風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

青春は夢中の時の流れ

2006-12-27 17:09:06 | Weblog
12月27日(水)晴れ【青春は夢中の時の流れ】

ある用があって、二日間大阪に行って来た。久しぶりの大阪である。おそらく10年振りだと思う。久しぶりに会った友人や知人のお子さんたちが、確実に10年大きく成長していた。小学生であった少年が大学生になり、大学生であった青年が、本山での修行も終えて、方丈様御遷化の後のお寺をしっかりと嗣いでいらっしゃったりして、月日の熟成を感じた。

特に今回の大阪行きでは数人の若者たちと話をする機会に恵まれた。それぞれ若者たちは悩みもあり、夢もあり、やはり青春のただ中という感じである。年齢を重ねても心は青春というような表現も聞くが、それは違うと実感する。この前の私のログでも、たまたま自分の若かりし日を開陳し(特に私は今は尼僧であるので、遊び歩いていた頃の話には、眉をひそめた方もいらっしゃるかもしれない)、その日々を思い出すことになったが、あの頃と今を比べれば、あの頃はやはり若い。

若者たちの話を聞かせて貰うと、勇気があると思うし、音楽が好きで、バンドを組んで音楽に賭けている若者が、会った若者の半分はいるので驚いた。それを職業にしようとか、それで食べていこうというよりも、ただバンドを組んで、自分のやりたいことをやりたいように楽しんでいる、と表現してよいだろうか。それが私には勇気ある生き方に思える。

私が若い頃は、好きだからただシナリオを書くというのではなく、シナリオライターを目指して頑張っていたのである。目標があってそれに向かっていたのだが、思い返せばただ好きなことをやる、という方が純粋に思えるし、そこには挫折が無いといえよう。何かになろうというより、ただ好きなことを今為す、それを今はよしとしたい。その結果ミュージシャンとして食べていけたり、シナリオライターになるのもよいだろう。

目標を持つのもよいけれども、目標に振り回されて動かされるよりも、よく考えながら、みずから今、動いていくことが大事ではなかろうか、と思ったりもした。思いがけず若者たちと話ができて、教えて貰うことが多かった。なにより少年が立派な青年に成長していたのは本当に嬉しかった。それぞれの親は育てるのに本当に苦労したことだろうし、今もし続けていることに、また応援の気持ちを送りたいと思う。

それぞれのプライバシーがあるので、ここでは箇箇のことには触れないが、それぞれの若者たちには、どのように説明すればよいのかさえ分からない苦しみがあるだろうが、それが青春というものではなかろうか。過ぎ去ったときにわかることもあるだろう。今は苦しいだろうが、なんとか乗り切ってもらいたいものだと願わずにはおれない。

そして願わくば、若者たちが自分で働いたお金で生活をし、いつか苦労をかけた親たちにも楽をさせてくれると嬉しいが、と思うのは私が確実に年齢をとった証拠であろう。年の瀬も押し迫り、たまたま十年の時の流れを振り返ったログを続けて書いたことになる。大阪への往復に、節約をして夜行バスを使ったのはよいが、さすがに疲れた。やはり「大人の休日倶楽部」におすすめに従って入りましょうか。

小茶のおばちゃん

2006-12-24 11:11:20 | Weblog
12月24日(月)【小茶のおばちゃん】

明日は小茶のおばちゃんの命日です。平成8年の12月25日おばちゃんはお亡くなりになりました。82歳でした。同じ年の同じ月の21日には私の本師も亡くなりました。年が明けた2月14日には映画が跳ねた後のテアトル新宿を借りきって小茶葬があり、おばちゃんを偲んだのが昨日のような気がします。あれから10年が経ちました。

大学時代の5年間(学生運動華やかな頃で、留年したので5年です)おばちゃんの顔を見ない一週間はなかったというほどよく通っていました。大学の映画研究会の先輩たちに連れて行かれたのがはじめでしたが、お金が無くてもおばちゃんの所に行けば、いつでも飲ませてもらえました。そしていつでもおいしいおむすびと煮染めの山盛りを食べさせてもらえました。

店が開く前から行っては、おばちゃんに人生相談に乗ってもらったり、終電が無くなってしまってよく小茶の二階に泊めてもらいました。明け方までおばちゃんは働いているにも拘わらず、ちょっと寝たかと思うと、いつのまにか河岸にその日の仕入れに行っているのには驚きました。

こちらは二日酔いで頭は痛いのに、大学には行かなくてはならないし、アルバイトにも行かなくてはならないし、おばちゃんに喝を入れられて、朝の新宿の街を歩いたことも何度あるか分かりません。私はそれほどの飲んべえではありませんし、あちこち飲み歩くというタイプではなく、小茶のおばちゃんだけが頼りの気の弱い、ちょっといきがっている女子大生といったところでした。

小茶のカウンター席にはあまり座ったことがなく、階段のところか、二階の三畳で、15人ぐらいいつもぎゅうぎゅうになって座り合っていました。それでもそこで映画の話をしたり、誰かがギターを弾いて歌を歌ったり、小茶に来さえすれば、必ず誰か友人に会えるそんな場でした。

