風月庵だより

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教育に関する私論その1-可愛い子にはボンヤリさせよ

2006-04-28 17:48:22 | Weblog
4月28日(金)晴れ【教育に関する私論その1-可愛い子にはボンヤリさせよ】

最近、少年が母親を包丁で刺すという悲しい事件が起きた。母親が「勉強しろ」と口うるさいからというのが理由だという。それだけではなく、他にもいろいろと問題があるのだろうが、どのような理由があるにせよ親を刺すなどということは、想像だにできないほどのことである。

昨今、あまりに少年少女による残忍な事件が多すぎる。このことについて心を痛めない人は少ないだろう。親に対してのみならず、加害者となる子どもたちに対しても、本当に気の毒に思えてならない。どうして親殺しをしようなどという子どもに育ってしまうのか、考えてみたい。

このような事件が起きるたびにテレビでコメントされるN・O氏とは、同じキャンパスで学んだ者でもあるし、大学時代机を並べた友人たちの多くが教師、大学入学当初、私も教師志望であったので、教育について全くの門外漢でもないと思うので、教育、特に初等教育についての私論を、何回かに分けて述べさせて貰ってみたい。そのような資格的なことよりも、私は心底子どもたちが心配なのだ。

今の子供は忙しすぎる〈可愛い子にはボンヤリさせよ〉
小学生ぐらいまでは、あまり勉強ばかりさせないほうがよいと、つくづく思う。勉強塾やらなにやら、またテレビゲームやら、子供たちは常に忙しく何かをしすぎている。

百ます計算の陰山英雄先生も、子供の学力を上げるために大事なこととして、ぼーっとする時間、をあげていた。このことは『月刊プレジデント』で読んだのであるが、今手元にないので正確さに欠けるが、確かにこの項目があり、驚くと同時に我が意を得たりとも思った。ボーッとしている時間はとても大事だと思う。

藤原智美氏の『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』(祥伝社)という本の中に、やはりボーっとしている時間の大事なことが書かれている。この本は今、幼児の描く絵に、腕のないお母さんの絵が多いことに奇異な感じを受けた著者が、その原因を探ろうと試みた書である。現代の幼児に起こっている異変に目を向け、その問題点に気づかないと、「あと数年でこの事態が、とりかえしのつかない亀裂を、この社会と人間関係におよぼすと残念ながら確信せざるをえない。」と危惧している。

今回はこの書のなかから、ボーっとしている時間に関して書かれていることを、まず取り上げてみたい。「なぜ子どもに「未来」を強要してはいけないか」の章に〈退屈をすごす技術こそ生きる力になる〉という項目がある。そこにカナダのヘヤー・インディアンのことが紹介されている。「彼らは仕事をするときも、遊んでいるときも、かならず手を休めて一息入れるという。それは意識的にする行為で、そのとき彼らは横になったり、瞑想にふけったりする」それは「人格の統合を行うことが存在のために必要」だと彼らが考えているからであり、休むことはそのために必要であるということになるのだという。

「彼らにとって、ボーっとしている時間は、働いているときより、遊んでいるときより、ずっと重要で人間的な時間なのだ。だからこそ、だれかがただ漫然と景色をながめているようなときでも、けっしてそれを邪魔してはいけないというのだ。それは彼らのなかでは、神との対話、とも理解されている。いま子どもたちからこうした貴重な時間が奪われている。」(『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』215頁)

と、このように記されている。私もこの頃の子どもたちに、ボーッとしている時間が足りないのではないかと、想像していた。藤原氏の本を手にしたのは、この書のタイトルから、おそらく今の子どもたちの問題点について言及されている書であろうと推察したからであるが、藤原氏もボーッとしていることの大事なことをとりあげているので、やはりそうであろうと、あらためて確信したのである。

振り返ってみれば、ほんの五十年前であるが、私の子どもの頃はテレビもなければ、テレビゲームもない幸運な時代であった。裏山に登ってボンヤリと町を見下ろす時間は十分にあった。川のほとりで川面を見ている時間も十分にあった。漫画を読むのに疲れたら、頬杖をついて、ボーっとして外を見ている時間も十分にあった。

残念ながら、私には科学的根拠についての論究はできない。しかし頭を休めてボーッとしたとき、天地のエネルギーが脳に吹き込んでくるような感じさえする。ヘヤー・インディアンの人々も「神との対話」とさえ理解しているではないか。

いつもなにかに追われている子どもたちに必要なことは、ボンヤリする時間ではなかろうか。「勉強しなさい」と小うるさく言うのはやめて、「ボンヤリしなさい」と言ってあげてはどうだろう。百ます計算の陰山英雄先生がおっしゃっているということは、説得力になろうか。藤原智美氏も言っている。ボンヤリすることの大事さを。

一人子どもにボンヤリさせるだけでなく、親も一緒にボンヤリしてはどうだろう。子どもが幼児の時から、親が一緒に大海原をともに眺め、山に行っては雲海や、眼下に広がる町を眺めたり、お家の窓から空を眺めたり、ボンヤリ時間を共に過ごしたら、そんな時間の積み重ねが、親と子の絆を深め、親を刺し殺そうとするような気の毒な子どもを生み出さない、確実な一つの方法であると思うのである。


大人もボンヤリ時間を持とう。天地からのエネルギーですよ。大人にも余裕が必要でしょう。

福知山線脱線事故から一年、ご遺族の方に

2006-04-25 00:00:00 | Weblog
4月25日(火)日中雷雨、後晴れ 【福知山線脱線事故から一年、ご遺族の方に】

107名が犧牲になってしまった事故から一年がたちました。亡くなられた方々のご冥福を祈ります。そしてご遺族の方々に、哀悼の意を表したいと思います。多くのご遺族が、娘さんや息子さん、家族の死を受け入れられずに、苦しんでいらっしゃる姿を報道を通して見受けます。まことに辛いことです。

「早く帰ってきておくれ」という言葉さえかけているご遺族の記事も目にしました。本当に生き返って欲しいと思わずにはいられないことであろうと、思います。あの事故が起きる前に時間を戻したいと、何度となく思われたことでしょう。どうしてこんなことにと遺影の前で、何度つぶやいたかわからないことでしょう。

ご遺族の苦しみを本当に悼む気持ちで一杯ですが、私は今から二十年ほど前の話を思い出さずにはおれません。それは、私が住んでいた寺の信者さんの娘さんのことです。彼女はバイクを運転して仕事に行く途中、大型トラックにはねられて、亡くなってしまったのだそうです。大学を卒業して就職したばかりの時だったそうです。

