3月31日(月)雨【衆生病むが故に】(祖師谷公園・ワシントン桜:ポトマック河畔より日本に里帰りした桜)
三月も今日で幕引き、今月もいろいろなことのあった月でした。なかなか書けませんでしたが、ご訪問くださる皆様には申し訳ありません。
幼少期少し苦労がありましたので、若い頃は、世の中はだんだんに良くなっているのだと思っていました。また修行時代はテレビも新聞も読む時間はありませんでしたし、世の中の動きは、あまり分かりませんでした。しかし、世の中のニュースを目にするようになって、世の中は悪いままか、もしくは益々悪くなっていることが多いと実感をしています。だんだんに世の中は良くなる、という幻想を抱いていた認識不足を恥じるばかりです。
チベット問題にしても、ビルマのことにしても益々状況は悲惨になっています。今も自由を願う一市民がこの地球の上で殺戮されていることでしょう。イラクでもイスラエルでもアフリカでもアフガニスタンでも。
また家族が家族を殺すような悲劇は、ほんの少し前の日本ではほとんどなかったのではないでしょうか。また誰でもよいから殺すなどということは、考えられないことでした。ホームから突き落とされて突然殺されてしまうことなど、誰が自分の身に起きると想像することができたでしょうか。
「世の中はだんだんに悪くなるな」「人間はだんだんに悪くなるな」と師匠が言われた言葉が妙に脳裡に残っています。癡や有愛は一番人間の欲望として根源的であり、お金や権力に執着したりすることは、釈尊の時代も、その後も、今も、少しも変わってはいないことをあらためて認識している日々です。『維摩経』の「衆生病むが故に我病む」という言葉を、以前は維摩居士という方はさすがに深く悟った方だから、人々の病いさえ引き受けていらっしゃる、と他人事と思っていましたが、自分への言葉でもあると痛感しているこの頃です。
僧侶には自分の幸せとか、不幸せとか問題外であること。自分が楽しく生きるということも問題外であること。楽しめることなどは本当はできないのだとあらためて思う日々です。
維摩詰言く、「癡ちと有愛うあいとより則ち我が病生ず。一切衆生病めるを以て,是の故に我病む。若し一切衆生の病滅すれば則ち我が病滅せん。(中略)衆生病むときは則ち菩薩も病み,衆生病愈いゆれば,菩薩も亦愈ゆ。又「是の疾,何所に因りてか起れるや」と言わば「菩薩の病は,大悲を以て起れるなり。」と。(『維摩詰経』巻中「文殊師利問疾品第五」)
維摩詰言「従癡有愛,則我病生。以一切衆生病,是故我病。若一切衆生病滅,則我病滅。(中略)衆生病則菩薩病,衆生病愈,菩薩亦愈。又言是疾,何所因起。菩薩病者,以大悲起。」
*癡:ものの道理のわからぬこと。迷いのはたらき。愚かさ。無知。(中村元著『仏教語大辞典」)
*有愛:生存に対する執着。もろもろの渇愛。物に対する執着の心。(同上)
法事の席で、わずか2歳の童子にでも、その子に向けて法話をしていますが、それぞれがなにかできることを勤めて、世界を支えていこうではありませんか。希望を捨てず。
*この頃は一ヶ月に一回ぐらいしかログをUPしませんが、まだ継続しようと思いますので、たまにご訪問頂ければ幸甚です
三月も今日で幕引き、今月もいろいろなことのあった月でした。なかなか書けませんでしたが、ご訪問くださる皆様には申し訳ありません。
幼少期少し苦労がありましたので、若い頃は、世の中はだんだんに良くなっているのだと思っていました。また修行時代はテレビも新聞も読む時間はありませんでしたし、世の中の動きは、あまり分かりませんでした。しかし、世の中のニュースを目にするようになって、世の中は悪いままか、もしくは益々悪くなっていることが多いと実感をしています。だんだんに世の中は良くなる、という幻想を抱いていた認識不足を恥じるばかりです。
チベット問題にしても、ビルマのことにしても益々状況は悲惨になっています。今も自由を願う一市民がこの地球の上で殺戮されていることでしょう。イラクでもイスラエルでもアフリカでもアフガニスタンでも。
また家族が家族を殺すような悲劇は、ほんの少し前の日本ではほとんどなかったのではないでしょうか。また誰でもよいから殺すなどということは、考えられないことでした。ホームから突き落とされて突然殺されてしまうことなど、誰が自分の身に起きると想像することができたでしょうか。
「世の中はだんだんに悪くなるな」「人間はだんだんに悪くなるな」と師匠が言われた言葉が妙に脳裡に残っています。癡や有愛は一番人間の欲望として根源的であり、お金や権力に執着したりすることは、釈尊の時代も、その後も、今も、少しも変わってはいないことをあらためて認識している日々です。『維摩経』の「衆生病むが故に我病む」という言葉を、以前は維摩居士という方はさすがに深く悟った方だから、人々の病いさえ引き受けていらっしゃる、と他人事と思っていましたが、自分への言葉でもあると痛感しているこの頃です。
僧侶には自分の幸せとか、不幸せとか問題外であること。自分が楽しく生きるということも問題外であること。楽しめることなどは本当はできないのだとあらためて思う日々です。
維摩詰言く、「癡ちと有愛うあいとより則ち我が病生ず。一切衆生病めるを以て,是の故に我病む。若し一切衆生の病滅すれば則ち我が病滅せん。(中略)衆生病むときは則ち菩薩も病み,衆生病愈いゆれば,菩薩も亦愈ゆ。又「是の疾,何所に因りてか起れるや」と言わば「菩薩の病は,大悲を以て起れるなり。」と。(『維摩詰経』巻中「文殊師利問疾品第五」)
維摩詰言「従癡有愛,則我病生。以一切衆生病,是故我病。若一切衆生病滅,則我病滅。(中略)衆生病則菩薩病,衆生病愈,菩薩亦愈。又言是疾,何所因起。菩薩病者,以大悲起。」
*癡:ものの道理のわからぬこと。迷いのはたらき。愚かさ。無知。(中村元著『仏教語大辞典」)
*有愛:生存に対する執着。もろもろの渇愛。物に対する執着の心。(同上)
法事の席で、わずか2歳の童子にでも、その子に向けて法話をしていますが、それぞれがなにかできることを勤めて、世界を支えていこうではありませんか。希望を捨てず。
*この頃は一ヶ月に一回ぐらいしかログをUPしませんが、まだ継続しようと思いますので、たまにご訪問頂ければ幸甚です