風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

不在のお知らせ

2006-09-19 16:21:17 | Weblog
9月19日(火)晴れ後曇り【不在のお知らせ】

「風月庵だより」の管理人は、このところ用事が重なりまして10日間ほど記事を書けません。せっかくご訪問の方には恐縮ですが、失礼お許しを。皆さんにご訪問頂くお蔭で、ボチボチですが当ブログの管理をしております。ご訪問下さる方は、共に憂国の士であり、時に歓談の友であり、時には厳しいご批判をお持ちの方でありましょう。感謝申し上げ、留守の間も風月庵の戸は開いておりますので、過去の扉を開けて頂ければ幸甚です。いくつかリンクしていただきやすいように、次にあげておきました。

【供養記四十九日】

【電車風景 少女の事件と胎教】

【供養記 霊の訪れ】

【アッシジと聖フランチェスコ】

【ロドス島とmediumそして人類の滅亡】

【麻薬と女子刑務所】

【孤独なる死】

【古いやつだとお思いでしょうが】

【風月庵だよりそして阿弥陀堂だより】

【輪廻転生について】

【粋に生きあう】

【供養記 納骨-人、死して残すもの】

【道元禅師の和歌について(その1)】

【鎮魂歌ー彩香ちゃんと豪憲くんに】

気候不順な折、皆様お体お大事に。

マスコミにもの申す

2006-09-18 21:56:22 | Weblog
9月18(月)晴れ【マスコミにもの申す】

台風13号の影響によって九州、中国地方では大変な被害が出てしまった。一瞬にして流されてしまった娘さんやそのお父さん、物置の下敷きになってしまった人など、この台風さえなければ、平穏な日々を送っていられた人々。今日の夕焼けの雲が黄金色に染まるのを見ながら、台風の襲来で命を落とした人々の冥福を祈った。髪を風になびかせた少女が天を駈けていくような雲が流れていた。

この頃サリン事件の首謀者の刑が確定した。その名をこのブログに書くのさえ拒みたい。何の罪も無い人々の命や生活を、自分達の勝手な妄想によって奪った首謀者。テレビを観ていて実におかしな事に気づいた。その首謀者の顔写真が大きく引き伸ばされて、スタジオに張り出されていた。一体そんなことをする必要がどこにあるのであろうか。ある番組には、飾られていたという感じさえある張り出し方であった。このようなパネルよりもむしろ被害に遭って犧牲になった方々の遺影を飾るべきであろう。

そしてその人間が「自分は無実だ」と言っているなどということや、その人間を未だ信奉している信者が聞けば、同情心を起こさせるような言葉をくどくどと報告していたが、なぜそんなことを放送で言う必要があるのだろうか。そんな放映の時間の枠があるのならば、被害に遭った方々のことや、いかに極悪非道のことをしたのかをもっと放映すべきではないのか。

もう一度言いたい。なぜそのような人間の顔写真を、スターのように大きく飾る必要があるのか。また活動を続けているリーダーをテレビに出演させることもおかしい。若者のなかには彼を有名人と思い、テレビに出演しているだけで、それをステータスのある人間とさえ勘違いしてしまう者さえいるだろう。

毎日、後から後からいろいろな事件が起きるので、皆神経が麻痺してしまっているのではなかろうか。大丈夫でしょうか、社会をリードする役目を担っているマスコミの関係者の皆さん、どうかその責任の重大なことにお気づき頂きたい。

と、ブログの片隅で吼えていてもなんの役にも立たないでしょうが。集団ボケの恐ろしさを澤木興道老師はいつもおっしゃっていたようですが、一人でも二人でも三人でも、集団ボケしないで生きるようにしたいものです。

地下鉄サリン事件による被害者の方々のやり場のない憤りに、心より同情し、被害に遭われた方々のご冥福をあらためて祈ります。

公案ー不許老胡会その2

2006-09-16 23:51:31 | Weblog
9月16日(土)晴れ後曇り【公案ー不許老胡会その2】

このところすっかり涼しくなりました。もう秋なのですから当然のことですが、今まで残暑が厳しかったので、ようやく秋を楽しめるのかという感じがします。さて慧春尼の9月11日に書きました「許老胡知、不許老胡会。」の公案について『無門関』にあると書きましたが、『無門関』よりも前に書かれた『碧巌録』の一則の評唱にあるようです。「つらつら日暮らし」のtenjin和尚さんよりご指摘を頂きました。改めてこの言葉を探してみましたが、やはり『碧巌録』の圜悟克勤えんごこくごんの言葉が一番古いようです。訂正:最初は雪竇重顯せっちょうじゅうけんの『明覚禅師語録』の拈古第八〇則でした。