私がその寺に入る十年ほど前に既に亡くなられていました。私はその寺に入ってから、毎月その娘さんの月命日にお伺いして、ご供養を続けていました。十年たってもお母さんの悲しみは消えることはありません。諦めているとはいえ諦めきれないものがあります。口数の少ないお父さんもご供養の時には、いつも傍に坐られて娘さんを偲んでいました。仏間に飾られた娘さんの写真はどこか寂しそうでした。

私は長い間テレビも新聞も見ないし、時々は一週間以上の断食をしたり、山に籠もったりしていますので、決して霊能者ではありませんが、不思議な体験もあります。いつの頃からか、夜になって辺りがすっかり静かになり、墓所の塔婆が風に揺れる音だけがかすかに聞こえるなかで、あの世の人たちが訪ねてくることがありました。そのように私が感じただけかもしれませんが、私にはそう表現するしかできない経験でした。

その娘さんは苦しいことを私に訴えます。いつも大型トラックにバイクごと巻き込まれる、事故のその場面の繰り返しから逃れられないのだというのです。どうしたらこの苦しみから抜け出せるのでしょうか、と訴えます。毎晩、私の話せるできる限りの話をしました。死を受け入れることを説得しました。おそらく死を受け入れられないのであろうと思いました。トラックに巻き込まれる前に戻りたいのではなかろうか、と思いました。

しかし死んでしまった今となっては、それはなんとしても無理なことなのです。時は決して戻ることはできません。本当に残念なことですけれど、生き返ることは不可能であることを毎晩話しました。死を受け入れられたら、きっと楽になると思う、仏様の光に導かれて、安心してね。安心しておまかせしましょう。必ず楽になるから。そしてお父さんやお母さんをお守りできるほどのエネルギーになれるかもしれない、と私は言ったような気がします。他にもいろいろと話したように思いますが、その頃のことを夢のように思い出します。

あれは夢だったのかもしれません。でもその娘さんのお墓をお参りしていたとき、私の右腕が空に向かっていくつもの円を描き、軽くなって空に空にあがっていく感じがしたあの感覚は忘れられません。「庵主さん有り難う、楽になりました」そう聞こえました。

福知山線の事故で、突然に命を絶たれてしまった方々は、本当に辛かった事と思います。その死を受け入れることは、なかなかに受け入れがたいことでしょう。この世の家族に「帰ってきてくれ」と切ない思いで叫ばれると、なおさらにその死を受け入れがたいことであろうと、察せられます。しかし、この世の人も辛いでしょうが、その死を受け入れてあげたほうが、亡くなった人が楽になるのではなかろうか、と思うのです。きっと光に包まれて楽に楽になるのではないかと思うのです。

「お父さんも頑張るから、安心してくれ」「お母さんもなんとか頑張っているから、」と声をかけてくださったなら、きっと亡くなられた娘さんが、息子さんが、家族が、楽になるのではないかと思うのです。決して涙は渇れないでしょうけれども、でも頑張って生きるよ、君と一緒のつもりで生きるよ、と声をかけてくださったなら、どんなにか娘さんが、息子さんが、家族が、安心して軽くなるのではないかと思うのです。

息子さんが、娘さんが、電車のどの位置で、どのように亡くなられたかということを、知っても、それをはっきりとさせても、かえってそこに縛り付けるような気がしてしまいます。無念さが増すばかりです。いくら調べてもわからないとしたら、どうぞそのことの追求は諦めてはくださいませんか。

いつか私たちもみんなその時が来ます。そのうち皆亡くなる時がくるのです。その日まで諦めてつつなんとか頑張って生きて参りましょう。
福知山線の事故でお亡くなりの皆様に、心からご冥福を祈らせていただきます。

脳の活性化

2006-04-23 23:15:16 | Weblog
4月23日(日)曇り夕方より雨【脳の活性化】

今日は埼玉の都幾丘陵の方まで、納骨を頼まれたので、関越を走って行って来た。日曜日のお陰で、一度も渋滞に遭わなかったので、予定より一時間も早く墓所に着くことができた。お陰で東京では味わえない山の空気をゆっくり楽しむことができた。辺りの木々は新緑に彩られて、いかにも新鮮な空気が山中に満ちているようだった。

息を吐くことに集中すると、セロトニン神経を活性化することができる、というので自然のエネルギーが満ちた中で実行することにした。日頃の疲れた脳が蘇えってさらに元気になれることを期待した。セロトニン神経が活性化すると、心のバランスを保つのに役立つそうである。いつも心が保たれていれば、落ち着いて何事にも対処できるであろう。坐禅の効用もそのようなことがあると、言いたいところであるが、道元禅師のお説きになる坐禅は、そのような効用を求めるものではないので、セロトニン神経を活性化するには、深く息を吐くことに集中する呼吸法を二,三十分続けることがよいであろう。

さて新緑の爽やかな木々に囲まれて、私の脳はフレッシュになったかというと、知らない間に深い眠りに入っていた。でも運転の疲れもとれてスッキリとしたようである。

今日の納骨の方は、ご病気であったのでやつれた姿を見せたくないとの配慮から、ご葬儀は身内で済ませたので、四十九日の今日が、参列の方にとっては故人とのお別れの儀式であった。それは母親孝行のお見送りの方法だと、私も思う。この頃私自身のこととして考えるのであるが、自分のデスマスクを誰にでも見られるのは、どうも嫌だ、ということである。

私自身どのような最期を迎えるかわからないが、できれば動かなくなった姿はあまり人様に見られたくないものだと思う。まして病気になってやせ細ったとしたら、なおさらそのような姿を見られたくはない。しかし動かなくなった私はそれを主張することはできないのだから、生きているうちに頼んでおかなくてはならない。今日の家の子供さんのように、親思いの子供を持った人は幸せというものだろう。

新緑に囲まれた墓所の納骨を済ませて風月庵に帰ってきた。体は疲れているようだが、脳は活性化しているような感じがしている。そこで机に積んである一冊の本を手に取った。ちょっと数頁読むつもりが、五百頁以上の作品なのに最後まで読んでしまった。まさか全部一度で読み終えられるとは思ってもいなかったのであるが、作品の魅力に引きずられて読まずにはおれなかったのである。

作家にとっては、長い時を費やして書き上げた労作であるのに、一日で読んでしまっては申し訳がないようだが、魅力ある作品のなせる罪であろう。新井満氏『エッフェル塔の黒猫』という作品である。作曲家エリック・サティ(1866~1925)を主人公にした小説である。私はあまり文学については深くは論じられないが、「ほんもの」というのはこういう作品のことをいうのであろう。

