風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

『明日への遺言』を観て

2008-04-28 18:57:22 | Weblog
4月28日(月)晴れ【『明日への遺言』を観て】

小泉堯史監督の『明日への遺言』を王子シネマで観てきた。
私は、決して戦争を認めているわけでも、アメリカ兵を処刑したことを認めているわけではない。しかし、軍国主義という十把一絡げの扱いで、人間としての尊厳を持って生きた岡田さんのような気骨有る立派な人物を、簡単に葬り去り、忘れてはならないと痛感したのである。現在の日本の政治家や、恥を忘れた同朋を見るとき、この映画の岡田さんのような方の存在を、あらためて見直す必要があるのではないかと強く思ったのである。(政治家だけではなく、他人のことを言うよりも、自分自身も反省することは多い)

この映画は、1937年、スペイン・ゲルニカでのドイツ軍による無差別爆撃を描いたピカソの「ゲルニカ」の映像ではじまった。

元東海軍司令官・岡田資たすく中将(藤田まこと)は、B級戦犯として、軍事法廷にかけられた。それは名古屋を空襲し、一般民衆を無差別に爆撃した米軍機搭乗員38名を処刑した罪を問われたものであった。38名は、無差別爆撃をした航空機が墜落する際に、落下傘で降下した搭乗員たちである。無差別爆撃は1923年のオランダ・ハーグの「戦時法規改正委員会」で「爆撃は軍事的目標に対して行われた場合に限り適法である」というルールに反したことである。終戦間近い、1945年2月19日、東京大空襲を皮切りに、名古屋には38回に及ぶ爆撃が繰り返されたという。司令系統も混乱していたこの時期、岡田中将は東海地方で捕縛したこれら爆撃機の搭乗員を、戦犯として、処罰する命令を下したのである。

敗戦を迎え、GHQの指揮の下、元日本陸軍省法務局長や元法務官の自己保身だけに汲々とした者たちによって作り上げられた調書によって、岡田中将や、その司令下にあった軍人たちは、裁判にかけられることとなった。

岡田中将は揺るぎない信念を持って、無差別爆撃は違法であること、正式な軍事裁判にかけず、略式手続きによって、38名を処刑したことは、爆撃に継ぐ爆撃と、混乱のなかで避けられなかったこと、そして、責任は全て司令官である自分にあり、部下は命令に従っただけであることを主張した。後に、岡田中将のお陰で、部下は全員死刑を免れたのである。

岡田中将の弁護人フェザーストーンはアメリカ人であったが、被告の利益のために尽力する。検察官バーネットの質問に対して、岡田中将は、一切の責任は自分にあるとする軍人としての潔い応戦、また、保身は一切無いが、無差別爆撃に対して一歩も譲ることのない抗議、この法廷闘争の姿に、人間としての尊厳を感じ、私は本当に感動した。

スガモ・プリズンにあって、部下たちとの入浴シーンがあるが、そこで、岡田中将は「うさぎ追いしかの川」と「故郷」を歌い出す。部下たちもともにそれに和すシーンは、「ビルマの竪琴」で「埴生の宿」を歌うシーンを思い出す。これは事実であったかは知らないが、胸に迫るものがあった。部下たちにも死刑の判決がくだることは充分に考えられ得る軍事法廷ではあるが、岡田中将の毅然とした法廷でのやりとりと、全て自分の責任と、明白に宣言している上官に対しての信頼が、「故郷」の合唱に表されていた。

また、裁判を怖れる部下たちを励まして岡田中将が勧めたことは、「坐禅」であった。これは全く私は予期しない場面であったので、坐禅を大事としている禅宗の一員として、実は一番驚いたシーンであった。しかし、その後で「南無妙法蓮華経」と唱えたことには違和感があったが、これは20歳のとき、辻説法をしていた日蓮宗の僧侶と出会い、日蓮宗信仰を始めたことの影響であったと、パンフレットを読んでから知った。死刑を下された戦犯の青年たちと『法華経』の「如来壽量品」を唱えていたシーンもあった。また死刑を受ける怖ろしさに負けそうな者に対して、必ず坐禅で勝ち抜くこと、丹田に気力を集中させるのだ、とはげますシーンもあり、一人で坐禅をするシーンもあり、岡田中将の日蓮宗信仰は、坐禅とあわさった独自のものであったのではないかと思う。