少しその意味を考えてみようかと思い、『無門関』のほうは第九則にあるので、註釈書のその箇所をコピーしてきました。しかしどうもピンとこない解釈なので、納得がいかなかったのですが、tenjin和尚さんのコメントのお陰で了解しました。

「老胡は達磨をさす。「知」は心得ていること、「会」はさらにその上の了悟。達磨が仏法を知っているのは認めるが、会していたとまでは言わせまい。」

このように註釈されていたそうですので、私もそのようなことかと納得致しました。公案も分かるとそんなものかということになりますけれど、私が参考にしようと考えていた註釈はちょっと首を傾げるような解釈でした。数本を参考にできる場合はよいですが、一冊だけの本を鵜呑みにするのは実に危険なことと改めて思います。

しかし、それではどうして慧春尼の右手をかかげ、左手を搦めることになるのか、またあらたに疑問が生じます。まあ一方は可よしとし、一方は可としないことを語でなく仕草で示したということは、やはり言語表現を越えていること、という慧春尼の見解を示したということになるのでしょうか。この公案についてはこのくらいで可としておかせて下さい。判じ物のような公案にはあまり時間を使わない方がよいかもしれません。

*昨日は敬老の日、平成15年からは第三月曜になったようですが、15日のほうがピンときます。さてこのところ母の足がむくんでいたのですが、毎晩「せんねん灸」を足の裏にしましたら、すっかりむくみがとれました。腎臓と膀胱のツボにすえます。ツボの位置はせんねん灸の箱に入っています。一週間ぐらいで良くなりました。むくみのある方はお試しを。せんねん灸はレギュラーかソフトで試してください。火の元にはご用心。

*上の公案ですが、『正法眼蔵』の「面授」巻にある雲門大師についてのところが気になっています。(これもtenjin和尚さんに教えていただきました。)「会」を「見」と解釈する視点もあるかもしれません。

公案-不許老胡會

2006-09-14 23:59:59 | Weblog
9月14日(火)雨のち曇り【公案-不許老胡會】

公案というのはどうも難しい。9月11日の【華綾慧春尼その5ー接化の日々】で「只許老胡知。不許老胡會語」がどうもよく分からなかったのですが、これは『無門關』に出てくる公案でした。この解説については、また時間のあるときにまとめてみたいと思います。

一雨ごとに気温が下がっていくようです。皆さんお体お大事に。
今日はこれだけですみません。

雑感

2006-09-13 22:58:43 | Weblog
9月13日(水)雨【雑感】

慧春尼の史伝をおめでたいことから書き始めたのであるが、期せずして捨身供養と自爆テロが重なってしまった。『法華経』についても改めて学び直すこともできた。しかしなんといってもアラブ系の人々の苦しみに いきあたってしまったことは意外な成り行きであった。

イスラエルの問題が解決、それもよりよい解決をみない限り、決してこの破壊の連鎖は止まらないであろうし、それは先が全く見えない状態である。イラク戦争にしても新たなる西側諸国に対する憎悪を生み出してしまっただけではないのか。これではテロ撲滅のための戦いが、新たなるテロ誘発のための戦いとなってしまったとしか思えない様相を呈している。

自爆テロを決行する若者たちの心情を思うと、つくづく世界がもう少し平和にならないものかと、地球の片隅で願わずにはおれない。だからといって西側諸国だけを悪とすることもできないだろう。世界は均衡をなんとか保ち、破滅しないようにしていくしかない。人類の滅亡について霊界人からメッセージを受け続けた頃、私は気がおかしくなったのだろうかと、自らを危ぶんだが、世界の状況を見ていると、全くあり得ないことでもなさそうである。

そんなあやうい地球の一角で、我々は暮らしているのだ、という認識だけは持っていたい。なにもできないのに私のようなことを、いつも考えていたら暗くなってしまうと言われそうだ。私も自分のバランスを保つためには、朝焼けを見たり、お月様を眺めたり、いつもボッーと空を眺めたり、鉢植えの花を大事に育てたりしている。