小説を読んだり、たまには映画をみたりするような私は、本当の出家者とは言えないだろう。いつも仏教書だけを参究しているだけでは、私は自分をコントロールできかねるのである。私にとっては、呼吸法だけではなく、文学や映画によって活性化されることが、必要である。そうはいってもこの二年間で見た映画は二作だけであるが、忙しくて見る暇がなかっただけのことである。

私は不良の尼僧なので、このブログをお読み下さる方は、私は、そのような者ですが宜しく。
話は変わりますが、深く息を吐くことに集中する、という呼吸法は心身の健康にも確かに良いと思います。これから新緑の美しい季節です。どうぞセロトニン神経を活性化してフレッシュな気持ちで日々をお送り下さい。お子さんのいらっしゃる方は是非ご一緒にお試し下さい。子供がキレルのを防ぐ効果があるそうです。

*セロトニン神経活性化呼吸法:息を吐くことに集中する。できる限り長く、お腹から吐く。呼気は口から、吸気は鼻から。長く吐けば自ずと息を吸い込むことになる。下腹部、丹田に吸い込む。時間は30分ぐらいが望ましいが、もっと短時間でもよいだろう。
この呼吸法については『曹洞禅グラフ』96号2006年春号13頁に、有田秀穂氏(東邦大学医学部教授)の詳しい話が掲載されている。

*次の文は、有田氏の著作「セロトニン欠乏脳」(有田秀穂著、NHK出版)をもとにした、インターネットの情報を要約しました。身心の健康について参考になりますのでご参考にして下さい。

★セロトニン神経のはたらき

セロトニン神経は、目覚めと共に活発化する交感神経に影響し、覚醒後の行動を活発にするために、体を適度なスタンバイ状態にするはたらきをします。

心の面では、平常心を保つはたらきをします。快感や陶酔感を増幅する「ドーパミン神経」と、様々なストレスによって覚醒反応を引き起こす「ノルアドレナリン神経」に対して抑制作用を及ぼし、興奮と不安のバランスを図り、心の状態を中庸に保つはたらきをします。


★セロトニン神経が弱まるとどうなるか

中枢神経系のバランスが崩れ、様々な症状を引き起こします。覚醒状態をうまくコントロールできなくなるため目覚めが優れず、その後もなかなか調子がでません。また、うつ状態やパニック発作、摂食障害(過食や拒食を繰り返す)など、俗に「現代病」と呼ばれている症状の多くが起きる可能性があります。また、ストレスが加わった時に過激な行動が抑えられなくなる「キレる」という状態も、セロトニン神経が弱まった時に起こる症状と重なります。

★セロトニン神経は、どうして衰えるか
セロトニン神経には、歩行、呼吸、咀嚼などの基本的なリズム運動によって活性化するという特性があります。毎日の生活の中で、こうしたリズム運動を自然に繰り返していれば、セロトニン神経は正常レベルに保たれます。したがって、こうした運動を極端に抑えた生活を継続することは、セロトニン神経の減弱を招きますので、注意が必要です。
● あまり外出をしない こと。
● 移動にクルマを頻用し、歩くことが少ないこと。
● コンピュータ操作などで1日数時間にわたって同じ姿勢をとり続けること。
● 夜ふかし、朝寝坊の昼夜逆転生活をすること。


セロトニン神経の活性には太陽の光も影響しますから、インドア指向の最近の子供たちの生活、とくに連日、息をつめてゲームをやり続けるという習慣などは、セロトニン神経が減弱しやすくなるのです。

★セロトニンを鍛えるには

まずは、①セロトニン神経の活性化を妨げる生活習慣を改善すること。②朝起きて太陽の光を浴びる。③適度な運動とバランスのよい食事を摂る④規則正しい生活。その上で、意識的な呼吸法やリズム運動を実践すると効果的です。


随流去ずいりゅうこ

2006-04-21 23:39:32 | Weblog
4月21日(金)晴れ【随流去ずいりゅうこ】

今週も、はや金曜日、時がたつのが箭よりも迅い感じである。歳をとるほど時のたつのを早く感じるそうだが、毎日勤めている場合、特に早く感じるかも知れない。団塊の世代の方々も来年は定年になる人が多いようだが、通勤しなくなる日々の時の流れは果たしていかがであろう。私も、はやその年齢だが、もう少し通勤の流れがあるようだ。思えば動き続けてきた今までの時の流れである。

誰しもが人生を振り返ったとき、絶え間ない動きの中に過ごした日々であったと思うことだろう。今夜はふと「随流去」という大梅法常禅師(752~839)の言葉を学んでみたいと思ったので、已によくご存じの方もいらっしゃるであろうが、私の参究におつきあい願いたい。

大梅禅師は馬祖道一禅師(709~788)の嗣法の弟子である。仏教で大事なことは必ず師がいる、ということである。勝手に悟ったというのではなく、師によって認められなくては、法を嗣ぐことを許されないのである。当然のことながら弟子をとって人を導く、寺の住職とはなれないのである。独りよがりでは駄目なのである。

日本においても嗣法は行われているが、弟子が師に認められるほどの境涯に到達していなくても嗣法が許されている。そうでなくては私のような未熟者は嗣法を、お許し頂けなかったであろう。将来の修行に先んじて頂いたお許しと肝に銘じている。それでも嗣法を許されるまでに得度してから十年かかっている。

大梅禅師が馬祖さん(馬祖おじさんと呼びたいほど親しみが私にはあるので、気楽な「さん」付け、お許しを。)に認められたのは『景徳伝燈録』によれば次のような機縁の語である。

原文:初参大寂問。如何是仏。大寂云う、即心是仏。師即大悟。(『景徳伝燈録』巻七大梅法常章)
訓読:初めて大寂に参じて問う。「如何なる是れ仏。」大寂云く、「即心是仏。」師即ち大悟す。
訳:(大梅法常禅師は)初めて大寂禅師(馬祖さんの諡号)のもとに教えを受けにやって来て尋ねた。「仏とはなんでしょうか」と。大寂禅師は答えた。「即心是仏」と。大梅禅師は直ちに悟った。

『祖堂集』によると、大梅禅師の悟りの機縁については、もう少し詳しく書かれている。

原文:聞江西馬大師誨学、師乃造法筵。因一日問、如何是仏。馬師云、即汝心是。師進云、如何保任。師云、汝善護持。又問、如何是法。師云、亦汝心是。又問、如何是祖意。馬師云、即汝心是。師進云、祖無意耶。馬師云、汝但識取汝心無法不備。 師於言下頓領玄旨。
(『祖堂集』巻十五大梅法常章)