そして誰かが必ずおばちゃんに怒られていて、「ああ、やだやだ、そんな人は来ないで」と言われてシュンとしている姿がありました。おばちゃんは潔癖性の人でしたので、くだらないことを言ったり、人の道に反するようなことをすると、嫌われます。喝はむしろおばちゃんの愛情といってよいかもしれません。喝を入れられた人はかえって喜んで通って来るという感じがありました。おばちゃんはお客さんにお愛想を振りまいたことは無いと思うのですが、いつも客で溢れていたのです。二坪ぐらいしかないのに、小茶は不思議な空間でした。

私が知っている頃のおばちゃんはいつも白い割烹着をつけて、ガス台の隣に坐って客の注文をこなしている姿です。時々おいしそうに吸う煙草は「しんせい」だったでしょうか。そのおばちゃんの前にはカウンター、頭上には二階に上がる階段があって、二階のお運びは、客の誰かしらが自然につとめている。おばちゃんの周りにいて飲んでいる、それだけで皆満足していた、そんなふうでした。

焼け跡の屋台から出発して、丁度私の生まれた昭和21年から、新宿で生きてきたおばちゃん、歌舞伎町一番街の店に移るときもお客さんのカンパが力になったそうですが、おばちゃんのためには誰でも喜んで力になったことでしょう。愛想は振りまかなくても、お客さんのためにおばちゃんほど尽くしてくれた人はいないでしょう。一年365日、小茶には休みがありませんでした。お金のない学生さんでもいつでも飲めるように、と言ったことを一度聞いた覚えがあります。テアトル新宿の小茶葬のとき、そこに飾られたおばちゃんの掛け売り帖を見て、皆それぞれの感慨にふけったことでしょう。泣いた人もいたでしょう。おばちゃんにだけ分かる字で、それぞれの客のつけが書かれた厚い帳面。この帳面を勿論見ていたでしょうけれど、實は借りを払いに来た客の懐を見てくれて、「幾らよ」と請求してくれていたような気がします。

区役所通りの歌舞伎町一番街には、おばちゃんがいて、不思議な空間でした。私の青春は小茶とともにあったと言っても過言ではありません。おばちゃんの名は栗間フジさん、誕生日は四月一日でした。この小茶も都政の都合で立ち退きになってしまい、歌舞伎町の二丁目に移ってしまいました。私は新しいお店になってからは、全く伺うことなく、おばちゃんに去られてしまいました。今、新宿のネオンとは無縁のような顔をして、禅語録の参究や坐禅の日々を送っていますけれども、おばちゃんのお陰で掛け替えのない青春を送れたと思い、感謝を込めて思い出を書きました。今も面白いと思い生きていますけれど、人生などと、掌のひらに載せることなく、そのまっただ中で動いていた若い頃を思い出せば、そこにはおばちゃんがいたのです。おばちゃん、有り難う。あの厚いそして熱々の卵焼きが懐かしい。

(今夜から大阪に出かけますので、一日早い追悼文です)

報恩

2006-12-21 19:18:44 | Weblog
12月21日(水)曇り【報恩】

今日は本師ご遷化の正当である。本師に出逢えたお蔭で、只今、仏教を学び続けられている。本当に有り難いご縁に感謝あるのみ。

当風月庵だよりでは、時折中国や日本の禅僧についてご紹介しているが、その折必ず話題とする禅師の師匠の名を書き添えてきている。これは単に知識としてご紹介しているだけのことではない。禅(仏教)を学ぶ者には必ずその師がなくてはならない、このことをお伝えする意図の元に書いているのである。

一人で悟ったような気持ちでいることは、大変に危険な事と言わねばならないだろう。師に我の角を叩かれ、叩かれして、道を示して頂くことは古来からの禅の学びの方法である。臨済義玄(?~867)はその師、黄檗希運(生卒年不詳)から烈しく打ち据えられ、その親切によって覚り、臨済はまたその門をくぐる学人を一喝して、分別心を一掃させようとつとめられた。

また徳山宣鑑とくさんせんかん(782~865)という禅師は、龍潭崇信りゅうたんそうしん(生卒年不詳)の弟子であるが、「徳山の棒」として知られているように、門を敲く者に三十棒を与えて、厳しく接化(指導)した。弟子には雪峰義存(822~908)等を輩出している。

喝や棒と聞くと現代では随分と乱暴な方法のように思えるが、これらの禅師の指導は、独りよがりに陥るのを誡めていると捉えて頂きたい。自分は正しいという奢りを打ちのめさないと、頭でっかちになり、安易に是非を論じて、道が分かったような顔をしてしまうことを、師はその親切心によって見抜き、導いてくださるといえようか。