さて慧春尼様についての史伝が一応まとまったので、始めてのご訪問者のためにリンクしやすいように、まとめてみました。

華綾慧春尼その1ー出家の決意
華綾慧春尼その2ー印可の機縁
華綾慧春尼その3ー円覚寺にて
華綾慧春尼その4-懸想の僧に
華綾慧春尼その5ー接化の日々
華綾慧春尼最終回-捨身供養

華綾慧春尼最終回-捨身供養

2006-09-12 23:10:28 | Weblog
9月12日(火)雨【華綾慧春尼最終回-捨身供養】

今なお大雄山において、慧春尼信仰が強く続いているのは、慧春尼の火定(仏道の信仰者が自らの身を火に投じて涅槃に入ること)によるであろう。自らの身を燈明と化して仏に供養し、火定三昧に入って示寂されたことの神力が、今に及んでいると信じられているのである。焼身自殺と間違える人がいるが、慧春尼様の場合は捨身(焼身)供養という。

焼身供養を支える信仰は『法華経』の「薬王菩薩本地品」による。日月浄明徳仏の弟子に一切衆生喜見菩薩という弟子がいらっしゃった。この菩薩は自ら進んで苦行をし、現一切色身三昧(一切衆生の形体を自由に現すことのできる三昧)を得るのだが、これは法華経を聞いた功徳であるとして、日月浄明徳仏と法華経を供養した。その供養に旃檀の香を降らしたりあらゆる供養をするが、「我雖以神力。供養於仏。不如以身供養(われ神力を以て仏を供養したてまつれりと雖も、身を以て供養せんには如かず)」として、ついに自らの身を燈明として供養するに及んだのである。釈迦在世のおりの薬王菩薩はこの一切衆生喜見菩薩のことであるという。

二十年ほど前、韓国の友人の寺を訪ねたことがある。そこには、高僧の火定供養塔が祀られていた。また友人の姉にあたる人も尼僧であるが、指を捨身供養したという。韓国ではつい最近まで、指の捨身供養は信仰の証としてなされていたようである。その後慧春尼の火定の話を聞いたので、慧春尼様は捨身供養なさったのだと、私には抵抗無く受け入れられたのである。

なぜそれほどまでのことをなさったのであろうか。『法華経』信仰だけであろうか。周りの者が満ち足りて暮らしていたならば、それは無用の供養であったろう。身を捧げて一切衆生の成仏を願うのは、衆生が哀れであるからに他ならないのではなかろうか。一人残らず成仏できることを説く『法華経』を信じることが、とりもなおさず哀れな一切衆生を救える道なのだと、師は信じたのではなかろうか。

単に自らの信仰の深さを試すだけのことでは、身を火で焼くようなことはできないだろう。翻ってイスラム教系の人たちの自爆テロに思いを馳せるとき、単に破壊だけの意味であのようなことはできなかろうと思うのである。同朋の苦を救い、よりよい社会の実現を願ってでなくては、自らを爆弾と化して死ぬようなことはできないだろう。且つ民族の屈辱を拭うという尊厳をかけての闘いでもあるだろう。

イスラムの人たちの団結の強さと同朋愛は世界に冠たるものであろう。英米等の白人社会が、自分たちが一番であるという自負の過ちを改めない限り、この闘いは終わりがないではなかろうか。しかしイラクに於ける同朋や無垢の子どもたちを多く巻き込んでの自爆は、もはや全く違った権力闘争になってしまっている。

アメリカにおいてもイギリスにおいてもどこであろうと、無垢の人々を巻き込む自爆テロは殉教とは到底言えない。しかし同朋を思う純粋な熱い思いから、自爆という行動に走っている若者たちも多いのではなかろうか。アラーの神はそれを許されていらっしゃるのか。無垢の人々も巻き込むことを許されていらっしゃるのか。