訓読:江西馬大師、学に誨(おし)うるを聞き、師、乃ち法筵に造(いた)る。因みに一日問う、「如何なるか是れ仏。」馬師云く、「即ち汝が心是れなり。」師、進んで云く、「如何んが保任せん。」師云く、「汝善く護持せよ。」又た問う、「如何なるか是れ法。」師云く、「亦た汝が心是れなり。」又た問う、「如何なるか是れ祖意。」馬師云く、「即ち汝が心是れなり。」師進んで云く、「祖は意無きや。」馬師云く、「汝但だ汝が心、法に備わざること無きことを識取せん。」 師、言下に玄旨を頓領す。

訳:江西の馬祖大師が学人に法を説いているのを聞いて、大梅禅師は馬大師のもとに参じた。ある日尋ねた。「なにが仏でしょうか。」馬大師は答えた。「お前の心こそが仏だ」と。大梅禅師はさらに尋ねた。「どのように守ったらよいでしょうか。」馬大師は答えた。「おまえが大事に守ることだ」と。
又た尋ねた。「なにが法でしょうか。」馬大師は答えた。「同じようにお前の心こそ法だ」と。
又た尋ねた。「なにが祖師西来の意でしょうか。」馬大師は答えた。「ほかならぬお前の心こそが祖師意だ。」と。大梅禅師はさらに尋ねた。「祖師には意が無いのですか。」馬大師は答えた。「お前の心には備わらない法は無いのだということをみてとりなさい」と。大梅禅師はその言葉を聞くとすぐに、深い根本の儀を即座に悟った。

『祖堂集』は『景徳伝燈録』に比べて、丁寧に悟った状況を述べている。この後、大梅禅師は、大梅山に四十年間 こもって里に下りなかったという。「随流去」の話は山にこもってからの話しである。

原文:時鹽官會下一僧入山采抂杖迷路。至庵所問曰。和尚在此山來多少時也。師曰。只見四山青又黄。又問。出山路向什麼處去。師曰。隨流去。『景徳伝燈録』巻七

訓読:時に鹽官の會下の一僧、抂(木偏+主)杖を采りに山に入りて路に迷う。庵所に至って問うて曰く、「和尚此山に來って、多少の時なるや。」師曰く、「只だ四山の青又た黄なるを見るのみ」と。又た問う。「出山の路、什麼處に去くや。」師曰く、「隨流去。」(*在は読まない「に」の意。)

訳:ある時、塩官斎安禅師(?~842)の弟子の一人が 抂杖になる木を探しに山に入ったところ、路に迷ってしまった。そして大梅禅師の庵に至って、僧は尋ねた。「和尚さんはこの山に入ってからどのくらいになるのですか。」大梅禅師は答えた。「只だ周りの山が青くなったり、紅葉したりするのを見ていただけだ」と。僧は又た尋ねた。「山を抜け出るにはどちらに行ったらよいでしょうか。」大梅禅師は答えた。「随流去」と。

『祖堂集』にはやはりもう少し詳しくここについて記載されている。どのくらい山にいるのか、という僧の問いに対して、「只見、四山青了又黄、青了又黄如是可計三十余度。」山にこもってから三十年余と答えている。「随流去」の箇所は「師指随流而去(師指して流れに随い去らしむ)」となっている。

「流れに随って去(ゆ)きなさい」と道に迷った僧に、大梅禅師は川に沿って行けば山を抜け出られることを教えてくれたのである。流れに逆らって歩んで行ったのでは、どんなに歩いていっても里に出ることはできない。流れに沿って歩いていけば、自然に里に導かれる。誰にでも分かる当たり前のことであるが、なかなかこれが会得できないのが、我々凡人というものだろう。水は上から下に流れるのが真理であるから、真理に従って歩いて行くともいえよう。

ただ注意しなくてはならないことは、流れに随っていくことは、流れに流されて生きていくこととは異なる。道を求める、という目標がはっきりしている上での話しである。ただふらふらと、あちらに流され、こちらに流されることではない。

私の本師は「儂は、自分で計らって何かしたいと思った事は少ない。流れに随って生きてきただけだ。」とよく云われた。僧侶として高い地位にも着かれたが、人と争ってその地位に着かれたのではない。自然とそこに着いたということだろう。しかし幼い頃、他家に預けられることになったとき、「できるだけ勉強のできるところにお願いします」と頼んだそうで、その結果お寺に預けられることになった。経師屋さんの家に預けられる話しが已にあったそうだが、その時はその話しの流れには乗らず、自ら別の流れを探したことになる。そう、流れを探すのは自らが探す必要があるだろう。

それぞれ、それぞれに合った人生を歩まれているお互いと推察しますが、如何な流れであり、如何な随いかたでありましょうか。日日是好日と受け取れましたら、有り難い限りです。一端自ら選んで流れに入った上は、多少の波風ありましょうとも随流去でしょう。流れに随って行った先は里どころでなく、広々とした大海でありましょうか。

*即心是仏:心は凡夫ともなれば仏ともなるが、心の体は仏と異なるものではなくこの心がそのまま仏である、という意。(今回は『禪學大辞典』(大修館)P764の解説に頼ります。)

*大梅法常:襄陽(湖北省)の人。幼年より荊州(湖北省)玉泉寺で修学。二十歳の時、龍興寺で具足戒を受ける。経論を深く学んだが、後禅に志し、馬祖道一のもとで悟る。浙江省慶元府にある大梅山の山奥に四十年の間、隠棲修行の日々を送る。開成元年(836)護聖寺の住持となり、多くの修行僧を導く。

*大梅法常禅師については『正法眼蔵』「諸法實相」「行持」「嗣書」巻等随処に出てくる。道元禅師がいかに大梅禅師を讃仰していられたか、うかがい知ることができる。「嗣書」巻に書かれているように、現在曹洞宗に於ける嗣法について深い因縁がある。また大梅禅師は蓮の葉の衣を着、松の実を食べて坐禅修行の日々を送ったと云われる。修行僧にとって胸に迫るものがある。


天井桟敷の人々

2006-04-18 00:00:00 | Weblog
4月18日(火)晴れ 黄砂飛ぶ鼻炎ひどし【天井桟敷の人々】

なんとなくテレビをつけたら丸山明宏さんが寺山修司(1935~1983)について語っていた。学生時代、劇団天井桟敷の人たちと遊んでいたことを突然思い出した。このブログをお読み下さる人たちは何歳ぐらいの方々なのであろうか。ほとんど一方通行なので分からないのであるが、1967年頃青春時代を送った人のなかには、劇団天井桟敷をご存じの方もいらっしゃるのではなかろうか。寺山修司が一世を風靡していた頃である。

