散策しました。ところで、今、窓の外を見ましたら、赤い十六夜の月が上がっていますね。

さて、私は出家してより25年と半年が経ちました。まだ25年と半年ですが、もう25年と半年でもあります。それなのに、なかなか仏教の教えが本当には分かっていません。皆さんからお布施を頂いて生きているのに、僧侶として仏教が分かっていないと言うことは、本当に心苦しい。師匠にも育てていただきましたが、駒澤大学に入って仏教学も学び、今に至っています。まだまだですが、最近やっと写経教室で「般若心経」の解説をさせていただけるようになりました。今まで10年ほど写経教室の講師をさせて貰いましたが、「般若心経」の解説はできませんでした。

フクロウ博士という友人の御陰で、ようやく自分の言葉で「般若心経」の話ができるようになりました。今は昭和女子大学のオープンカレッジで写経教室の講師をさせていただいていますが、そこでようやく「般若心経」をスタートすることができました。25年と半年がかかりました。私はなんと頼りのない僧侶です。

法事においてはお布施を頂くのですから、私はプロでなくてはならないという考えがあります。それは私が在家の時に、小さな会社を経営した経験から、お金を得るということがいかに大変なことであるかを、身に沁みて味わったからです。出家者なのにプロ意識というのはおかしいと、思う方もいるかもしれませんが、お金を頂く以上はプロでなければ、という考えがあります。たとえ未熟であってもアマチュアということはあり得ない、と思います。それはどのような職業においてもいえることではないでしょうか。僧侶は職業か、というとそれはまた別の話になりましょうが。

葬式仏教などと批判的に日本の仏教を表現する人もいますが、それも日本における一役ではないでしょうか。仏事にかかわり、仏事でお布施を頂戴する以上は、やはりその道のプロになる努力は必要でしょう。そしてその仏事にかかわる僧侶は、根底において、仏道修行しつづける出家者であり、仏教とはどのような教えであるかを学び続けていく出家者でありたい、と考えます。

ところで、「般若心経」の空や無ですが、全てが空であるとは、全て実体が無いということですから、縁に依って成り立っているのであり、自分だけで成り立っている物も人もこの世にはあり得ない、ということになります。そう考えますと、生きていることは御陰様で成り立っているということになりませんか。ということで、私は、空や無は御陰様になるとさえ解釈しています。

御陰様で今日も一日勤め終わりました。皆さん、いつもブログをお読みいただき有り難うございます。御陰様にて書く気力が出ます。ただあまりまめに書けませんので、サボっているときにはバックナンバーからお読みいただけますと幸甚です。(右側のEntry Archiveの年月をクリックして下さい。)

十六夜の月は、はや少し上に上がり白色に輝いています。月を眺めながら、そうですね、熱燗でもつけて飲みましょうか。真面目そうなことを言いながら、真面目な僧侶ではありません。南方仏教では破戒僧になりますよ。

あれこれ随想記にも「おかげさま」のログがたまたま今日掲載されていますのでお尋ねしてみてください。http://blog.goo.ne.jp/zen-en/

「私の書いたポエム」公開録音

2007-11-24 21:57:35 | Weblog
11月24日(土)晴れ【「私の書いたポエム」公開録音】(青空と木々)

今夜は満月が美しい。時の移ろいは目に見えなくとも、月の満ち欠けは時を視覚化してくれる自然界の一つの表情といえようか。

さて、昨日は芝公園にある東京グランドホテル(曹洞宗宗務庁はこのホテルのなかにある)の広間で、公開録音があったので、その話を少し。「私の書いたポエム」という番組が、ラジオNIKKEIで毎週日曜日に放送されている。提供は曹洞宗である。一年に一度スペシャル番組が組まれ、昨日はその公開録音があった。司会は長岡一也さん、大橋照子さん、この二人でこの番組は33年間続いている。