〈原文〉
師暮年積薪於最乗三門前盤石上。以作柴棚。自秉火入定於火焔裡。及、火熾烟漲。菴來問曰。尼熱乎尼熱乎。師烈焔中抗聲曰。冷熱非生道人之所知。恬然化於火焔裡。衆収骨。塔于攝取菴。最乗堂前有火定石。今猶存矣。
〈訓読〉
師、暮年に薪を最乗三門の前盤石上に積み、以て柴棚を作り、自ら火を秉(とも)して火焔裡に入定す。火熾の烟り漲るに及んで、菴來りて問うて曰く、「尼よ熱きか、尼よ熱きか」と。師、烈焔の中、聲を抗して曰く、「冷熱は生道人の知る所に非ず。」恬然として火焔裡に化す。衆、収骨し、攝取菴に塔す。最乗堂前に火定石有り。今猶お存す。

慧春尼は老年になって、最乗寺三門前の石の上に薪を積んで、柴棚を組み、その上で自ら火を放って火焔の中で坐禅を組んだ。辺り一面煙が立ちこめるに及んで、了庵禅師も駆けつけた。「尼よ熱かろう、尼よ熱かろう」と言った。慧春尼は燃えさかる炎の中から「冷熱は未熟な僧侶なんぞには分かるまい」と逆らって言った。そして何事もないかのように平然として、炎の中に消えて逝かれたのである。大衆はお骨を集めて攝取庵に塔を造った。最乗寺の堂の前には火定石があり、今なお有る。

*最乗寺の伝承によると、慧春尼の火定は応永九年(1402)五月二十五日といわれている。火定石も慧春尼谷に今なおあり、慧春尼堂も祀られている。

イスラムの人々も自爆する勇気があるのなら、他人を巻き込まないで、ひたすら神に同朋の幸せを願い、自分一人で捨身供養したほうがよいのではなかろうか。慧春尼の光明は、六百年以上経った今も、人々の信仰を集め、大雄山を照らし続けているのである。是非イスラムの人々の意見を聞かせてもらえれば有り難い。かつて飛行機の中で、イスラム教の若者と隣同士になって話したとき、「イスラム教は神の力」とどこかから聞こえた声を忘れられない。あの砂漠の国で力を合わせて助け合って生きるように、イスラム教は神の力を示されたのだと直感的に感じた。その時から私の偏見は消えたのだが、五年前、世界貿易センタ-が崩れていく映像が流れた時、思わず「テロだ」と叫んだショックを忘れられない。世界中の人々は、地球上の同朋である筈なのに。

華綾慧春尼その5ー接化の日々

2006-09-11 23:08:46 | Weblog
9月11日(月)曇り【華綾慧春尼その5ー接化の日々】

2001年「9.11」、2749人の命を一瞬にして奪った悲劇から五年が経った。それだけではなく、世界貿易センターの近くで働いていた人々や、救援活動をした人々はその後、体の不調を訴える人が続出しているという。アスベストや汚染物質を知らずに吸い込んでしまっていたことが原因であろうか。

ビル崩壊のむくむくとした煙をあらためてテレビの映像で観ていると、ヒロシマやナガサキの原爆を思い起こさせられる。全くなんの罪もない人々が一瞬にして命を奪われ、その後も後遺症に苦しみ、命を失っていった多くの被爆した人々。世界貿易センターのタワー1とタワー2で起きた悲劇はそれにダブる。

なぜ世界にこのような悲劇が起きたのであろうか。誰がこの悲劇を引き起こしたのか。なにがこのテロを起こさせたのか。その首謀者と思われる人物やグループを世界から抹殺しようとしても、それはなんの解決にもならないことを、世界は知っているはずである。武器産業に多くの利益をもたらすような手段は、悲劇をさらに大きくさせることも世界中が知っている筈である。

イラクではすでに4万人以上も犧牲になり、米兵も3千人(イラクとアフガニスタンでの戦死者数)近く亡くなっている。アフガニスタンのことはこの頃は報道されないが、どうなっているのだろう。なぜこの悲劇が起きたのか、なにがこの悲劇を引き起こしたのか、それを解決しようと努力しない限り、明日、もっと大きな悲劇が起きるだろう。「9.11」の犠牲者の死を無駄にしてはならないのではなかろうか。

〈慧春尼史伝の続き〉
〈原文〉
後卓菴於山下。接待往來。有僧請益只許老胡知不許老胡會語。師擡左手。搦右手。示之。其僧點頭而去。
〈訓読〉
後に山下に卓菴し、往來を接待す。僧有りて、「只老胡知るを許し、老胡會(え)すを許さざるの語」を請益(しんえき)す。師、左手を擡(かか)げて、右手を搦めて、之に示す。其の僧、點頭し去る。