劇団員のなかに、いつも左目に眼帯をしている女の子がいた。眼帯はトレードマークのようであり、レースの眼帯やら、花模様の美しい眼帯やら取り替えて楽しんでいたようで、本当に目が悪いのかは分からなかった。その眼帯を寝るときも決して取りはしなかった。。青目海という芸名の劇団員であった。他の人もいたが今思い出せる名は彼女の名だけである。時々新宿で出会って一緒に遊んだ。若い時にはいろいろな出会いがあった。

寺山修司のような天才的な劇作家のもとに、なんだかわいわいと人が集まっていて、かつての新宿アートシアターで芝居がかかるときには、そのあたり一帯が熱気に包まれていた。すっかり遠い日のできごとである。昔を振り返ると老化が始まるというが、今の自分の境遇と寺での修行の日々などを振り返ると、学生時代の日々はあまりに隔世の感がある。

その時はその時で面白いと思うが、やはり僧侶としての今の生き方を揺るぎなく面白いと思っている。どちらがよいと比較できるものではないが、今このようにあることに疑問はない。

今日は一日室町時代の禅僧の語録を繙いて研究した。地道な研究が次の世代に繋がる小さな灯火になるだろう。人類が出現してから五百万年、釈尊の教えもわずか二千五百年前にともされ始めた火にすぎない。それなのに已に真のことが見えなくなっている。いや、見えないのはこの私である。人のことではない。この私自身ができる限り学んで理解して、生命の不思議に触れて、灯火をつないでいきたい。私は私であって、私ではない。

*寺山修司著『書を捨てよ街に出よう』

*『毛皮のマリー』の丸山明宏(三輪明宏)さんは妖艶な美しさであった。

*備考『天井桟敷の人々』は1945年フランス映画。主演ジャン=ルイ・バロー、監督マルセル・カルネ、脚本ジャック・プレヴェル

一周忌

2006-04-17 23:33:51 | Weblog

4月17日(月)晴れ【奥山貴宏氏一周忌】

今日は奥山貴宏氏の祥月命日。彼が亡くなられてから一年がたったのである。私の本棚には彼の『31歳ガン漂流』『32歳ガン漂流Evolusion』『33歳ガン漂流LAST EXIT』の三冊と小説『ヴァニシング・ポイント』がある。三冊には、氏がガンに倒れてから、亡くなる前日の4月16日まで書きつづられている。ガンの闘病記として書かれたブログを本にまとめられたものである。240万ものアクセスがあったというので、ブログでお読みになった方もいるであろう。

病状が良くないときも、氏は執念のように書き続けていられるので、ガンの症状と現在の医療の状況を読者も学習できるほどである。余命10ヶ月と宣告され、それでも最後の血の一滴まで書き続けようと氏は闘志を燃やした。それは最後の最後まで自分の生を見続けていたいからに他ならないだろう。そしてフリーの物書きとして生活してきた氏にとっては、文章を書き残すことは、唯一自分が生きた証として、本が残ることを意図していたでろう。

「オレを覚えていてほしい」という願い通り、この私も氏の冥福を祈り、今日は一周忌の供養を陰ながらつとめた。まさか全く見も知らない庵主が、氏のためにお線香をあげているとは、予想外のことかもしれない。文章を残すというのは文章が勝手に一人歩きすることを最初から許していることになる。この思いがけなさが妙味といえよう。

氏はブログで闘病記を綴る傍ら、一冊の小説を遺した。『ヴァニシング・ポイント』である。自らの死を題材とした自伝小説のジャンルに入るものだ。消滅していく最後の最後までを小説化して、自らの生の讃歌として書き留めたかったのであろう。死がちらついている重いテーマではあるが、現代の都会に生きる若者たちの生活を垣間見られて、私には興味深い感じもした。

この小説を読みながら、アメリカ映画の『イージーライダー』を時々思い出した。麻薬とバイク、それは現代青年にとって一度は味わってみたい憧れにも似たものだろう。麻薬の興奮状態のまま、バイクで混雑した街中を走り抜けるスリリングな感覚や、人のバイクを無断で乗り回すようなことが書かれている。まるで煙草を吸うように、麻薬を気楽に飲む樣子が描出される場面が多く、驚かされた。

編集者としてそこそこに活躍していた主人公は、著者と同じくガンで「余命二年」の宣告を受ける。自らの「消滅点」に向かうことを意識した主人公は、友人イデイにそれを告げたかった。その前になんとかイデイに会いたいと主人公は思うのだが、イデイの姿はどこにも見つからない。そして遂に、イデイは交通事故で死んでいたことを、その兄から知らされるのである。消滅点に向かっていたのは自分だけではなかった。著者自身も消滅点に向かっているのは自分だけではないことを確認したかったのではなかろうか。

この小説が出版された三日後に氏は逝かれた。もはや漂流は終わったのだ。氏が意識した消滅点、燃え尽きた三十三歳の生涯である。『ヴァニシング・ポイント』の最後のページに「……has vanished.」と小さな小さな文字が入っている。ご自身が入れたのであろうか。この一冊の小説と三冊の闘病記は奥山貴宏氏が自ら建てた生の金字塔である。
心からご冥福を祈ります。

*なにげなく書店で買い求めた奥山氏の本で、ブログという伝達手段を教えてもらったのである。

*麻薬については1月12日の当ブログで【麻薬と女子刑務所】の記事を書いたが、身体のみならず神経細胞の受けるダメージが大きいので、絶対に反対である。もっと他に脳内エンドロフィンを出せるものが世の中には一杯ある。



ギックリ腰と光線治療器

2006-04-16 21:49:09 | Weblog
4月16日(日)曇り【ギックリ腰と光線治療器】

今日は腰を痛めてしまった。踏み台を動かすのに、うっかり右手だけで持ち上げようとしたところ、左の腰がギクッとなってしまった。軽い踏み台だと思って不注意であった。

このまま動けなくなっては、大変だと思って早速光線治療をした。三十分ほど治療をしたところ大分楽になったので、一仕事をしてから、また大事をとって光線治療をした。多少痛みは残っているが、起きていられないほどではない。こういう場合、光線治療器は強い味方である。

五年ほど前、母がトラックにはねられて、八メートルもとばされ肋骨を四本折ったことがある。その時も毎日病院にも連れて行ったが、病院では何の治療もしないので、毎日家で光線治療をした。そのお陰もあるとおもうが、当時八十五歳の母であるが、五ヶ月ほどで肋骨はきれいについて、病院のせんせいが驚いていらっしゃった。

最近も引っ越ししたばかりの時、母は引き出しを無理な姿勢で開けようとして、背中の筋を痛めてしまった。半年ほど寝たり起きたりぐずぐずとしていた。このまま寝たきりになってしまうだろうかと心配していたのであるが、毎日光線をかけて治療をしたお陰も大きいと思うが、再び元気に起きられるようになってくれた。今も隣室で編み物に精をだしている。