処刑された38名の搭乗員たちも、上からの命令に従っての空爆であり、また彼等にもその死を悲しむ家族があることは、忘れてはならないことであり、果たして岡田中将が下した処刑の判断が必ずしも正しかったとは言えまい。本人もそのように映画のなかで、たしか答えていたと思う。

戦争という非人道的な異常事態の中で、とっさに下さなくてはならない判断に過ちが無いとは言えない。しかし、それを為してしまった以上、それから逃げることなく、真っ直ぐに受けとめなくてはならなかった一軍人の潔い生き様から、現代の平和な時代を生きられる人間が学ぶべきことは多々ある。私にはある。

特定の宗教団体に利用されることは、岡田中将の意図しないものであると私は思う。監督も意図していないだろう。死に向かうとき、岡田中将が獄中の部下に残した言葉は「真に世界の平和に貢献できるよう」「自ら恥ない行動ができるような」人間として生きて欲しいことであった。これは岡田中将その人の願いであり、この映画のメッセージであろう。

岡田中将が独房で、王翰おうかん(687~726)の「涼州詞」を吟じるのは、絞首刑の判決を受けた後であろうか。

葡萄美酒夜光杯    (葡萄の美酒夜光の杯
欲飲琵琶馬上催    (飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
酔臥沙上君莫笑    (酔うて沙上に臥す、君笑うこと莫れ
古来征戦幾人回    (古来征戦幾人か回かえ


「死と向き合っている我々はなんなのか。心と行いを見つめて生きることだ」というような台詞があった。
「できうる限り仏に近づくこと」判決後、執行を待つ間の言葉。
「業力思念を持ってお守りする」と残した家族への言葉。
死刑の判決に「本望である」の一言。
「一点の曇りなき青空のような気持ち」

1949年9月17日処刑される。享年60歳

ほとんど実話をもとにしてある映画のようで、岡田資という実在の人物の生き方に感動すると共に、それを演じきった藤田まことがあり、監督はじめスタッフ、キャストによる、この映画自体の素晴らしさに感動を覚えました。

原作:大岡昇平『ながい旅』(角川文庫)
資料:岡田資『毒箭』(復刻版、隆文館)



107命に

2008-04-25 22:51:11 | Weblog
4月25日(金)晴れ【107命に】

尼崎の福知山線脱線事故から3年、悪夢のようなあの日の朝。一瞬にして失われてしまった命。一人一人に有った人生。一人一人に有った夢。あのとき、列車の中でそれは閉じてしまった。一人一人に有った家族。一人一人に有った友人たちはどんなにか悲しい思いで、見送ったことだろうか。

あのような事故が二度と起きないように、願うばかり。

でも両脚を失っても、頑張って生きていってくれる青年のいることは、107人の夢となっているかもしれない。リハビリに取り組んで、だんだんに体が動くようになっていってくれている人のいることは、107人の願いかもしれない。そして、自分も体が思うようにならなくても、体の不自由な人たちにも使い安い陶器を創りたいと、前向きに生きる女性の姿は、107人の希望かもしれない。

ご冥福を祈るばかりのこの日です。

はざまの無事

2008-04-21 21:15:10 | Weblog
4月21日(月)晴れ【はざまの無事】

今日は、昭和女子大学オープンカレッジの、写経教室の講師として勤めさせてもらってきました。30分ほどは法話の時間を頂いているので、なにかしら仏教に関するお話をさせてもらっています。ときに経典についてであったり、禅語についてであったり、『般若心経』の解説であったり、と自身の勉強をさせてもらっているのですが、今日もつくづくこのような機会を有り難いと思いました。

話を聞いてくれる人がいて、その相手の方々によって、話は引き出されるものだと痛感します。話している中で、自分から出てくる言葉ではあっても、その言葉に教えられることがよくあります。自分の言葉によって、自分が教えられるという現象です。