慧春尼は大雄山の下の方に庵を造り、山に往來する人々をもてなした。ある僧が師に教えを請うた。「達磨を(理として)知ることは認めても、達磨を会すことは認めないという語はなんでしょうか」と。師は左手をかかげて右手をからめてこの僧に示した。僧は分かりましたと頷いて去っていった。

老胡には釈迦の意味もあるが、この場合は達磨であろう。しかしこの件は私にはどうも解説ができない。達磨の教えを本当に理会する語はなにかと聞かれ、それは言語表現できない、と師は示したということなのだろうか。力不足でお許し頂きたい。どなたかご意見があればお教え頂きたい。請益願います。

*今でも大雄山の麓には、摂取庵と正寿庵の二庵が残っている。慧春尼が開いた庵は三格庵といって三庵あったが、慈眼庵だけは横須賀の方に移転して慈眼寺となっている。格庵というのは旅装を解いて上山の支度を整える為の庵のことをいうのである。現在も住持として上山する場合、摂取庵で支度を整えて上山するしきたりになっているようだ。

*これら三格庵が建てられたのは最乗寺開創の1394年から1402年までの間のようである。それは室町時代四代将軍足利義持の時である。世の中は高度成長期でもあり、地方分権のすすんだ時代で、女性の慧春尼もおそらく実家の援助もあったであろうが、三庵も建てることができた情勢であったのではなかろうか。

*男僧を指導する話は、最乗寺の三世、大綱明宗禅師伝の中に見つけることができる。酒匂という所で、明宗禅師が法を説いていた時のこと、明宗禅師はすでにひとかどの道を説く師だったようだが、その座に、慧春尼も話を聴きに来ていらした。説法が了っても尼師は去らないで、明宗禅師に密かに云った。「貴僧は、なかなか知恵もすぐれ、教えにあかるい。しかし、残念なことに、自らの安心ができていない」と。さらに師は続けて「方向違いの仏道修行をしています。貴僧のために、私は深くこれを惜みます」と言った。そこまで尼師に云われて、明宗禅師は、胆をぬかれるような驚きであったろう。明宗禅師は、尼師の言に従い、了菴禅師のもとに参じ大悟したのであった。

(これは慧春尼の行状として、慧春尼史伝の中にいれてほしかったと思う一段である。この件は私が十年ほど前あるところに寄稿した一文をもとにまとめたが、この記事の出典を失念してしまったので後日書き足しておきたい。)

この続きはいよいよ慧春尼の火定の話になるのであるが、世界貿易センターで自爆テロを遂げた人々のことも考えながら、その部分を解説してみたいと思う。〈続き〉


華綾慧春尼その4-懸想の僧に

2006-09-10 23:05:30 | Weblog
9月10日(日)晴れ残暑厳し【華綾慧春尼その4-懸想の僧に】

今日は昨日に引き続いて残暑が厳しく、運転をしながら熱中症になりそうだった。法事が勤まるのも運転ができる間だけだと思う。暑いときはいつもそんな弱気になる。私のカーナビはだいぶ古いので、高速の下を走るときは全く動かなくなる。二股に別れるところで焦ったが、たしか護国寺方向であったとあらかじめ道順を頭に入れておいたので法事先に無事に到着。帰りは甲州街道のコースをカーナビが示すので、新宿の繁華街を走るのは渋滞に巻き込まれるかと思ったが、意外と空いていたのと、高速の下を走るので、太陽が遮られるで助かった。

時にカーナビに文句を言いながら、カーナビの示すとおりには道をとらないことも多いのだが、道に迷ったときなど度々助けられている。人生にもカーナビのような指針があるのもよいのではなかろうか。

思い返せば、若いときは夢中であった。生きることが全く分からなかった。自分で生きているのだと思っていた。散々道に迷って、ようやく少しずつ「生きる」ということが見えてきたところである。仏教に導かれてつくづくよかったと思っている。