さて前のログで絵師河鍋暁斎かわなべきょうさいについてご紹介したが、この方の作品の中に「船子・夾山図」がある。一人の僧が船の上から棹を振り上げている。これは船子徳誠せんすとくじょう(生卒年不詳)である。河の中には丁度船からたたき落とされて、溺れそうになりながら船上の僧を仰いでいる僧の姿がある。こちらの方は夾山善會かっさんぜんね(805~881)である。

この話は『景徳伝燈録』や道元禅師の『正法眼蔵』「山水」巻にも書かれている。
〈原文〉
華亭船子和尚名徳誠。嗣樂山。嘗於華亭呉江汎一小舟。時謂之船子和尚。師嘗謂同參道吾曰。他後有霊利坐主指一箇来。道吾後激勉京口和尚善会参礼師。師問曰。坐主住甚寺。会曰。寺即不住。住即不似。師曰。不似似箇什麼。会曰。目前無相似。師曰。何処学得来。曰非耳目之所到。師笑曰。一句合頭語万劫繋驢楔。垂糸千尺意在深潭。離鉤三寸速道速道。会擬開口。師便以篙撞在水中。因而大悟。師当下棄舟而逝。莫知其終(『景徳伝燈録』巻14。T51ー_p315b26)

〈訓読〉
華亭船子かていせんす和尚、名は徳誠。薬山に嗣ぐ。嘗かつて華亭呉江に一小舟を汎うかぶ。時に之を船子和尚と謂う。師、嘗て同参の道吾に謂って曰く、他後霊利の坐主ざす有らば一箇来を指めせ。道吾、後に京口の和尚善会を激勉し、師に礼し参ぜしむ。師問うて曰く、坐主甚なんの寺に住す。会曰く、寺は即ち住せず。住すれば即ち似ず。師曰く、似ざれば箇の什麼なににか似たる。会曰く、目前に相似無し。師曰く、何処いずこより学得がくとくし来る。曰く、耳目の所到に非ず。師笑って曰く、一句合頭がっとうの語、万劫まんごうの繋驢楔けろけつ垂糸千尺、意深潭しんたんに在り。鉤三寸を離れて、速やかに道え速やかに道え。会、口を開かんとす。師便ち篙さおを以て水中に撞く。因りて大悟す。師、当下に舟を棄てて逝く。其の終を知ること莫し

〈試訳〉
華亭船子和尚、名は徳誠。薬山惟儼(751~834、または745~828)の弟子である。以前華亭県の呉江で小さな舟を浮かべていたので、人々は船子和尚と謂った。兄弟弟子の道吾円智(769~835)に、いつかすぐれた指導者である僧が一人ぐらいいたら、儂の所に寄越してくれと言って別れた。道吾は京口に住していた夾山(文中、会と記されている)を船子のところに行ってみろと励まして参じさせた。(船子が船頭になっていたのは、唐の武帝の法難を逃れて身を隠していたのだといわれる)

船子は早速法戦を始める。「おまえさんはどんな寺に住んでいたのか」と。夾山は答える、「寺は即ち住せず。住すれば即ち似ず」(寺という限定した所にしがみついてはいませんよ、何かにとどまるならば、及ばないでしょう)」船子は「及ばないと言うが、じゃ一体何に及ぶというのだい」夾山は「目前にそれに及んでいるのはありません(目前に法はありません)」船子「そんなことを一体何処で学んできたのか」夾山「耳目で学んだのではありません(自分で分かったのです、というようなことか)」

船子は笑って言われた「そんな理屈っぽい語を言っているようじゃ、永劫に言葉の呪縛から逃れられないぞ」そうして船子は「儂はお前を千尺もの糸を垂らして釣り上げようとしているのに、まだわからんか。釣り上げられた儂の鉤から、お前さんの舌の先を離して(儂の言葉じりにひっかからないで)、さあ言ってみろ、さっさと言え」と言いながら、言葉で何か言おうとする夾山を棹でもって船から水の中にたたき落とした。そこで夾山はようやく大悟したのである。船子は跡継ぎができたので、さっさと船を捨てて死んでしまった。その最期は誰も知らない。

(これは私の試訳ですが、過ちがありましたらご指摘下さい。宜しくお願い致します。「住即不似」の解釈が少し難解でした。)

このように師は弟子を河に敲き落としてでも、覚らせようと親切心を尽くしてくれる訳だが、この船子と夾山の話は、独善と傲慢に陥り、仏法を分別心で捉えようという危険から明眼の師が救い出してくれるきっかけになってくれるという好材料の話であろう。(救う主体は勿論本人自身であり、師ではない)

たまたま暁斎の紹介の書に、この話の図を見出したので、本師の正当に因み報恩の参究をさせて頂いた。

*暁斎の絵(本の写真であるが)を拡大鏡で見てみると、船子の顔は怒りの顔ではなく慈悲を感じる表情である。暁斎は十分に禅門における師資相承の意味を理解する眼で描いていることが感じられる。人物描写も躍動感に溢れている。これはコンドル・コレクションにあるそうだが、実物の展示を見たいものである。

