10月21日(金)曇り後雨【宗教の風光 (七)落ちこぼれなし】
ようやく原稿が書き上がりました。バンザイです。来週曹洞宗総合研究センターの学術大会があります。発表する予定で申し込んだのですが、どうも思うように研究できず、発表とりやめしようかとさえ思ったのです。しかし、諦めないことだと思い直し、しぶとく頑張ってこのところ取り組んでいました。
論文発表する以上は、先人の研究にはないことが発表できなくては意味がありません。しかし、どうも申し込んだ時の推論が成り立たないので、思い悩んでいました。しかし、しかし、です。一つ今までの発表にはなかったことに辿り着いたのです。前々からの研究過程で気になっていたことがあり、思いがけない角度で今回の発表と結びつくことができました。それはそれは、重箱の隅をほじるようなことではあるのですが、これでなんとか論文として発表させてもらえるのではないかと喜んでいます。
こんな個人的なことで恐縮ですが、このところブログも書けませんでしたので、今日は晴れ晴れとパソコンに向かっています。本師の著作から、「宗教の風光」の言葉が使われている箇所を紹介させて頂きます。本師の書かれていることは、あえて宗教の風光と書かれていなくても、実はすべて宗教の風光なのですが。
「『普勧坐禅儀』という題は、遍く坐禅のすがた、やり方を勧めるということである。遍く勧めるというのは文字どおり、すべての人々にということであり、特別の人たちのためではないことである。一人の除外例もなく、すべての人にということであり、宗教の風光においては、一人のおちこぼれもないことの端的な表現である。そして、そのことの至極の意味において、坐禅は坐臥にかかわらぬということでもある。
『普勧坐禅儀』の冒頭の御文は、「原(たず)ぬるに夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いかで)か修証を仮らん、(以下略)」
道本円通というのは、道本(天地のいのち)が一切のものに円(まど)かに通じているとある。されば大地有情一切のものは、余ることなく、欠けることなく、過不足なき全き存在としてあるということである。」(『宗教の風光』61頁)
★たまたまですが、今回の発表は、私も落ちこぼれるところでしたが、なんとか発表できそうです。しかし、たとえ発表できなくても、落ちこぼれはなし、というのが安心の世界でしょう。
十月もあと十日ほどで終わりです。いつのまにか寒い日さえあります。皆さま、どうぞ風邪にはご用心なさってください。