その内容はその時生きている言葉なので、それはここには留めませんが、その時、こうも思いました。こうして平穏な中で時を過ごせる機会は、なんでもないようでいて有り難い(稀有という意味の)ことなのだと思ったのです。

世の中にはまことに呆れるほどいろいろな事件が起きています。人間として信じがたいような事件も本当に多く、テレビで流されるニュースに耳目を疑うこともしばしばです。ホームから突き落とされたり、突然に部屋からさらわれしまったり、歩いていて突然に刺し殺されてしまったり、いつ思いがけない危険に遭遇するかわかりません。実は誰しもあやうい狭間はざまで、一見無事なひとときを送らせてもらっているのだ、とふと思うのです。

原爆が落とされたとき、光線の間にたまたま居たので、全くダメージを受けなかったという人が、知り合いに二人います。なんという危うい狭間の無事でしょうか。

明日はいよいよ、光市で起きてしまった事件の判決が下される日ですね。どのような判決がくだされるのでしょうか。

平穏であるべき家族に起きた突然の悲劇。それは他人事ではなく、いつ自分の身に起きても不思議ではありません。もし今平穏に無事に暮らしているようであっても、それはたまたま危ういはざまのものでしかないのではないでしょうか。お互いに他人事ではなく、この事件についても見守りたいものです。

林芙美子の家

2008-04-20 22:47:16 | Weblog
4 月20日(日)曇り【林芙美子の家】 今日は新宿の下落合にある林芙美子の家に立ち寄ることができた。林芙美子は、ほとんどの方はご存じであろうが、昭和のはじめに活躍した小説家である。昭和 5年に発表した『放浪記』は、ベストセラーとなり、一躍女流文学者として世に出たのである。このとき芙美子27歳である。 23歳のとき、画家の手塚緑敏と結婚しているので、4年後にはベストセラー作家として既に世に認められるところとなっている。悲惨な貧乏生活を描いた作品 を読んだ記憶があるが、それはそれほど長い期間ではなかったようである。 林芙美子が下落合に作った家が、今は林芙美子 記念館として、公開されている。

       実は私は中学時代、西落合というところに住んでいて、この家の門を覗いたことがある。有名な小説家が住んでいた家であると いうので、憧れて覗いたのである。その頃は緑敏氏が存命であったので、勿論公開はされていなかったので、格子戸の門の間から覗いただけのことであるが、た またま今日前を通ったら、記念館として入館できるようなので、足を踏み入れることができた のである。 (書斎)    芙美子が200冊以上もの建築の本を参考にして、図面をつくったという家だけあって、どの部屋も行き届いたかつてのこれぞ日本家屋という造りをなしてい た。山口文象という人の設計だというが、数寄屋造りとはこのような造りなのかと、あらためて風情のある造りに惚れ惚れとした思いで飽かず眺めた。芙美子が いかにこの家を愛情こめて造ったか、庭の花や植木やそれこそ石一つにもそれが感じられた。

 それこそ心血を注いで造ったようなこの家に、芙美子が住むことができたのは、38歳から48歳の6月までのわずか10年に満たない。昭和26年6月28 日、心臓麻痺で亡くなったのである。連載を何本もかかえ、寝る間も惜しんで原稿書きに追われ、今で言えば過労死に当たる死ではなかろうか。        養 子に迎えた泰少年も芙美子の死後まもなく14歳で一期を終えている。ご主人の緑敏氏は平成になってからお亡くなりになったそうである。

 皆さんも是非一度記念館を訪れてみてください。入館料は150円です。また親切なボランティアのかたの説明も受けることができます。今日は思いがけず、ほ ぼ50年も前にその家を興味深く覗いた家の中に入ることができ、作家の息吹にちょっとだけ触れることができ、また日本の家屋の良さをあらためて堪能したこ とを紹介しました。