河鍋暁斎記念美術館

2006-12-19 23:57:57 | Weblog
12月18日(月)晴れ【河鍋暁斎記念美術館】

埼玉県に蕨市というところがある。このあたりに時々法事に伺うのだが、地図を見るたびに気になっていた表示がある。それは「暁斎美術館」という文字である。ほぼ10年以上もいつかこの美術館に寄ってみたいと思い続けていた。それが先週ついに叶った。この美術館のすぐそばの家の法事があり、時間的にも丁度美術館に寄ることができる余裕があった。

法事の家の人は15分もあれば観られますから、駐車場をお使い下さい、と言ってくれた。しかし美術館にも駐車場が十分に余裕があったので、そちらに一応移動しておいた。それはまことに正解であった。15分と言われたが、私はなんと一時間半もここで過ごしてしまったのである。

「河鍋暁斎かわなべきょうさい記念美術館」には幕末から明治にかけて活躍した絵師、河鍋暁斎(1831~1889)の作品を中心に展示されている。實は私は暁斎については全く無知であっった。展示室に入ったとたん、絵の中から今にも踊り出してきそうな人物が何人も描かれた下絵に目を瞠った。絵に描かれる人物像がこれほどに躍動的な感じであるのを私は今まで見たことがない。

しかしほとんどが下絵のようである。他には暁斎の娘、暁翠(1868~1935)の描いた天の岩戸の絵があったように思う。同じ構図で暁斎が描いたものを暁翠も描いたようだ。素戔嗚尊すさのおのみことの悪戯が非道いので、天照大神が天の岩戸に隠れてしまった。それを鈿女うずめが踊って岩との周りで騒いでいるのを影から天照大神が覗いているような絵であった、と思う。

暁斎は三歳から蛙の絵を描いたそうで、長じてからも蛙は題材としても好んだようだが、展示室の一画に蛙の石行燈が置かれていて、これに蝋燭を入れて庭の一隅に置きたいものだと、一目でそんな気がした。

第二展示室では暁斎の作品解説のビデオを見せて貰った。絵を描くことにあまりに熱中する周三郎(暁斎の幼名)を、この才能を伸ばしてやろうと思った父親は、浮世絵師一勇斎国芳の元に7歳のときに入門させた。10歳の歳には狩野派に学び、19歳の時には洞郁の画号を授かっている。しかしその頃すでに江戸幕府は崩壊の寸前なので、狩野派の絵師としてのお抱え絵師のお役目は終わっていた。また暁斎自身ただ模写するだけの作業にはあきたらず独自の境地を開き、どのような画題にも生きた物語を吹き込まなくてはいられないようなエネルギーを持っていた絵師のようである。

ただなぜ暁斎のすぐれた絵師としての伎倆に対して、日本では正当な評価を得ていないのか。それは彼の腕前を海外の人々が見抜いて、その作品が多く海外に流失してしまっていることにも、その因があるかもしれない。また高官や世俗的に力のある者に迎合しなかった生き様にもあるかもしれない。また批評家になびかなかったことにも、その因はあるかもしれない。

このログを書くために、私も少し暁斎について書かれたものを読んで学んでみたのであるが、かなりの絵師であったのではなかろうか、と思う。将来再認識される時が来るのではなかろうか。曾孫の河鍋楠美さんという方がこの美術館の館長を務め、暁斎の偉業の顕彰につとめている。

鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルに『河鍋暁斎』(岩波文庫)の一書がある。コンドルは八年間、暁斎の弟子として教えを受けている。暁英という雅号までも貰っている。またかなりの作品を買い受けたようで、コンドル・コレクションがある。画題の対象は豊富であり、多岐に及んでいる。、観音菩薩像のある反面、幽靈の図があり、百鬼夜行図があり、蛙の絵がある。蛙は特に好んで描いたようである。蛙を戯画的に描いている。鳥羽僧正の鳥獣戯画は有名であるが、それに比する作品は暁斎にも多くあるのではなかろうか。

世の中で評価されているものを、人々はそれだけで尊ぶが、自分の目で見て再認識したほうがよいのではなかろうか、という画家や作品は、多く市井に埋もれていると思う。この度は10年来気がかりであった美術館に寄ることができ、じっくりと味わう時間を得られて幸運であった。

暁斎は龐居士や龐居士の娘霊昭女や禅僧も題材として描いている。これらは個人の所蔵となっている。いつか暁斎美術館に展示されるチャンスもくるだろう。

このブログをお読みの方々にも是非「暁斎美術館」にお立ち寄り頂けますように
*河鍋暁斎記念美術館:開館: 午前10時~午後4時
           休刊日:木曜日毎月二六日~年末年始
           入館料:300円
           住所:蕨市南町4-36-4(JR西川口下車)
           電話:048-441-9780 

千の風になって

2006-12-17 19:51:41 | Weblog
12月17日(日)曇り【千の風になって】

たまたまテレビをつけたら、9.11のテロでお父さんを失った少女が、「千の風になって」の朗読をしているところだった。この少女だけでなく、肉親を失った悲しみをこの歌によって癒されている人々をアメリカやイギリス、そしてアイルランドまで、本田多江さんという人が訪ねるという番組であった。途中からだったので本田多江さんという方がどのような事情でお父さんを亡くされたのかは分からなかったが、彼女もお父さんを亡くされて、深い悲しみを抱いていた。

