2月28日(金)晴れ【遺偈】(数年前に訪れた杭州西湖ー撮影:友人Tさん)
しばらくログを書く時間がありませんでしたので、「遺偈ゆいげ」という題に、ついに風月庵も遺偈を書く事態になったかと、思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、まだその時ではないようです。
禅僧は一月の二日には遺偈を作っておくものだ、と師匠から言われていましたが、今まで全くその気にはなりませんでした。しかし、先日自然に七言絶句の遺偈ができました。今のところはこの偈頌を遺偈としたいと思っています。これが披露されるのは、消えた後です。何時であるかはわかりません。このところはめまいもなくなり、耳鳴りも治まりました。パソコンに向かう時間を少なくするようにしましたので、VDT症候群からは抜け出せたようです。
さて遺偈について『禅学大辞典』を引いてみますと、「遺誡偈頌の略。高僧碩徳が入滅に際して、後人のために残す偈。そこには大悟の境界、または心境感想などが、辞世の語として書かれている」とありました。
としますと、私は高僧碩徳ではないので、遺偈は要らなかったのですが、師匠はその区別なくおっしゃったようです。弟子はやはりその区別なく、師匠の教え通り、遺偈をつくっておきたいと思います。
先月一月五日、永平寺の宮崎禅師様が、世寿せじゅ108歳で御遷化ごせんげなさいました。禅師様の遺偈は次のようです。
慕古真心 不離叢林 慕古もこの真心しんじん 叢林そうりんを離れず
末後端的 坐断而今 末後まつごの端的たんてき 而今にこんを坐断ざだんす
慕古は一般的には「ぼこ」と読みますが、禅的には「もこ」と読みます。禅師様のお好きな言葉であったと思います。ここを「古の真心を慕って」という読み方もあるようですが、私は上のように読んだ方が良いのではと勝手読みをしました。
古の先人を慕う真心は、修行の場(叢林)を離れることなく、命終のまさに今、このまさに而今(いま)を坐し尽くしていく。坐しきっていく。坐し抜いていくのである。
遺偈には、『傘松』2月号にも解説がつけられていないようですので、上の解釈は私の勝手な解説です。中外日報には解説が掲載されたようですが、「僧侶的 いま・ここ」にもその解説には疑問があることを書かれています。
坐断という語を『禅学大辞典』で引いてみますと「坐し尽くす。坐しきる。徹底して坐ること。転じて、ひっしいてしまう、やっつけるの意。また差別の相を打破して、平等一如の境地に徹しきる意にも用いた」とあります。深い意味のある語です。これを読み間違いますと、とんでもない訳になってしまいますので気をつけなくてはならないでしょう。
永平寺の暁天坐禅きょうてんざぜんには、雲水よりも早く坐禅堂に坐っていらっしゃったという禅師様ですから、そのお姿が彷彿としてくるような遺偈です。そして、後に続く者にも遺された指針でしょう。
因みに、私の師匠の遺偈はつぎのようです。
任運日月 隨縁誑人 任運日月にんうんじつげつ 縁に隨い人を誑たぶらかす
真如不昧 行脚永新 真如不昧しんにょふまい 行脚あんぎゃ永とこしなえに新なり
時の自然の流れに任せきり、縁に随って人を誑かしてきた。真如は昧くらますことなく、永えに新たに行脚しつづけていくのである。
どうもこの解説は難しいです。解説を付けずに、このまま読んだほうが、それぞれの心に、それぞれが頂ける解釈があるように思います。「人を誑かす」という言葉は、言葉通りに誑かすという意味ではなく、禅的な一種独特な解釈が必要でしょう。例えば弟子を褒めるとき、かえってけなし言葉を使う事が、禅の世界ではありますが、その類の表現であって、決して師匠は人を誑かしたわけではありません。しかし、高僧で素晴らしいと讃えられる事への、いやいやそんなもんではありませんよ、というニュアンスが込められている、といえばよいでしょうか。しかし単なる謙遜とも違うニュアンスです。
師は「随流去ずいりゅうこ」という言葉がお好きでした。「わしは流れに任せて生きてきただけじゃ」といつもおっしゃっていました。「任運日月」です。そして、お住まいとされたところは大雄山最乗寺の「真如台しんにょたい」ですから、それに掛けても真如という言葉を使われたと思いますが、真如は『禅学大辞典』には「真は真実、如はその性が「かくあること」の意。万有に偏在する根源的な実相をいう」とあります。つまり昧ましようのない真実相です。昧まそうとおもっても昧ませない、昧ます昧まさないに拘わらない、つまり真如はイコール不昧と言えましょう。
この四句はそれぞれ関連しているようであり、実は一句一句が真理を表現していると言えるのではないでしょうか。そんなように読み解かせて貰いました。以前、この遺偈の解説を当ブログに書いたかもしれませんが、少し、今と違う読み方をしていたかもしれません。そのように、偈頌はこれと限定した解説は、必ずしもできないものと思います。特に語句の数が少ないほど、言葉に限定されることが少ないので、表す世界は広いといえましょう。
私などは七言絶句、二十八文字も使って遺偈を作ってみましたが、言葉を使えば使うほど、四言四句の古詩に比べますと、より言葉の限定を受けてしまうといえましょう。すると、言葉の限定を受けない最たる表現は「無言」ということになります。この無言に近い、一切限定のない境界を、なんとか言語表現したのが禅僧の偈頌や遺偈といえるでしょう。
こうして考えてきますと、私の遺偈はまだまだですので、それを掲げなくてはならない最期のときは、「もう少しお待ちを」ということになります。
今日で二月も幕引きです。弥生三月、明日は幕開け。このそれぞれの命を、鈴振り鈴振り歩一歩。また歩いて参りましょう。風邪には御用心。