ゲストには、フォークシンガーのばんばひろふみさんが来て、「いちご白書をもう一度」を自らギターを弾いて歌ってくれた。過ぎ去りし学生時代を思い出し、懐かしい思いで聴いた。私の年代の来場者も何人かはいたのでなんとなく懐かしいわ、という感じが伝わってきた。しかし来場者は意外と男性が多く、30代から50代頃で、皆「私の書いたポエム」のリスナーである。それぞれ詩の投稿者のようである。

他のゲストに感じのよい青年がいたが、高橋文輝さんという小説家だった。この頃小説をあまり読まなくなってしまったので、小説界の動向には疎くなってしまっていたので失礼ながら紹介されるまで知らなかった。『途中下車』という小説で、東大在学中に第一回幻冬舎NET学生文学賞を受賞し、『アウレリャーノがやってくる』という小説でで第39回新潮新人賞を受賞したそうだ。驚いたことに、お父さんは直木賞作家の高橋義夫さんで、私の好きな作家の一人である。

城戸真亜子さんはテレビなどで顔をよく見かけている方であった。この3人のゲストを交えて、「いのち」というテーマでそれぞれ含蓄のあるトークがなされた。また他にも「私の書いたポエム」なので、たくさんの応募作品の中から、選ばれた詩が朗読されたり、受賞式もあった。

また坐禅体験コーナーもあり、宗務庁の工藤淳英さんが指導した。初めて坐禅した人もいたり、なかには3回目という方もいたりだが、短い時間だったにも拘わらず、「なんだかすっきりしました」という感想の人が数人いたのには感心してしまった。一日の内、短い時間でも坐禅をしようという人がいたので、体験コーナーの効果もあるものだ、と、そのことにも感心した。

(この公開録音は12月24日(月)18:30~20:00にラジオNIKKEI第一で放送されるそうです。インターネットでも配信されるようなので、なかなか楽しい内容だったので、お聴きになってみてください。公開録音はしませんでしたが、私の道元禅師の和歌の解説と、瑩山禅師の頌(漢詩)の解説も放送される予定です。)

報徳の開発僧

2007-11-18 22:53:05 | Weblog
11月18日(日)晴れ【報徳の開発僧】(耕雲)

『村の衆には借りがある』(ピッタヤー・ウォンクン著、野中耕一編訳 シャンティ国際ボランティア会販売)を読んで:この本はタイの開発僧かいほつそう プラクルー・ピピット・プラチャーナート師(ナーン和尚)を紹介した書である。

貧しいタイの農村に住むナーン和尚は、村の人々がどうしたらその貧しさから抜けられるのか、貧困問題に取り組んだ僧侶である。いくらお米をつくっても、借金の返済に持って行かれてしまい自分たちは食べるお米もない村の衆。それでも僧侶にはタンブン(徳積み)として お布施を持ってきてくれる村の衆。ナーン和尚は、この村の衆によって托鉢して食べさせて貰い、お布施をもらって生かされている事に対して、「僧侶は村の衆には借りがある」といつも言われているのだという。そして村の衆の貧困問題を解決することにナーン和尚はいくつかの改革案を出して、それを村の衆と共に実行して村を救ったのである。

先ず、ナーン和尚は40人の村人を集めて、瞑想止観を行じた。そうして煩悩を減らし、欲望を押さえることを仏教の智慧を以て教え導いたのである。「農村問題を解決するためには、いくらお金や物を与えても解決はしないこと。そして人間を開発かいほつすれば、お金はなくとも解決できる」村人に智慧がつけば、博打をしたり、悪習に耽ってお金を浪費することも自ずとなくなるであろうし、なにより自分だけがよければよいという利己的な考えを捨てて、みんなで助け合おうという心をおこすことができると和尚は考えたのである。

そして和尚は村に寺のお金を全て出して、肥料組合を作った。村人たちは高い肥料を買わされ、その支払いに多額な借金をしているから、まずそれを救おうと考えたのである。次にそれぞれの力に応じて籾を供出し、それを集めて籾を貸し出す組織を作った(これを「サハバン・カーウ」という)。経済状態のよい者には、貧しい人々へ貸してあげるようにし、最初の段階では自分はただ供出するだけという条件をつけた。これは善行であることをナーン和尚は教えたのである。持つ者は持たざる者を助ける、当然の助け合いの教えである。それを気持ちよく村人ができるように止観を行じさせて教え導いたのだ。和尚は籾を集めておく倉庫を造るのに、お寺に寄付されたお金も全て差し出した。村の衆の生活が豊かになれば、お寺の本堂もいつかは必ず建つ。