世界の各地にこの歌によって、肉親を失った悲しみを乗り越えている人々がいる。言葉の持つ力を感じる詩である。これはアイルランドのテロによって倒れたイギリス兵のステファンという青年(享年21歳)が、自らの死を予感していたのかもしれないが、その母親宛の手紙に残した詩であるという。和訳し日本で作曲をした新井満さんも、はじめのうちは作詞家について不詳と書いていたようである。

このテレビ番組は新井満さんの監修であった。電通に長く勤められていた方なので、番組制作については専門家であるが、特にこの番組については深い思い入れがあることだろう。新井満さんには『自由訳 般若心経』という著書もあり、その内容も亡きお母さんに対しての報恩の書であり、宇宙と生命とのシンフォニーが聞こえてきそうな一冊の書である。そのような書を書いている人の監修なので、この番組には生命を見据える目を、私は感じた。

これは再放送のようなので、おそらく多くの方が観たのではなかろうか。このブログにご訪問の皆さんもとうにご存じの詩でもあろうが、新井満さんの訳詞と英文の原文を掲載しておきます。これは「うたごえ喫茶のひ」さんのブログから転載させていただきました。

「千の風になって 」
【作詞】ステファン
【訳詞】新井満
【作曲】新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています

あの大きな空を
吹き渡っています



A THOUSAND WINDS

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.

When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.

Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.


*この原詩のさらに原詩があるという情報を得ました。それはメアリ・フライさんという方の詩だそうです。ところどころ異なるようです。

*ステファンさんのファミリーネームを記憶しそびれました。ご存じの方がいらしたらコメント下さい。

*ネイティブインディアンの人の食前の祈り:「命の惠みが、命を育み、命が引き継がれていることに感謝します」最後の箇所は記憶違いかもしれないが、食前の祈りの素敵な言葉だと思った。

*大変重要なコメントがありましたので付記させていただきます。これは私の仏教者としての未熟な点を露呈することにはなりますが、このブログの管理人の姿勢をご理解頂き、その上でお読み頂いた方がよいと思いますので、敢えて開いておきます。また仏教の教理としても重要な点であると思います。

Unknown (大問訊)

2006-12-20 13:19:05

はじめまして。時折、寄せていただいております。
さて、この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?
それとも、やはり、曹洞宗も霊を認め、死を道徳的なレベルにしかかんがえていないのでしょうか?
ご教示ください。

Unkowunさんへ (風月)

2006-12-20 15:45:46

ご質問有り難うございます。大変に大事なご質問と受け取ります。

「この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?」について
宗学的と限らず、仏教的に見れば、この歌は不可でしょう。なぜならばお釈迦様は、全ての事物に実体の無いことを覚られ、実体があるとするアートマン思想を否定されたのですから、死後の実体があるようなとらえ方であるこの歌は仏教的教理から言えば、不可となります。

「曹洞宗も霊を認め」について
曹洞宗としては霊魂を実体視する立場はとっていないでしょう。

「死を道徳的なレベル」に考えるという質問に対して
霊的存在を認めますと、死は道徳的レベルになってしまうということになるでしょう。しかし霊的存在を認めていませんので、死は単に道徳的レベルとしてしか考えないということではないと言えましょう。しかしこのようなご質問を下される方にこそ、お教えを乞いたいところであります。

さてご質問に対しての答えはこのようになりますが、それでは曹洞宗の僧侶である私がこの歌を肯定する立場としてログに掲載していますのは、仏教教理からは外れていることになります。

私のとらえ方にこのような心情的、文学的な香りを否定しきれない考えがあります。また私自身目に見えるだけの世界を世界としていない経験からの考えがあります。このような考えは、仏教の教理の学びが足りないことにあるかもしれませんが。





昔の先生

2006-12-16 22:54:41 | Weblog
10月10日(火)晴れ【昔の先生】
(迷惑なトラックバックがこのログに多いので削除しやすいように位置を移動しました。古いログです。アルファベットを入れるといけないのかと考え、アルファベットを全て○○に変えました)

また先日の同窓会の話になるが、隣の宴席に座った○○ークンが言ったこと。「俺が中学を卒業して、東京に就職するとき、家じゃみんな忙しくて誰も付いてきてくれられなくて、あの○○先生が就職先まで送ってきてくれたんだよ」と上席に座っている先生を指した。「先生はもう忘れちゃっているけど」「しっかりやれよって」「今になって、有り難かったって思うさ」と言った。

昭和34年に作られた山本薩夫監督の『人間の壁』に描かれた教師たちも、貧しくて苦労している子供たちの味方のような先生たちだった。映画だけでなく実際にもそんな先生たちが多かったであろう。