しばらくログを書く時間がありませんでしたので、「遺偈ゆいげ」という題に、ついに風月庵も遺偈を書く事態になったかと、思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、まだその時ではないようです。
禅僧は一月の二日には遺偈を作っておくものだ、と師匠から言われていましたが、今まで全くその気にはなりませんでした。しかし、先日自然に七言絶句の遺偈ができました。今のところはこの偈頌を遺偈としたいと思っています。これが披露されるのは、消えた後です。何時であるかはわかりません。このところはめまいもなくなり、耳鳴りも治まりました。パソコンに向かう時間を少なくするようにしましたので、VDT症候群からは抜け出せたようです。
さて遺偈について『禅学大辞典』を引いてみますと、「遺誡偈頌の略。高僧碩徳が入滅に際して、後人のために残す偈。そこには大悟の境界、または心境感想などが、辞世の語として書かれている」とありました。
としますと、私は高僧碩徳ではないので、遺偈は要らなかったのですが、師匠はその区別なくおっしゃったようです。弟子はやはりその区別なく、師匠の教え通り、遺偈をつくっておきたいと思います。
先月一月五日、永平寺の宮崎禅師様が、世寿せじゅ108歳で御遷化ごせんげなさいました。禅師様の遺偈は次のようです。
慕古真心 不離叢林 慕古もこの真心しんじん 叢林そうりんを離れず
末後端的 坐断而今 末後まつごの端的たんてき 而今にこんを坐断ざだんす
慕古は一般的には「ぼこ」と読みますが、禅的には「もこ」と読みます。禅師様のお好きな言葉であったと思います。ここを「古の真心を慕って」という読み方もあるようですが、私は上のように読んだ方が良いのではと勝手読みをしました。
古の先人を慕う真心は、修行の場(叢林)を離れることなく、命終のまさに今、このまさに而今(いま)を坐し尽くしていく。坐しきっていく。坐し抜いていくのである。
遺偈には、『傘松』2月号にも解説がつけられていないようですので、上の解釈は私の勝手な解説です。中外日報には解説が掲載されたようですが、「僧侶的 いま・ここ」にもその解説には疑問があることを書かれています。
坐断という語を『禅学大辞典』で引いてみますと「坐し尽くす。坐しきる。徹底して坐ること。転じて、ひっしいてしまう、やっつけるの意。また差別の相を打破して、平等一如の境地に徹しきる意にも用いた」とあります。深い意味のある語です。これを読み間違いますと、とんでもない訳になってしまいますので気をつけなくてはならないでしょう。
永平寺の暁天坐禅きょうてんざぜんには、雲水よりも早く坐禅堂に坐っていらっしゃったという禅師様ですから、そのお姿が彷彿としてくるような遺偈です。そして、後に続く者にも遺された指針でしょう。
因みに、私の師匠の遺偈はつぎのようです。
任運日月 隨縁誑人 任運日月にんうんじつげつ 縁に隨い人を誑たぶらかす
真如不昧 行脚永新 真如不昧しんにょふまい 行脚あんぎゃ永とこしなえに新なり
時の自然の流れに任せきり、縁に随って人を誑かしてきた。真如は昧くらますことなく、永えに新たに行脚しつづけていくのである。
どうもこの解説は難しいです。解説を付けずに、このまま読んだほうが、それぞれの心に、それぞれが頂ける解釈があるように思います。「人を誑かす」という言葉は、言葉通りに誑かすという意味ではなく、禅的な一種独特な解釈が必要でしょう。例えば弟子を褒めるとき、かえってけなし言葉を使う事が、禅の世界ではありますが、その類の表現であって、決して師匠は人を誑かしたわけではありません。しかし、高僧で素晴らしいと讃えられる事への、いやいやそんなもんではありませんよ、というニュアンスが込められている、といえばよいでしょうか。しかし単なる謙遜とも違うニュアンスです。
師は「随流去ずいりゅうこ」という言葉がお好きでした。「わしは流れに任せて生きてきただけじゃ」といつもおっしゃっていました。「任運日月」です。そして、お住まいとされたところは大雄山最乗寺の「真如台しんにょたい」ですから、それに掛けても真如という言葉を使われたと思いますが、真如は『禅学大辞典』には「真は真実、如はその性が「かくあること」の意。万有に偏在する根源的な実相をいう」とあります。つまり昧ましようのない真実相です。昧まそうとおもっても昧ませない、昧ます昧まさないに拘わらない、つまり真如はイコール不昧と言えましょう。
この四句はそれぞれ関連しているようであり、実は一句一句が真理を表現していると言えるのではないでしょうか。そんなように読み解かせて貰いました。以前、この遺偈の解説を当ブログに書いたかもしれませんが、少し、今と違う読み方をしていたかもしれません。そのように、偈頌はこれと限定した解説は、必ずしもできないものと思います。特に語句の数が少ないほど、言葉に限定されることが少ないので、表す世界は広いといえましょう。
私などは七言絶句、二十八文字も使って遺偈を作ってみましたが、言葉を使えば使うほど、四言四句の古詩に比べますと、より言葉の限定を受けてしまうといえましょう。すると、言葉の限定を受けない最たる表現は「無言」ということになります。この無言に近い、一切限定のない境界を、なんとか言語表現したのが禅僧の偈頌や遺偈といえるでしょう。
こうして考えてきますと、私の遺偈はまだまだですので、それを掲げなくてはならない最期のときは、「もう少しお待ちを」ということになります。
今日で二月も幕引きです。弥生三月、明日は幕開け。このそれぞれの命を、鈴振り鈴振り歩一歩。また歩いて参りましょう。風邪には御用心。