「友好の米作り」も和尚が推奨した方法である。困っている村に他の村の衆が弁当持参で米作りを手伝いに行く。労働の対価を求めないボランティア米作りである。自分たちさえよければよいというのではなく、みんなで助け合って共に生きていく生き方を教えたのである。ナーン和尚の導きで、多くの貧しかったタイの村々が、生き返っていることをこの書を読んではじめて知った。そしてこの運動はナーン和尚一人に留まらず多くの僧侶たちの賛同者を得て、推進されているという。

村の開発を進めるのには、一人一人の人間としての目覚めが大事であり、仏教の修行の根本である瞑想止観を用いたことは、なによりも学ぶべき特筆すべきことであろう。枝葉末節の方法論だけでは、どのような改革案が出されても、その場限りで人間の欲望に振り回されて、続かないだろう。しかし、何のために何故、どのようにするのか、お互いがお互いのために、自分たちで力を合わせて村作りをしていくのだ、という根本のところを和尚は教えてくれたのである。貨幣経済の弊害に流されない人間の生活がナーン和尚によって取り戻されていることに感動を覚えた。

お隣のミャンマーでは人々を救おうとする僧侶たちが迫害され、いまだ多くの僧侶が拘束され、おそらく拷問を受けていることを比べると、隔世の感ありである。

もう少し書きたいのですが、母がお灸をしてと言うので、このへんで諦めます。十分な紹介はできませんし、書き換えられませんが、このような方こそ僧侶といえる方であろうと思います。爪の垢でも飲みたいところです。

純真な励まし

2007-11-13 21:40:06 | Weblog
11月13日(火)晴れ【純真な励まし】(山越えの雲)

今日は久しぶりのお休みで、書道の稽古に行ってきました。一時間以上何枚も書いたのですが、どうも一枚として清書として出せるような気に入った作品が書けませんでした。もう一枚書けば書けるような気がしましたが、姪と待ち合わせていたので、今日は諦め。

筆の洗い場には、先に少年が一人いました。私が隣で洗おうとしたら、水がはねないように、すぐに自分の水の出を弱めてくれたので、なんと気の付く子か、とちょっと感心しました。「ボクは何年生なの」と聞いたら「小学一年」と元気な答え。

少年は墨だらけの手を一生懸命きれいにしています。「今日はね、一時間も書いたのに一枚もよいのが書けなかったのよ」と、私は筆を洗いながら、少年に残念そうに言いました。そうしました予期せぬ言葉が返ってきました。「ふーん、でも一時間も書いたんだったら、いつか必ずうまくなるんじゃない」と、少年は真剣に言ってくれたのです。

「有り難う」

なんとなく私は嬉しくなりました。励ましてくれて有り難う。彼も親や廻りからこんな励ましの言葉を言われたことがあるのでしょうか。いやきっと書道の先生から彼も言われているのかもしれません。いずれにしましても、こんな励ましの言葉を、すぐに人に言えるなんて、素敵ですね。少年の純真な励ましの言葉に感激した日でした。

(付け足しながら、姪がお仏像を祀りたいというので、田原町の仏具屋さんにお供をしました。何店か見ましたが、結局一番最初に気に入ったお仏像のお店に戻って、それに決めました。とてもよいお仏像と巡り会えたので喜んでいます。嬉しいことの多い日でした。)

山口の旅6-防府 阿弥陀寺

2007-11-11 20:34:34 | Weblog
11月11日(日)曇り午後一時雨【山口の旅6-防府 阿弥陀寺】(阿弥陀寺仁王門)