私が今日は光線治療の恩恵を蒙った機会に、この光線治療器についてご紹介したいと思う。この治療器を教えてくれた人は、母の十代からの友人である。この方は結核であったが、この治療器のお陰で九十を越える今もお元気で一人暮らしをしている。この治療器については何の宣伝もしていないようだが、口コミで広がっていて、愛用者が意外といるようだ。行司の二十二代木村庄之助さんも愛用者であることが一代記に書かれていた。

正確には可視総合光線療法といい、黒田式光線治療器と呼ぶ人もいる。黒田保次郎という方が創始者である。現在は黒田一明医学博士が所長をつとめているが、財団法人光線研究所で治療および治療器等の販売をしている。治療を受けに行くと若い先生の傍にいつも老先生が何も言わずに座っていらっしゃるが、この方がおそらく創始者の先生かと思う。

治療の方法は、二本の治療用カーボン電極をアーク放電させて、その光線を体に照射するというだけのことである。ただその症状によって使用する炭素棒の種類が違うので、一度は先生の治療を受けて指導をあおがなくてはいけない。その後は治療器を購入すれば家で治療することができる。治療器は一台あれば一生物であるから、決して高価な買い物ではないと思う。興味のある方は、この記事の最後に黒田光線研究所の住所などを記載しておきますのでご参照下さい。他のところの光線治療器については私は全く知りません。

木村庄之助さんは場所中に骨折をしたとき使われたそうだが、「光線をやったおかげか、その後一度も痛んだことがない。」とわざわざ書いていた。「鼻づまりもこの光線を使ってから完全に通るようになった。」とも書いてあった。これは決して光線治療器の宣伝ではなく、一代記の記載である。庄之助さんの使われたのはこの黒田式光線治療器である。

私も母のことだけでなく、ある時床ずれのひどい人に使ったところ、一度の照射できれいに治ったので驚いた経験もある。母の友人も腸捻転の痛みの時照射して、命拾いをした話を時々している。アトピー性皮膚炎の人にも効果があるようだ。慢性的な病の人や、突発的な場合にも一家に一台あると本当に心強い味方である。この治療器について、日頃の恩に報いるためにも紹介したいと思い書きました。これからもう一度光線治療をします。やはり体は少しづつ弱まっているのでしょう。大事に致します。皆様もお体お大切になさってください。一度きりのこの命です。

*光線研究所:東京都新宿区大久保1-8-18 〒番号169-0072
 電話03-3200-3276



道元禅師の和歌その3-峯の色

2006-04-13 23:50:25 | Weblog
4月13日(木)曇り【道元禅師の和歌その3-峯の色】

峯の色渓の響きもみなながら 我が釈迦牟尼の声と姿と
 
訳:周りの山々も、谷川を流れる水の音も、私がお慕いする釈迦牟尼仏の教えを語りづめに語っていることであるよ。
 
この和歌については、宋代の詩人蘇軾の詩が思い出される。
  谿声便是広長舌 (渓声便ち是れ広長舌
  山色無非清浄身 (山色清浄身に非ざること無し
  夜来八万四千偈 (夜来八万四千の偈
  他日如何挙似人  (他日如何人に挙似せん
  
訳:渓の音は釈尊の説法であり、山の姿は清浄心そのものである。昨夜来、渓の音も、山の姿も、八万四千のお経と言われる釈尊の教えを説き続けている。この悟りを後日人にどのように語ったらよいのだろうか。

蘇軾は詩文に秀でていたのみならず、東坡居士と云われるように、東林寺の照覚常総禅師(1025~1091)に参じ、禅を深く学んだ人である。この詩偈は常総禅師に「之れを然りとす(よろしい)」として認められた悟道の偈である。
  
蘇東坡は、この悟道の偈を詠む前日に、常総禅師に無情説法の話を尋ねたのだが、得心がいかなかった。しかし、渓の音、そして(おそらく月に照らされた)山の姿に無情説法の教えが腹に沁みてわかったのである。

無情説法は無情である天地自然が仏法を説くことであり、六祖慧能(638~713)の弟子の南陽慧忠(?~775)が無情説法の真義を説き明かした話である。天地自然は絶え間なく仏の教えを説き続けているのだが、世俗的な耳では聞き取ることができないのである。

その真意を体得した蘇東坡は、喜びに震えてこの偈を詠んだことだろう。道元禅師は『正法眼蔵』「渓声山色」巻にもこの偈を引用されているが、この和歌は当然蘇東坡のこの偈をもとにして詠まれているといえよう。

蘇東坡の偈と道元禅師の和歌の違いは、禅師の和歌には蘇東坡の結句が無いことである。自分が得た無情説法の悟りはどのように人に話したらよいのだろう、とても人には説明しきれないことだ、と蘇東坡の偈は結んでいる。結句で蘇東坡は、自分に引き寄せて結んでいるが、道元禅師の和歌にはそれがない。三十一文字で詠みきれなかったか、と言えば、そればかりではない。道元禅師は「渓声山色」巻でも充分に無情説法について、香厳の撃竹霊雲の桃李などを引用しながら、蘇東坡はどのように人に挙似したらよいのであろうか、と悩んだことを、道元禅師は挙似してくださっている。悟りを説き示して下さっているのである。至極の親切である。

そして「渓声山色」巻の最後に「正修行のとき」の一句があることを見逃してはならないだろう。そのあとに「渓声渓色、山色山声、ともに八万四千偈ををしまざるなり」と続いているのである。この和歌も『正法眼蔵』に照らしてようやく道元禅師の真意に到達できるのであって、和歌を見ているだけでは不十分な解釈となってしまう。注意を要することだ。

蛇足であるが、蘇東坡は中国廬山の山、道元禅師にとって、この和歌のお山はというと、京都の山々かもしれない。「渓声山色」巻が説かれたのは延応二年(1240)宇治の興聖寺に於いてなので、この頃にこの和歌が詠まれたとすると、永平寺のお山ではないだろう。
 
しかし山と限らず、渓と限らず、目の前の小さな花一つでも、説法し続けていると受け取ることができよう。この和歌の美しい言葉の響きに託して、いずこにも仏の教えが満ち溢れている、真理の只中の私たちだということに気づきなさい、気づきなさい、と、道元禅師は私たちの心に、ノックしていらっしゃる、そんなように私はこの歌を自らに受け取るのである。祇園精舍の鐘の音のみならず、移りゆく山々の景色、絶え間なく流れる谷川の水音に、諸行無常の響きあり。