今でも生徒思いの先生がいないとは決して言えない。しかし北海道滝川市の教育委員会のようなケースを耳にすると、はなはだ心配になってしまう。教育委員長は必ず教師の経験者であり、やがて校長になるケースが多い。しかし遂に、自殺した少女にいじめがあったことを認めたという。当然のことであろう。少女が自殺を決行してから一年以上もたって、やっとそのような事実を認めるという姿勢は、理解に苦しむばかりである。

少女の遺書も一部が公開されたので、クラス・メートから仲間はずれにされたことが原因の自殺であることが明らかにわかる。このような遺書を目にしていた教育委員達がなぜ自殺と受けとめなかったのか、国語の読解力がなくて理解できなかったのであろうか。

このような大人達の自己保身や事なかれ主義が、友を死に追いやるような子供たちを益々増やしてしまうのだということを認識するべきであろう。子供たちには、一人が「キモイ」というと連鎖的にみんなが「キモイ」という一種の集団ボケ症状がある。その時「キモイ」と言うグループに入らなければ、自分が言われてしまう方にまわされてしまうのである。そういうこともあるだろう。

昔の先生が全て正しかったとは言えないだろうが、もう少し生徒たちを善導することができたのではあるまいか。先生の権威ももっとあったのは確かである。(いじめについて私はしつこく書きたいのであるが、この位にしておこう。昔の先生と今の先生の比較をしたところでなにも始まらないだろうから)

世の中は北朝鮮の核実験について論争をしているし、後から後から事件が噴き出している。今テレビで論じていることだけが全てではないのであって、忘れてはならない、風化させてはならない事件をそれぞれが見据えていきたい。

学校のみんなへ
 この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう
 私は、この学校や生とのことがとてもいやになりました。それは、3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。
 6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。
 でもこわくてできませんでした。
 でも今私はけっしんしました。(後略)
6年生のみんなへ
 みんなは私のことがきらいでしたか? きもちわるかったですか? 私は、みんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました。(後略)
※一部抜粋、仮名遣いなどは原文のまま

とにかく教育にたずさわる方々は大変だろうが、そのテリトリーには他の者が入れないのだから、責任を持ってたずさわって頂きたいとお願いをしたい。

"故郷の話をしよう"

2006-12-16 19:32:15 | Weblog
10月2日(月)曇り【"故郷の話をしよう"】
(迷惑トラックバックが多く削除作業のため位置を移動しました。以前の記事です。名前は全て○に変えました。)

皆様お久しぶりです。このところ出かけることが多く、書くことができませんでした。二年前から母に頼まれていたことがあり、それを叶えてあげる用事が一つありました。言うなれば冥土のみやげのようなもので、生きているうちに古い友人に会いたいという母の願いのためにちょっと出かけておりました。

仕事のきりがつかないこともあり、二年も待って貰っていたのですが、母が生きていてくれてよかった、と思います。もし約束を果たさないで、最終の旅行に出かけられてしまったなら、きっと私は約束を果たさなかったことを悔やんだでしょう。

御陰様で無事その約束は果たせました。しかし、また新たなる願いを母は持ったようです。キリがないようです。これはさりげなく聞かせてください。

それから私は故郷の中学校の同窓会に行って来ました。私は中学校から東京に出てきたので、故郷の小学校だけのつき合いですが、メンバーに入れてもらえています。仲良しの友だちのお陰です。

誰とでも仲良く遊んだ小学校時代ですけど、特に仲良しは、お寺の○チャンや、美容院の娘で今は美容院を継いでいる○チャンや、最近まで売れっ子の芸者さんだった○チャンやら、いろいろです。

私はご存じのように女性ですが、○○クン、と愛称で呼ばれていて、今でもそう呼ばれます。他の人は女の子は「チャン」、男の子は「クン」づけで、小学校時代の呼び方のまま。還暦にもなろうというおばさん、おじさん達が、お互いに○○チャン、▲▲チャン、□□クンと呼び合っているのですから、楽しいとしか言いようがありません。(いやおかしいでしょうか。)

先生方も三人ご出席下さいました。三人とも、もう八〇歳を過ぎています。そのうちのお一人の先生にはよく怒られて立たされた話などに花が咲きました。ある人は図書館に立たされたまま、先生も忘れて帰ってしまった話やら、今のピーティーエーの方々には想像もできないような話しでしょう。しかも女の子の方がよく立たされていたのですから。先生は本当に熱血先生でした。

「先生に怒ってもらって、本当によかったと思っているよ」と皆言います。今の子供達には想像もできないことでしょう。「でもあんまりあたしが言うことを聞かないんで、先生が親に言いに来たんさ、でも家の母ちゃんは、うちの子はいい子ですよ、って笑っているんさ。陰からそれを聞いてて、あたしはいい子になろうと反省したんさ」と、一人の友人は言います。そんなことがあったのかと、私は聞いていて感心した。