さて昨日に引き続き慧春尼の史伝を紹介したいが、昨日の続きは更に失敬な内容である。慧春尼が尼僧であるが故にいかに苦労もし、後の世にまでこのようなことを伝承されねばならないのか、憤慨する話である。
〈原文〉
師雖土木形骸。猶有容貌動人心。有一僧密啓其情於師。懇求遂其欲者。師告之曰。
易事而已。顧我與汝皆僧也。交會宜非尋常處。濁所慮臨期阻難嶮。倍約不能來就我耳。僧曰。師若許我願。則雖湯火不辭。況其餘乎。一日了菴上堂。大衆雲集。師不挂寸絲。赤赤裸裸。傲然出乎衆中。高聲召其僧曰。與汝有約。速來就我可肆汝欲。其僧驚走潜竄出山矣。師透脱情境。多是類也。

〈訓読〉
師、土木の形骸なりと雖も、猶お容貌の人心を動かすこと有り。一僧密かに其の情を師に啓し、懇ろに其の欲を遂げんことを求む者有り。師、之に告げて曰く、「易き事のみ。顧みるに我と汝は皆(とも)に僧なり。交會するに宜く尋常の處に非ざるべし。濁り慮(おもんばか)るところあり。期に臨んで嶮なるを阻み難し。倍約すれば我に就いて來ること能わざるのみ」と。僧曰く、「師、若し我が願いを許せば、則ち湯火と雖も辭せず。況や其の餘をや。」一日了菴上堂す。大衆雲集す。師、寸絲を挂けず、赤赤裸裸なり。傲然として衆中に出でて、高聲に其の僧を召して曰く、「汝と約有り。速やかに我に就いて来たり、汝が欲を肆(ほしいまま)にすべし。」其の僧、驚走す。潜竄(せんざん)し山を出づ。師、透脱の情境、多く是の類なり。

慧春尼は容貌や服装などに少しも気にかけていないのだが、その美しさはやはり男心を動かしたのであろう。ある僧がその思いを手紙に書いてよこし、男女の情を通わせたいと求めてきたのである。慧春尼はこの僧に告げて言った。「おやすいこと。思えば、あなたと私は僧であるから、交わるのに普通の場所ではやめましょう。私に思うところがあります。その後に及んで難しいからと言って拒むようなことはできませんよ。約束を破れば、私のところに来ることはできないだけのことです」と。僧は言った。「あなたが私の願いをお聞き下さるなら、たとえ(煮える)湯や火といえども拒みません。ましてそれほどでなければ当然でしょう。」

ある日了菴禅師が上堂なさった。本堂に一山の雲水たちが集まってきた。そこに慧春尼が一糸まとわぬ赤裸な姿で現れたのである。大衆の中に入って、その僧を声高に呼んで言った。「あなたと約束がありましたね。すぐに私に付いてきてあなたの欲の思うがままにしなさい」と。その僧は驚いて走り去った。そして密かに山を抜け出して消息をくらましたのだった。慧春尼の世俗の情を断ち切っている境界は、他のことにもこのようなものであった。

*まあ訳せばこのようなことになるのであるが、随分と思いきった手段に出たものだと思う。果たして本当に赤裸な姿であったかは分からない。大衆の面前で僧にこのように言ったということはあり得そうな感じがする。それを伝承される間に面白ろおかしく脚色されていったのではなかろうか、と私は思っている。

慧春尼について近しく知ったのは、得度して10年くらい後のことであるが、実は得度間もない頃、得度の師匠にこの話を聞かされた。その時は随分意地の悪い人だ、という印象を持った。もっと言葉で諭してもよかったのではないかと思ったのである。しかし、そうすることによって、他の僧たちにも二度とこのようなことを思わせない為の思案の末であったかもしれないと今は思う。

*ただ、女性であるがゆえに、どうしてもこのような伝承が語りつがれることは、心外に思うのである。[続く]

*【名残の四十九日】のところに、輪廻転生などに関する以前の記事がすぐに分かるように、新たに書き添えておきました。

華綾慧春尼その3ー円覚寺にて

2006-09-09 21:46:43 | Weblog
9月9日(土)曇り【華綾慧春尼その3ー円覚寺にて】

今日は重陽の節句である。本来なら陰暦なのでもう少し後になるが、現在は太陽暦に合わせているので季節的には少し早取りの感がある。菊の節句とも言うようで、お酒の中に菊の花を浮かべて飲み健康長寿を祝うと、暦に書いてある。中国では「登高」といって丘に登る行楽の行事があったようである。(現在は如何か?)日本では宮中では奈良時代から観菊の宴が催されたそうである。