山口の旅でまだ書くことがあるということは、いかに山口という土地には、魅力的な場があるかということではなかろうか。私にだけ限ったことではないと思う。

さてバスで徳山に向かう途中、「重源の郷」という看板が目に入った。山口に来る2日前の学術大会で、重源ちょうげん(1121~1206)に関することも発表をしたばかりなのでその看板は私の目をひいた。いつものことではあるのだが、自分が関心を持ったことや、言ったことや、書いたことについて、それに関することを直後に更に詳しく知るという経験をよくする。興味や関心事に関することは、キャッチするアンテナが立つ、ということなのだろう。俊乗房重源上人にしても宗派が違うのでたまたま舎利に関する研究をしなければ、それほどに気にとめなかったかもしれない。

重源が、兵火によって焼失(1180)した東大寺の復興のために大勧進として活躍したことは知られている。その木材の調達を果たしたのが、この山口の周防であった。重源が周防に入ってすぐに建立(1180)したという東大寺別院という阿弥陀寺が防府にある。東京に帰る前にここをお参りした。大学時代の先輩が近くにお住まいで、先輩の奥さんが車で案内をしてくださった。

参道には紫陽花が植えられている。花の時期には三万人もの見物客が訪れるそうだが、私が訪れたときはひっそりとしていた。長い参道を登り切って山門を一歩入ると、山の静謐な空気に包まれて、阿弥陀寺の諸堂があった。本堂は享保16年(1731)に再興されたものだそうで、古色をおびていて、その建物を見ただけでも癒されるような佇まいである。

本堂に入るのも自由で「舎利礼文」をあげたり仏像を拝んだり、ゆっくりとお参りをすることができた。「舎利礼文」の研究をしなかったならば、おそらく阿弥陀寺は訪ねることはなかったであろう。阿弥陀寺の本尊は阿弥陀如来立像であるが、向かって右側の脇侍として弥勒菩薩坐像、左側には大日如来坐像が安置されている。随分面白い組み合わせなのではなかろうか。東大寺の別院なので華厳宗であるはずだが、仏像の前には密檀があり多宝塔やら舎利塔やら独鈷やら密教の儀式に用いられる法具が並べられている。また本堂の裏にも護摩堂がある。他宗派のことは本当に分からないことが多いが華厳宗は密教の護摩もたくのであろうか。

さて、ここには重源が祀ったという国宝の舎利があるはずで是非拝みたいと思っていた。丁度作務に出てこられたご住職にお願いして宝物館にご案内していただいた。重源上人の坐像も拝ませていただき、重源が鋳造させたという鉄宝塔(これが国宝)やら木食さんの観音菩薩像や、永仁七年(1299)の墨刊銘のある大般若経六百巻もお見せいただいた。そしていよいよ仏舎利、それは水晶三角五輪塔(これも国宝)のなかに納められていた。この中に五粒の舎利。やはり水晶でできているような舎利である。鼠色のような舎利も一粒。この舎利を祀って重源は舎利会を開催し、妙なる光明を放つ仏舍利の霊異を民衆に見せて、東大寺復興のための寄進を募っていたのであろう。今やそのお役目も終えて、舎利と舎利塔はガラスケースの中に納められている。やはりどのような宝でも見物の対象になってしまっては、その命は終わりである。舎利塔と舎利を祀って、また舎利会を催し、世界の平和を祈って貰いたいと、ガラスケースの中を見て思ったことである。

現在の奈良の東大寺は重源上人のご苦労によって立派に復興を遂げたのであるが、この阿弥陀寺も現在までに何回か火災にあったようである。また最近でも鉄砲水が出て経堂など被害にあったそうである。しかし紫陽花の花のお力もあろうが、大般若経の修復には何千万円もかかってしまったそうだが、無事に修復ができたそうだ。お寺の維持はなかなか大変ではあるが、阿弥陀寺は本堂に至るまでの参道が長く紫陽花の頃はさぞや景観であろう(この紫陽花参道をつくりあげるには昭和50年からのご苦労がある)。三万人の参拝客によって支えられているようである。いやいや実は誰も知らないけれど、実は仏舍利の功徳かもしれませんね。見えないところで霊験を発揮しているのかもしれません。