こんなこと一つとっても、私たちが育った時代は幸せな時代だったのではなかろうか。小学校の校歌を歌ったが、歌に詠まれる「仰げば高い谷川岳」と「流れも清い利根川」の自然に囲まれて、同窓会に集まったような友人達と小学校時代を過ごせたことは、一生の宝と言えるでしょう。

はや泉下に先に逝ってしまった友も何人もいます。また母親が残っているのは、極僅かです。「みんな生きている間にまた会おうね」と次回の約束をして故郷を後にしました。次回に私が生きているかは分かりません。また友の面々にも分からない話です。

谷川岳の麓、「旅館たにがわ」という小学校の友が営むホテルでの同窓会でした。
陶淵明が「雲無心以出岫(雲は無心にしてもって岫を出づ)」と詠んだような、山間の静かな宿での故郷の同窓会に行ってまいりました。(「*雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。」という言葉もありますが、自然に恵まれた、もてなしの行き届いた素晴らしいお宿です。)

また少しずつ当庵のブログを管理しますが、留守の間もご訪問下さり有り難うございました。

*雲在嶺頭不徹。水流澗下太忙生。:おそらく大愚守芝(不詳、汾陽善昭〈947~1024〉の法嗣)の言葉。大自然の姿に、人間の分別・比較・評価の入り込めない世界の消息を示している。

智慧の功徳

2006-12-15 18:44:07 | Weblog
12月15日(金)晴れ【智慧の功徳】

この世を生きていく間に、多くのことを見聞きし、多くのことを体験もする。改めて言うまでもないが、この見聞・体験の主体は自分自身である。私も還暦を迎えるまで生かされてきて、少なからず見聞きし、体験もしてきた。

体験したことにおいては、失敗ばかりであったという印象が強い。なぜそうであったかと考えてみると、自利や我を先にした行動において、自ら「失敗」という判定を下すことになる。一方、利他や心を大事にした行動に対しては、「安心あんじん」がある。失敗の反対の語は成功のようであるが、この場合は心の持ちようの安定、安心ということになる。

とにかく反省することの多い人生である。恥ずかしいほどの人生であるが、過去に戻ってやり直すことはできない。しかし今からならやり直すことはできる。それが限定されたものは一切無いという、固定的に不動なものは一切無いという「諸行無常しょぎょうむじょう」の教えであり、「一切皆空いっさいかいくう」の教えと受けとめる。

しかしこれから先の人生はそれほど長い時間は残されていない。「やり直す」にしても何か効果的でなくては、と考えるに、『大智度論の物語』を読んでいて、次の一文に出会った。

小人眼見求清浄 如是無智無実道
諸結煩悩満心中 云何眼見得浄道
若有眼見得清浄 何用智慧功徳実
智慧功徳乃為浄 眼見求浄無是事   (『大智度論』巻3『大正新脩大蔵経』25巻82頁b22)

小人は眼のあたり見て清浄を求む。 是くの如きは智無く実の道無し。
諸もろの煩悩を結んで心中に満つ。 云何いかんが眼のあたり見て浄道を得ん。
し眼のあたり見て清浄を得ること有らば、 何ぞ智慧の功徳の実を用いん。
智慧の功徳、乃ち浄と為す。 眼のあたり見て浄を求むること是の事無きことなり。


小人は目の前にあることを見て、清浄を求める。このようなことは智も無く実の道も無い。
多くの煩悩が心に満ちたままで、どうして目に見るだけで清浄の道を得られるだろうか。もし目に見るだけで清浄の道を得られるのならば、智慧の功徳による宝を用いる必要があるだろうか。智慧による功徳こそ、それが清浄なのである。まのあたり見ることだけで清浄を求めることなどあり得ないことである
。(『大智度論の物語』の訳をほとんど参照させて頂き、一部言葉を変えた)

この箇所は清浄に生きた僧侶を見ただけでは清浄にはなれないよ、清浄を得るのは智慧の功徳による、ということを言っている件である。それを私は少し観点を変えて、智慧の眼で、「見聞し、体験すること」を見聞し、体験することが、自身に安心をもたらしてくれるであろう、と読みかえてみた。そこで智慧の眼とは何か、ということになるが、その一つは釈尊の教えと言えるだろう。

釈尊の教えのみならず、いろいろと人生を導いてくれる灯りはある。イエス様の教え、多くの祖師の教え、宇宙の真理に目覚める眼が智慧の眼と言えよう。その眼で見聞、体験するということなのだから、実はだいそれたことを私は言っているかもしれない。

少し身近に引き寄せて智慧を解釈させてもらって言えば、他人も自分も大切に、我を張らず、もう少し人のお役に立って、もう少し真剣に学んで、この人生に感謝して、歩んでいきたいと願う。

昨日は還暦を、尊敬する師や友人に祝って頂いて勿体ない思いがした。終戦の翌年、団塊の世代といわれる人々の前年に生まれた人がこのブログを読んで下さっていたら、共に祝いましょう。新たなる一歩を歩むことを許される年まで生きたことを(勿論全ての人に新たなる一歩を歩み直すことは許されてあるのだが、まあ、今はたまたま還暦に因んで言っているとお受け取り下さい。)そして智慧の眼で生きていきましょう。という本人は、いつも反省することしきりの日々なのですが。賢者の真似をして生きれば、いつか賢者になれる。賢者をあがめ奉って見ているだけでは駄目ですからね。