*香厳撃竹:香厳智閑(?~898)が大悟の機縁。師の(さんずい+爲)い山霊祐から「未生已前の一句」を問われたが、解決できず、全ての書物を焼き捨て、武當山にこもって一人修行していた。ある時、小石が竹に当たる音を聞いてその響きに大悟した、という話。
*霊雲桃李:霊雲志勤(生没年不詳)が(さんずい+爲)い山霊祐のもとで大悟した機縁。30年来修行してきて、ついに桃李と自己と別物ではないこと、盡十方界自己の全身であることを悟った話。

お小遣い頂戴できますでしょうか

2006-04-10 23:47:23 | Weblog
4月10日(月)【お小遣い頂戴できますでしょうか】

昨日の法事に二人の少年がいた。三年前には彼等のお祖父ちゃんの七回忌、昨日は曾お祖父ちゃんの三十三回忌であった。三年経って幼児から少年に成長していた。神妙な顔でお線香をあげ、合掌し頭をちょこんと下げる樣子がいかにも微笑ましい。幼い頃から仏事に加わり、合掌の習慣が身に付いているだけでも、理屈抜きにして彼等の財産だと、私は信じる。

学校給食の時、宗教色があるので合掌はさせないそうだが、愚かしいことでなかろうか。掌を合わせることを学校教育が禁じた頃から、学校が荒れていってはいないだろうか。

閑話休題、私は少年たちに板谷波山(1872~1963)の娘さんの話をした。波山は陶芸家として一家をなした人ではあるが、そうなるまでには家族は貧乏で苦労をした。娘さんが小学生の時のこと。娘が、仕事に夢中の父親の傍らにやって来た。「何か用か」と父が尋ねると、娘は小さな声で、「明日、天長節でみんな胸に菊の花を付けるのです」と言った。それで、というふうに波山が次の言葉を待っていると、しばらく娘は沈黙していたが、意を決したように父に言った。「二銭頂戴できますでしょうか」と。菊の花を買うために、娘は二銭必要であったのだ。

波山の物語はさておき、私はこの少女の言葉に痛く感動したのである。お小遣いを貰うのに、今の子供たちはなんと言って貰っているのであろうか。「二人はなんと言ってお父さんにお小遣いを頂くの」と尋ねると、傍らから彼等の母親が「お小遣い、と言って手を出すんですよ」と、答えた。「お父さんは大変な思いをして、働いてきてくださる中からお小遣いをくださるのよ。どう、お小遣い頂戴できますでしょうか、って言ってみたら」

私がそう言うと、お兄ちゃんのほうが、「お小遣いチョウダイできますでしょうか」と半分ふざけたような感じで言った。そう言ってから、彼は何となく照れた。この言葉の持つ波動を彼は何となく感じたように、私は思った。美しい言葉には、その言葉のもつ言霊のようなものがある。自分の口から出た言葉であるが、言葉の波動に彼はハッと響いたのだと思う。

これからそう言うかどうかは分からない。もしかしたら親子して時々ふざけあって言うかもしれない。それでもよい、と思う。少年の心に響くものが残ってくれれば有り難いことだと思う。

「二人とも、お父さんとお母さんに叱られながら育ってよ。何でも自分の思うとおりになると思って育っては駄目だよ。叱られることは有り難いことなんだからね」と、私は当然のような事を言う。これこそお説教というものだろう。しかしこんな型通りのことを聞く機会が、少年たちには少なくなっているように思う。

私はいつもこんな事ばかり少年たちに、言っているのでうるさい庵主さんとして、記憶に残るかもしれない。それは本望。どうかこの無垢な少年たちが、これからいろいろな困難を乗り越えて、人生を勇気を持って歩んでいってくれるよう。人生は自分の思うとおりになることは少ないものだと、幼いうちから身に沁みて体験してくれるよう。大人たちの責任は大きい。与えるばかりが愛ではない。分かり切っているようだが、この頃は与えすぎているように思えてならない。

今でも思い出すことだが、私が小学生であった頃、赤い画板が欲しかった。画板は鞄がついていて、クレヨンや鉛筆や画用紙を入れることができた。その背中部分は画板になっていて、画用紙を挟んで絵を描くことができた。外で写生をするときなど、それがあるととても便利なように見えた。友だちは皆持っていた。私も画板が欲しかった。その中でも赤い色の画板がとても素敵に見えた。毎日坂の途中の文房具やさんの前で、それを見ていた。

でも母には言えなかった。兄が東京の大学に出ていて、家計がとても大変だったのだ。兄が大学に行く頃は、田舎から東京の大学に出すことは、お金持ちの家でもなかなかできる時代ではなかった。母がとても苦労しているのを子供心に分かっていたので、言えなかったのである。赤い画板が、私に、人生は自分の思うとおりにはいかないものだということを、教えてくれた最初の教師だった。今でもその画板の形を思い出すことさえできる。十分に与えられないということは、なんと素晴らしいことではなかろうか。五十年たっても、じっと我慢した思いと共に、小さな画板が生き続けている。

可愛い少年たちよ、お小遣いをもらえることを、当たり前のことと思わずに、頂戴できませんでしょうか、とお願いしながら成長してくださいね。うるさい庵主より。

釈迦降誕会に因んでー宏智頌古第四則世尊指地

2006-04-08 12:21:00 | Weblog
4月8日(土)【釈迦降誕会】

釈尊の降誕会に因んで、『宏智頌古』から釈尊に関する則をあげてみたい。『宏智頌古』には釈尊に関して「第一則世尊陞座」と「第四則世尊指地」がある。今日は第四則をご紹介してみよう。
〈本則、原文〉
舉世尊與衆行次。以手指地云。此處宜建梵刹。帝釋將一莖草。插於地上云。建梵刹已竟。世尊微笑。
〈訓読〉
舉(こ)す。世尊、衆(しゅ)と行く次(つい)で、手を以って地を指して云く、「此處(ここ)に宜しく梵刹(ぼんせつ)を建つべし。」帝釋(たいしゃく)、一莖草(いっきょうそう)を將(も)って、地上に插(さ)して云く、「梵刹を建つること已に竟(おわ)りぬ」と。世尊、微笑す。
〈拙訳〉
挙す。挙すというのは「話をとりあげます」というようなこと。あるとき、釈尊が弟子たちと路を歩いていたとき、手で地面を指しておしゃった。「ここにお寺を建ててみなさい」と。そうすると帝釈天が一本の草を持ってきて、地面に指して云われた。「お寺を建て終わりました」と。釈尊は微笑まれた。
〈解説〉
帝釈天は仏教守護の神様なので、この話は実話というわけではないのだが、象徴的な話である。中国でも師匠は常に弟子に質問をしたりして、弟子の境界がどの程度であるか試したり、悟りを開かせたい親心から、きっかけを与えてくれるわけだが、釈尊も弟子たちがどう答えるか試されたのである。そうしたら、帝釈天が一本の草を地面に挿して「はい、お寺はもう建ておわりました」と答えたというのである。