これで山口の旅シリーズは一区切りといたします。大寧寺さんの近くの仙崎に、金子みすずさんの記念館がありそこも訪れましたが、それについてはまたいつか折りあらば書きたいと思いますが、一応これにて東京に戻ることに致します。山口の旅にお付き合いいただき有り難うございました。

山口の旅5ー湯田温泉 中原中也

2007-11-10 23:30:49 | Weblog
11月10日(土)雨【山口の旅5ー湯田温泉 中原中也】(生家跡に建てられた中也記念館、中也忌前夜)


今週もアッという間に時が過ぎました。風邪もようやく本格的に治ったような感じです。さて山口の旅についてまだ書き足りないことがあります。僅か四日の旅でしたのに、山口という土地には多くの魅力的なことが詰まっているような印象があります。

山口には中原中也(1907~1937)がいました。中也は湯田温泉の生まれです。この度私は、長門のお寺と周防のお寺を訪ねるのに、その中間に宿をとりました。それが湯田温泉です。私が湯田温泉に泊まって、宿のすぐ近くの中也記念館を訪ねた日は、明日が丁度中也の命日という時でした。中也が亡くなったのは昭和12年10月22日です。可愛がっていた長男が前年に急死してから、神経衰弱になり、ついに翌年には結核性脳膜炎に罹り30歳を一期に終えました。

汚れつちまつた悲しみに……
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
 

あなたもこの詩を知っている一人ではありませんか。

中也は明治40年4月29日、父謙助も医者であり、母福が養女になった母の叔父も医者という家の長男として生まれました。しかし、文学的な萌芽は早く、はや小学生の頃より短歌に入選したりしていました。山口中学時代には短歌の同人誌を出版。しかし神童と呼ばれていた中也でしたが成績は下がる一方で、山口中学を落第し、京都の立命館中学に転校します。そこで高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』に出会い、中也が詩の世界に入っていくきっかけとなったようです。このとき中也、16歳、そして翌年には新劇女優、長谷川泰子と同棲生活に入りました。京都時代に富永太郎と知り合いランボーやヴェルレーヌに開眼させられるのです。

富永が東京に帰ると、中也も泰子と共に上京します。親たちの希望からは益々遠ざかっていく中也であり、18歳のこの年、中也は詩人として生きることを決意します。小林秀雄と交友を始めたのもこの年、そして愛人泰子が小林の元に去って行ってしまったのも大正14年のこの年のこと、そして詩人中也に影響を与えた富永は、この年に亡くなっています。

同人誌「白痴群」を河上徹太郎、大岡昇平、古谷綱武らと出版するのは22歳のとき。「サーカス」の詩を発表。あの「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というブランコの揺れる音を表した言葉がなんとなくもの悲しく感じられる詩です。

その後の中也の年譜は飛ばしますが、26歳で結婚します。結婚式を挙げたのが湯田温泉の西村屋という宿です。(宿の案内書きのその一条に引かれてこの宿屋に泊まりました。)
その後上京して昭和9年、27歳のときに詩集『山羊の歌』を刊行、『ランボウ詩集』を刊行するのは亡くなる一ヶ月前、そして詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託してまもなく中也は鎌倉の病院で永眠したのです。死出のベッドで、手を握る母、福に「おかあさん、おかあさん」と呼びかけ、「僕は本当は親孝行だったのですよ」と言って目を瞑ったのだそうです。

「文学は人間の仕事だ。学問ではない」と中也の言葉。

母の期待を裏切って詩人になってしまった中也、30歳の若さで母より先に逝く中也、しかし中也死して70年、人はいまだその人の名を忘れず、母福の名も、中原の家名も文学史に刻まれている。

高校時代の恩師佐藤喜一先生の『鉄道の文学紀行』(中公新書)にも湯田温泉に中也の碑石を訪ねる話が載っていましたので、湯田温泉には一度は来てみたいと思っていましたが、この度はそれも叶いました。大寧寺様のお陰です。

帰郷(の一節)