*『大智度論の物語』三枝充悳著 第三文明社 昭和48年10月初版

*智慧とは通俗的にはかしこさも意味するが、『大智度論』で言うところの智慧は、悟りを完成する働き、真理を見極める認識力(『仏教語大辞典』)を意味しているだろう。


一人の女性から500人以上の子孫

2006-12-12 17:05:06 | Weblog
12月12日(火)曇り【一人の女性から500人以上の子孫】

 【ニューヨーク=大塚隆一】AP通信によると、ギネスブックで長寿世界一と認定されていた米国人女性エリザベス・ボールデンさんが11日、500人以上の子孫を残しテネシー州メンフィスの介護施設で死去した。 

116歳だった。2年前に脳卒中を起こして以来、ほとんど眠ったままだったという。

 1890年に解放奴隷の子として生まれた。1908年に結婚し、7人の子供をもうけた。このうち今も生存しているのは2人。また、今年8月に116歳の誕生日を迎えた時点で、孫が40人、ひ孫が75人、ひ孫の子(玄孫)が150人、ひ孫の子の子(来孫)が220人、ひ孫の子の子の子(昆孫)が75人いたという。


この記事を目にしまして、「風月庵だより」にご訪問下さる方に、是非お知らせしたいと思い、コピーしました。

一人の母から、567人もの子孫が自分の生存中にこの世に生まれたとは、なんと驚嘆すべきことでしょう。これほどの人類の子孫をこの世に残して下さったボールデンさんに心より敬意を表し、ご冥福を祈ります。

私のようにただの一人も産めなかった者にとっては、このような方が存在して下さったことはひたすらに感謝です。この歳になって思うことは、人類という生物としての自分の役割は、子孫を残すことであったと痛感しています。

まだ間に合う人はどうぞ頑張って下さい。大変でしょうが。

歯医者さんに行きましょう

2006-12-11 20:21:35 | Weblog

12月11日(月)晴れ【歯医者さんに行きましょう】

あまりに歯が痛くなったので、かかりつけの歯医者さんに電話をしたところいつもの先生はお辞めになったという。どうしようかと思いながら、郵便局に行く途中で、近所に開店したばかりのデンタル・クリニックがあったので、思い切ってその扉を開けた。

今まで歯には注意をし、よく磨き、まめに定期治療に歯医者さんにも行っていたつもりだったのだが、考えてみれば、時々痛んでいた奥歯を気にしながらも、そのうちにと思いながら二年間が経っていた。その結果は。

28本健在であった自分の歯を一本抜かなくてはならないという状態になっていた。見せて貰ったレントゲンにきちんと整列した27本の歯と歯茎の中に収まっている歯の根がある。しかし唯一奥歯の一本は歯の根本も少しかけていて、本来骨があるという部分は浸食されたように上のほうに円を描いた線が見える。またその奥の親知らずのあったところが化膿しているのがわかる別の口腔内写真も見せて貰った。

さらにその部分だけのレントゲンを撮ってみて、先生のくだされた見解は、奥歯に破折線が入っていて、その部分から細菌が入り、それによって破骨細胞が増殖してしまい、骨が溶けてしまっているのだという。(この骨というのは歯槽骨という骨であろうか?)

これは抜歯してしかるべき処置をするしか方法がないということで、私も諦めた。しかし残念。今まで歯には注意していたつもりなのだが、いつかそのうちに歯医者さんに行かねば、と思いつつ、そのうち行けばなんとかなるだろう、という考えは実に安易な考えであった。私の行きつけの歯医者さんは土、日休みなので、勤めていると、なかなか時間もとれなかったのだが、言い訳無用。大事な歯を抜かねばならないことになってしまった。

母は根が残っていれば、歯は絶対に抜かない方が良い、と常々言っている。そして一本残っている歯を実に大事にしているのだが、脳裏にその言葉が浮かんだ。しかし専門的知識が無いし、レントゲンの状態から見て、やはりこれは抜くしかないだろう。そう決める決め手はやはりその歯医者さんが信頼を置けそうである、ということになる。今では大変にその先生はインプラントを勧めたいために丁寧な治療を放棄したと思っています。お金儲けが先に立ったお医者さんには気を付けましょう。

抜いてしまえば、二度と生えてこない歯であることを、この時ほど再認識したことはない。忙しさにかまけて、大事なことを後回しにしていたことを後悔した。歯医者さんに行きさえすれば解決すると安易に思っていたことを後悔した。いくら後悔しても「後悔先に立たず!」

皆さん、歯医者さんには痛いと思ったら、すぐに行きましょう。

*土、日も休まず、夜の10時までやっている歯医者さんもあります。近所の歯医者さんはそのような診療時間をとっています。今日も仕事の帰りに寄ることができます。