そして今日は先師の誕生日である。お亡くなりの後も、娘さん達と誕生日にお祝いをしているのだが、今年はいろいろとあって後々になりそうである。遷化後もお誕生日のお祝いというのもおかしいようだが、天で生き続けていらっしゃるようなそんな気もするのである。

そこで今日はお酒に菊を浮かべてお供えした。菊水の一番しぼりに黄色の菊を浮かべた。私もちょっとお相伴したら、思わず「うまい」と一言。さて昨日に引き続き慧春尼様についての史伝の続き。今日のところはなんだかきわどい話で、史実であろうか疑問であるが、尼僧であるが故に男僧の中でご苦労されたのであろうと思われる。そのご苦労の一端とみておこう。(実は私は、慧春尼様が女性であるが故にきわどく誇張され、脚色されているのではないかと、疑っているのであるし、心外にも思っているのである。)

〈原文〉
當時鎌倉瑞鹿山。常安千指。龍象雑還。諸方憚登其門。菴將使使於瑞鹿。衆皆難之。師告菴曰。尼應奉命使乎。菴曰。可也。師登鹿山。彼衆既知師之機鋒難當。將出於非意。挫折其鋒。及師拾階進。有一僧突出。以手高摳裳。怒陰逆立曰。老僧物三尺。師亦摳裳擘開牝戸曰。尼物無底。一衆懡羅罷。
〈訓読〉
當時(そのかみ)鎌倉の瑞鹿山には、常に千指を安し、龍象雑還(ざっかん)せり(雑踏する混み合う)。諸方、其の門に。登ることを憚れり。菴、將(まさ)に使を瑞鹿に使わんとす。衆、皆之を難し。師、菴に告げて曰く、「尼は命を奉り使いに應ぜん。」菴、曰く、「可なり。」師、鹿山に登る。彼の衆、既に師の機鋒、當り難しことを知る。將に非意を出で、其の鋒を挫折せんとす。師、階を拾いて進むに及び、、一僧有りて突出す。手を以て高く裳を摳(かか)げ、陰を怒して逆立して曰く、「老僧の物、三尺。」師また裳を摳げ牝戸を擘開(びゃくかい)して曰く、「尼の物は無底なり。」一衆の懡羅(まら)罷(おわ)れり。

訓読をお読みいただければ大体の所はご理解頂けると思うが、蛇足ながら解説を。鎌倉の円覚寺に了菴禅師が使いを出したいのだが円覚寺には強者の修行者が多く、だれも使いに行きたがらない。そこで慧春尼が私が参りましょう、ということになった。円覚寺の雲水たちは、慧春尼の禅の矛先が一筋縄ではいかないことを耳にしていたので、ひとつギャフンとさせてやろうということになった。

慧春尼が円覚寺の階段を上がってくると、一人の僧が突然にその前にはだかった。そして衣の前を高くかかげて、自分の一物を見せ、「老僧の一物は三尺なり」と言った。すると慧春尼もすかさず衣の裾をまくって見せ、「尼が物は底無しなり」と応答したのである。この僧は途端にシュンとなってしまった。

〈原文〉
遂上函丈坐定。堂頭顧視侍者曰。點茶將來。侍者點茶於澡盤來與師。師轉奉堂頭曰。此是和尚常用底茶盞。請和尚喫。堂頭不能答。師名自是大振矣。
〈訓読〉
遂に函丈に上って坐定す。堂頭(どうちょう)、侍者を顧視して曰く、「茶を點じて將來せよ。」侍者、澡盤に茶を點じ來りて師に與う。師、轉た堂頭を奉って曰く、「此は是れ和尚常用底の茶盞なれば、請う和尚喫せんことを。」堂頭、答うること能わず。師の名是れより大いに振う。

もう一つの円覚寺でのエピソード。門前でのやりとりを無事に通過した慧春尼が方丈の間に通された。円覚寺の住持は侍者を振り返って、「お茶をお持ちしなさい」と言われた。すると侍者は洗い桶にお茶を淹れて慧春尼に差し出した。慧春尼は住持に申し上げた。「これは和尚様日頃お使いのお茶碗のようでございます。和尚様どうぞお飲み下さり、飲み方をお教え下さいませ。」住持は、やられたと思って言葉に詰まってしまった。慧春尼の名声はいよいよふるったのである。