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置きなく泣かれよと
    年増婦としまの低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ


とりとめのない中也の紹介になってしまいましたが、書き換える時間がありませんので、このままでお許しを。

この湯田温泉では何人かの人との出逢いがありました。東京から来ていたERIKOさん、九州からの戸高さん、そして朝の散歩で出会った有富さん、お元気でありますように。

ミャンマーの人々への応援

2007-11-04 17:31:57 | Weblog
11月4日(日)晴れ【ミャンマーの人々への応援】(今朝の朝焼け)

朝焼けに励まされて、今日は起きることができた。

朝の議員討論を聞いていると、日本は新テロ対策特別措置法案についても、どうしてよいか分からない状態になっているようだ。多額の報酬を貰っている国会議員は本当に国民や国益のために税金を使ってくれているのであろうか、おおいに疑問がある。そのうちにクーデタ-が日本にも起きないとは言えない。日本を憂うる軍国主義の人々が政権を奪取しようと計らないとは誰も言えない。平和ボケの日本の状態は危険だと思う。(夕方、民主党小沢代表の辞任記者会見があったようだ。益々混乱していく日本の政治。大変ですね)

さて軍政の続くミャンマーの情勢については、少しも明るい兆しは見えないようだ。私には知識不足で全く理解できないのが、ミャンマーの軍政に貸した2000億円以上ものお金を、返さなくてよい、つまりチャラにしたという日本政府の対応についてである。どこにそれほど多額の借金をタダにしてくれる人がいるのであろうか。何故返済無用にしたのであろうか。

1988年に罪のない1万人以上の国民を殺害したという軍政に、なぜ日本はせっせと援助し続けたのであろうか。多くの国民は食べることさえ困難であるというのに、軍や軍に加担する人々、ビジネスで儲けている人々だけが豊かに暮らせればよいという軍政のミャンマーに、日本はなぜ友好関係を保っているのであろうか。

政治のことは実に分からない。しかし、今も6千人もの僧侶や民衆が拘束されているという。この度の死者は200人、負傷者は2000人といわれているが、正確なところは分からないであろう。

僧侶としては他国の政治に口を出すつもりはないが、隣国(すぐそばのお国です)で行われている、罪のない人々が殺されていること、軍に反対する者には容赦しない恐怖政治、多くの人々の自由を奪い取っている残虐行為に対して、これでよいのか、何もしないでよいのか、と、なにもできないのに思っているのである。

自分の生活を巻き込むほどの助力でなくとも、ちょっとした協力は個人個人でできないであろうか。私もたいした協力をしているわけではありませんが、もし応援してくださるお気持ちのある方は下記をご参考にして下さい。

ビルマ市民フォーラム
pfb@xsj.biglobe.ne.jp
こちらに氏名、メールアドレス、ご住所、電話等をご登録いただき
応援費として年間3千円(郵便振替 00110ー6-729698)
メールマガジンの登録を希望しますと、ミャンマーの情報をメールで教えてもらえます。

 またビルマ緊急基金として
○郵便振替:00930-0-146926 BRC-J
○りそな銀行 金剛支店(普通)6553928 日本ビルマ救援センター

*なお、銀行振り込みの際は センター(〒160-0004 東京都新宿区四谷一丁目18番地6 四谷1丁目ウエストビル4階 いずみ橋法律事務所内ビルマ市民フォーラム)
までご住所とお名前をお知らせ下さい。領収書を送付くださるそうです。(郵便振替の際はご連絡は不要だそうです。通信欄に「ビルマ緊急基金」とお書きください)「ビルマ緊急基金」(http://www.emergencyburma.org)

この基金は薬や食料、飲料水、僧衣として、ビルマの僧侶や民主化の運動をしている人々に届けられるそうです。

山口の光

2007-11-03 19:49:35 | Weblog
11月3日(土)晴れ【山口の光】

湯田温泉にある熊野神社の朝の光。光の遊びです。風邪で寝てばかりいるのも飽きましたので、遊んでいます。ということはかなり風邪は治ってきているようです。皆さんもお気をつけ下さい。