 林芙美子記念館:西武新宿線「中井」下車、徒歩7分。月曜休館

老犬ジュリー

2008-04-15 22:04:00 | Weblog
4月15日(火)晴れ、気温20度【老犬ジュリー】

近所にジュリーという名の犬がいます。仕事から帰ってくると、私にも一年前くらいまでは、よく「ワン、ワン、ウーワンワン」と吠えていました。誰にでも通りがかる人にはよく吠えていました。感心な番犬です。

でもいつも「こんばんは、ただいま」と声をかけ続けているうちに、私には吠えなくなりました。「こんばんは、ただいま」というと「ワン」とだけ一声。「おかえりなさい」といってくれているようです。ジュリーに挨拶をするのが、家に帰ってくる私の楽しみになりました。

あるとき、この家の人に出会えて、「ジュリー」という名前であると教えて貰いました。それからは「ジュリー、ただいま」と声をかけます。「ワン」とジュリー。ジュリーの姿が見えないときは、寂しい感じがするほどです。散歩か犬小屋に入っているのかもしれません。

でもこの頃は毛が抜けてきて、弱々しくなってきたので、心配していましたが、ある日コンクリの上に寝ころんでいました。「どうしたの、ジュリー」と声をかけても起きあがりません。どうも起きあがれないようです。

昨日、大きなタオルに包まれて寝ころんでいるジュリーの姿がありました。やはり、ついに起きあがれなくなってしまったようです。「ジュリー、お大事にね。お大事にね」と声をかけました。今朝も「ジュリー、元気だしてね、お大事にね」と声をかけますと、首をもたげて答えようとするので、「ジュリー、疲れるから首をあげなくていいよ」といっても一生懸命首を起こそうとしてくれます。

今ジュリーは老体を、ただ静かに横たえています。番犬として通りがかりの者によく吠えていたジュリー。話しかけると「ワン」と答えてくれていたジュリー。ジュリーはもう吠えることもできません。

「ジュリー、お大事にね」


両手に荷物は持たないで

2008-04-12 20:11:41 | Weblog
4月12日(土)曇り【両手に荷物は持たないで】(バタッと転んだような雲たち)

久しぶりにログを書きます。実は今日初めてカエルのように転びました。バタッと転びました。左手にお塔婆数本、右手に法衣の入った重い鞄を持って、車から数歩歩いたところで、それは起きました。ほんの一センチくらいアスファルトが隆起したところがあって、それにつまずいてしまったのです。先ず左の手の甲を強く打ちました。それから顔を打ち付けるまでに、スローモーションのように感じる時間の間があって、「あ、顔を打つ」と思いましたが、それを止めることができませんでした。

白衣と改良衣を着た姿で、バタッと転んだのです。どうして顔がアスファルトに打ち付けられるのを止められなかったのか。それは、両手がふさがっていたからです。
皆さん、両手に荷物を持つのはやめましょう。若い人は敏捷に転べるでしょうが、歳と共に敏捷さが欠けてきますから、気をつけましょう。

左手の甲は真っ青になり、血も出ました。それより顔はどうなったでしょう。鼻を打たなかったのは幸いでした。これ以上低くなってはたまりません。手洗いの鏡を見たら、左の頬骨を中心に擦り傷と青あざができています。

それでもなんとか、無事に法事はつとめました。そして、帰るとき、私は治療をしました。近くの草むらからヨモギと大きめの葉をとりまして、それを顔に貼り付けタオルで顔を縛りました。対向車の人はおかしかったと思いますが、打ち身は早い手当が大事です。運転できるようにして、手にも草を巻きました。そして、法事先で頂いた氷で赤信号の度に冷やしました。

そして家に帰ってから、生ロイヤルゼリーをべったり塗って処置をしました。
以上、転倒と処置の報告です。
久しぶりのログがこんな事で恐縮ですが、なんだか自分がバタッと転んだことが、私にとって一大事なので書かせていただきました。皆さんもくれぐれも両手に荷物は持たないようにして下さい。だいぶ腫れもひいてきましたので、この程度でよかったです。このところなんだか忙しいのと、目が疲れていまして、ログは怠けていてすみませんが、元気です。皆さんもどうぞご機嫌よう。

桜は散りましたね。