釈尊が微笑まれたと云うことは、それでよろしい、というわけである。一本の草がお寺とはちょっとおかしいじゃないかと、普通は思うところだが、一本の草でも枝でも花でもよいのである。自分自身が地面に立って「お寺は建て終わりました」といってもよいわけである。お寺とは何かといえば、修行の場であるのだから、それは建物ではなく、それぞれの身心そのものといえよう。『維摩経』「菩薩品」の中にも「直心是れ道場」という箇所があるが、心こそが修行の道場。(心というより身心)伽藍ばかり立派であっても、仏道修行と無関係のお寺を見ても、釈尊は微笑まれないのである。禅門では坐禅の姿を梵刹、寺そのものといっても過言ではないだろう。坐禅は修証(修行と証悟)の姿である。

〈本文〉
頌曰。百草頭上無邊春。信手拈來用得親。丈六金身功徳聚。等閑攜手入紅塵。塵中能作主。化外自來賓。觸處生涯隨分足。未嫌伎倆不如人。(『大正蔵経』48巻18頁)
〈訓読〉
頌(じゅ)に曰く。百草頭上無邊の春。手に信(まか)せ拈じ來たって用い得て親し。丈六の金身、功徳聚。等閑(なおざり)に手に攜(たずさ)えて紅塵に入る。塵中能く主と作(な)る。化外自ら來賓す。觸處生涯分に隨って足る。未だ嫌わず伎倆人に如かざるを。(『大正蔵経』48巻18頁)
〈拙訳〉
頌は仏教の教理を表した詩のこと。(宏智正覚わんししょうがく禅師は)頌で云われた。どの花もどの花もあたり一面春を現じている。そのどの一本を持ってきても、自由自在に春を表している。(帝釈天が一本の草で梵刹を建てたことを讃えている)。一丈六尺の釈尊は光明に輝く功徳の集まったお姿である。その釈尊が無造作に、弟子たちとともに俗世間にお越しになった。そして俗塵の中にあっても、どこでも主としてお働きになっている。それを化導(教化)の外から帝釈天が助けにやって来たことだよ。しかし、(誰でも)どこでも、いつでも、それぞれ自己ぎりの自己を生きているのだから、伎倆が他より劣っているなどと卑屈になることはないよ。

〈解説〉
それぞれの本則(お話)に対して宏智禅師が頌をつけている。百草の頭上に無辺の春が表れているのは、今まさにその季節なので理解が容易い。春が来て花が咲いているのではない。花が咲いているから春なのである。この一句はこの句だけ単独で味わってもいろいろに受け取ることができる。宏智禅師は詩にすぐれた方なので、美しい言葉の中にさりげなく真理を詠み込まれている。 

一句目、二句目は帝釈天を讃え、三,四,五,六句では釈尊を讃え、最後の七句、八句の結句で自分の弟子たちを、しっかりと鼓舞している。頌を作るのは、趣味でするのではない。どこまでも師家として弟子たちを接化(教え導く)するための手段とみなくてはならない。そうであるなら、これを人ごとでなく、我が事として受けとめていきたいものである。

この結句はそのままでよいという本覚思想(本来悟りの性をそなえているとするとらえかた)に受けとられてしまう嫌いがあるが、黙々と坐する修行を自らも勤め、弟子もそれに随ったのであり、けっしてそのまま何もしないというのではない。大慧宗杲(1089~1163)が黙照邪禅といって攻撃したのは宏智の禅ではなく、その師丹霞子淳(1064~1117)のことである。

他と比較して競争をすることはない。この自分という素材を通して、この世を見、この世を歩き、仏弟子として梵刹を建てていく。この梵刹は刻一刻変化し続ける。不断無く修行し続ける。自己ぎりの自己を行じていくだけのことだ。(自己ぎりの自己という表現は内山興正老師のお言葉であったと思う。)

*宏智正覚(1091~1157)は北宋末期から南宋初頭に活躍した禅僧。山西省の出身。十一歳で得度。丹霞子淳の法嗣。天童寺の住職を勤める。宏智禅師が入る前は貧しい寺であったが、復興する。同時期に大慧宗杲が出て、禅門の二大甘露門と称される。宏智の宗風は黙照禅、大慧の宗風は看話禅(かんなぜん)と称される。『宏智録』がある。詩文に秀でていたので、雪竇重顕(980~1052)共に並び称される。
*『宏智頌古』百則:『宏智録』二巻に収められる。『雪竇頌古』百則にならって作られた。『景徳伝燈録』などの公案から本則を採り、それに頌をつけた。

*『禅林僧宝伝』巻12にこの則は出ているが、これが出典とは限定しがたい。『宗門統要集』巻1ー17頁表にもこれに酷似の話がある。

*「直心是道場 」についての意味についてフクロウ博士のコメントを頂きましたので、掲載させて頂きます。
『維摩経』にある「直心是道場」の一句ですが、禅では思想的にも実践的にも重要なものですね。

【支謙訳】言道場者無生之心是。檢一惡意故。(T14.524a)
【鳩摩羅什訳】答曰。直心是道場無虚假故。(T14.542c)
【玄奘訳】即答我言。淳直意樂是妙菩提。由此意樂不虚假故。(T14.565b)
【長尾雅人訳(チベット訳デルゲ版を底本とする)】そこで彼はつぎのように申しました。『良家の子よ、菩提の座とは、(人の)作為による(偽りの)ものではないから、すなおな意欲を座とするものです』(中公文庫『維摩経』p.58)
【梵文原典からの拙訳】彼は私に次のことを述べました。『良家の子よ、菩提座とは、これは意志( アーシャヤ )を座とします。人為的でないことの故にです。』(大正大版pp.146-148)

禅に強い影響を与えた鳩摩羅什訳で「直心」と訳されている語の部位は、支謙訳で「無生之心」、玄奘訳で「淳直意楽」と訳されています。チベットからの邦訳では「すなおな意欲」と訳されています。サンスクリットの原語は アーシャヤ です。

漢訳から文意を導くのは難解ですが、梵文原典に依れば、その意志( アーシャヤ )とは非人為的な意志のことを指すことが分かります。それは、「自然的発露の意志」とか「はからいを超えた意志」とでも呼べるかもしれません。「直心是道場」とは、仏が無上菩提を成ずる場であるところの菩提座(菩提道場)とは「はからいを超えた意志」であるという意味になります(「心こそが修行の道場」とは、少しニュアンスが異なりますね)。