*このようなお話だが面白いと思う方もいらっしゃるだろうし、慧春尼に対して失敬な、と思われる人もいらっしゃるだろう。私は思い入れが強いので、失敬なと思っている。
しかし史実であるかもしれない。慧春尼は少しのことでは動じない、強い神経をお持ちであったことは事実であろう。事実はどうであったか分からないが、このように気丈に生き抜いた方であったということだろう。その気迫は学びたいと思う。[続く]

華綾慧春尼その2ー印可の機縁

2006-09-08 23:37:51 | Weblog
9月8日(金)曇り【華綾慧春尼その2ー印可の機縁】

美しい顔を火箸で焼いてまで出家の本懐を遂げた慧春尼は、坐禅弁道に励まれたことであろう。そのことについては短い既述しか残らないが、次のようである。
〈原文〉
師勇猛参禪。果徹法源。親蒙許可。一日菴擧僧問巴陵祖意教意。是同是別。陵云。鶏寒上樹。鴨寒下水。請一轉語。師曰。賢臣不事二君。貞女不見兩夫。菴肯之。自時厥後機辯無礙。無當其鋒者。
〈訓読〉
師、勇猛に参禪す。果法源に徹して、親しく許可を蒙る。一日、菴、僧、巴陵に祖意教意を問うを擧す。是れ同是れ別。陵云く、鶏は上樹に寒く、鴨は下水に寒し、と。請う一轉語。師、曰く、賢臣は二君に事えず、貞女は兩夫に見えず、と。菴之を肯う。時自(よ)り厥(そ)の後、機辯無礙なり。其の鋒に當れる者無し。
    
慧春尼は勇猛に参禅し、法源(真如に同じ)に徹し(悟りを得)、了菴禅師に嗣法も許されたのである。了菴禅師は慧春尼に、巴陵鑑禅師(はりょうこうかん五代、宗初の人。雲門文偃の法嗣。弁舌に勝れていたと言われる)にある僧が質問したことについて尋ねた。「祖意と教意は同じか別か」という問いに対して巴陵は「鶏は上樹に寒く、鴨は下水に寒し」と答えているのだが、さらに一転語を言ってみなさい、と言われたのである。(一転語というのは一語でもって相手になるほどと悟らせるような語のことである。)それに対して慧春尼は「賢臣は二君に事えず、貞女は兩夫に見えず」と答えて、了菴禅師はこれをよしとしたという。これより慧春尼のすぐれた弁舌は一切の礙げが無く、その弁舌の先に当たることのできる者はなかった。

とこのような訳になるであろうが、慧春尼の答えはいかにも陳腐のように思う。巴陵禅師の「鶏は上樹に寒く、鴨は下水に寒し」は、大自然のそれぞれの姿に人間の計らいの入りようの無い絶対の世界の消息を言っている。それに比して慧春尼の「賢臣は二君に事(つか)えず、貞女は兩夫に見(まみ)えず」とは、あまりに封建的世俗に処した一転語であり、慧春尼にしては拙すぎるように見受けられる。賢臣についても貞女について、たしかにそれぞれの有り様を言ってはいるが、人間のはからいでどうにでもなる現象を言っているに過ぎない。

この史伝が編まれたのは慧春尼遷化後三百年以上も経ってからなので、真偽の程は知れない。とにかくも、このような伝承だけでも史伝に記されている事自体は貴重なことなのである。例えば私の例では僭越であるが、卑近な例として、三百年後一切の伝承は遺されないであろう。陳腐と思われる一転語であるが、慧春尼様の一転語として、これを受け取っておくしかない。

語録の研究などを少しでも手がけてみると、現在ほどの活字社会ではなかった時代に、後の世にまで残っている語録の価値を改めて思う。その文字に込められた禅者の奥底のメッセージをどれほどに正確に受けとめられるか、試されている日々である。慧春尼様の一転語が陳腐であると感じるのはやむを得ないだろう。残念ながら史伝に書かれていることを鵜呑みにはできないのである。