風月庵だより

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デジャビュ

2009-04-29 22:26:21 | Weblog
4月29日(水)晴れ【デジャビュ】(そういうこともあるわね)

今週の日曜日、ある家の法事に伺った時のこと。この家のご主人とも子どもさんとも前に会ったことがあると思ったのですが、初めてですと言われました。尼僧は珍しいので、この家の主人の記憶に間違いはないでしょうが、法事が始まって、ご遺族がお焼香をする姿も、法話の間、涙を流される様子も、やはり以前にこのようなことがあった筈、という感じを拭えませんでした。

ごくたまにこういう感じを受けることがあります。こういう感じを、既視感、デジャブというのだそうですね。誰にでもあるようですが、妙な感じがしますね。

ささくれリア王

2009-04-29 21:49:24 | Weblog
4月29日(水)晴れ【ささくれリア王】

久しぶりに演劇を観に行ってきました。「ささくれリア王」という題の演劇です。この作・演出は阿藤智恵さんという方です。私が講師を勤める写経教室を受講してくれていました。ご案内をいただきましたが、この頃は、母が寝込んでいますのでどうしようかと思いましたが、キャストの中に、古い友人の名前を見つけたこともあり、思いきって出かけてきました。

古い友人の名は、外波山文明という役者さんです。花園神社で野外劇を若い頃からやっていましたが、今でも続けているそうで、今年の7月11日から21日まで花園神社で公演するそうです。彼も、じっくりと好きなことをやり続けてきた人の一人です。(僭越ながら、私もじっくりと好きな道を歩いています。)

そのじっくりと芝居をやり続けてきた役者さんと、彼が率いる椿組の役者さんたち、そして若い新進の演出家とで作り上げた舞台の楽しかったこと。

ストーリーを紹介するのはやめておきますが、2時間の芝居が、あまりの楽しさに、時のたつのを忘れていました。

もう今日で公演は終わりなので、皆さんにお勧めできないのが残念ですが、皆さんも機会がありましたら、阿藤智恵さんの次の公演をご紹介しておきますので、足をお運びください。

別役実VS阿藤智恵 PART-Ⅱ
  「死んだ女」(作・演出=阿藤智恵)
   6月25日、26日、7月1日、2日ー19時開演
   6月27日、30日、7月3日ーーーー14時開演
   於:西池袋・スタジオP(03-6808-5306)

歌姫スーザン・ボイル

2009-04-23 21:45:25 | Weblog
4月23日(木)晴れ、暑いですね【歌姫スーザン・ボイル】(この写真は他からコピーさせて頂きました。借用に問題がありましたら、コメントしてくださいませ。この方がスーザンさんです)

皆さんは、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんが歌っているユーチューブ配信を観ましたか。私はユーチューブというものがよく分かりませんし、自分で初めてアクセスして観てみました。

イギリスの歌手のスター誕生番組のようですが、このオーディションにスーザンさんは出演しました。審査員の音楽プロデューサーたちは、スーザンさんが舞台に出てきた様子に、すでに心の中で、なんだろうかこのおばさんは、という印象を持ったかもしれません。スーザンの外見は、着ているものも野暮ったい地味なワンピースです。そして、体も寸胴の顎も二重顎になっている太めのスタイルです。容貌も、どちらかといえば色気はまるで感じられないいかつい感じです。ご自分でも「キスされたこともありません」と言っていました。

でもどこか憎めないおばさんといった雰囲気があります。審査員が年齢を聞きますと、「47歳」と答えました。この番組は、若い人たちがプロの歌手になることを夢見て出演する番組でしょうから、その年齢もすでにかなり基準からはずれています。何になりたいのか、と尋ねられ、「プロの歌手です。」と答えます。どのような歌手になりたいのかと聞かれると、「エレイン・ペイジ」と答えます。審査員ならずとも、おそらく全ての聴衆も、大歌手の名を臆面もなく口にするスーザンに失笑し呆れ果てます。なぜ今まで実現しなかったのか、と問われて「今までチャンスがなかったのです。これがきっとチャンスだと思うわ」とスーザンは答えました。

イギリスの田舎町で、母親の面倒を見ながら、教会のボランティアワーカーの仕事をして、今まで生きてきたスーザン、今は猫のペブルスと暮らしているのだそうです。歌は12歳からはじめて、47歳のこの日、晴れて多くの聴衆を前に自分の歌声を披露することができるのです。2年前に亡くなった母親と、いつかテレビに出演することを約束したのだそうです。

何を歌うの?「レ・ミゼラブルの"I dream a dream(夢やぶれて)"」
スーザンは音響係にサインをだします。スーザンの歌声が流れました。
一瞬、会場は驚きで包まれます。あまりにスーザンの歌声が素晴らしかったからです。そして、その歌声に、会場の人びとの全ては魅了されます。歓声を上げたいほどに心を打つ歌唱力に審査員も聴衆も酔いしれたといってもよいでしょう。そして、その歌のはかなく破れていく夢を歌った内容とは、逆の人生がスーザンを待っていることを実感するのです。

歌い終わった後、三人の審査員は、異口同音にスーザンの歌を称えて、最高の「イエス」を与えてくれたのです。スーザンのガッツポーズの素晴らしさ。気取らないこと、自然てこういうの、ということを教えてもらえます。

舞台の袖に戻ってきて、スーザンは顔を涙で濡らして言いました。「ファンタスチック(夢のようだわ)、ファンタスチック」

ビートルズを生んだイギリスから、また世界中に夢を与えてくれる歌姫が誕生したのです。

彼女の歌を聴き、彼女の人生を知ったなら、多くの人びとが生きる勇気とエネルギーをもらえるのではないでしょうか。


アインシュタインは嘆いている?

2009-04-21 13:00:16 | Weblog
4月21日(火)曇り【アインシュタインは嘆いている?】(下の畑を見ているルナ。このように「何か」が下界を見ているのだろうか?)

昨日、ある科学者の随筆を読んでいたら、次の一文に出会って、あらためて驚きをおぼえたことがあります。

「相対性理論を発表した彼の論文も実は欠陥だらけで大部分は理解不能、しかも間違いが多いので有名です。「これを書いたやつは頭が悪い」と周囲からけなされた論文で、しかし、その中のごく一部にE=mc²(エネルギー[E]と質量[m]は変換可能)という、原子爆弾開発のもととなった有名な方程式が記されている。(『アホは神の望み』松本和雄著、サンマーク出版)

アインシュタインについて書かれた箇所です。アインシュタインが学校時代落ちこぼれであったことを紹介しているわけですが、私があらためて、かなり昔の経験を思い起こして驚いたのは、「原子爆弾開発のもととなった」理論を考え出したのは、やはりアインシュタインだというところです。

私が単に霊界交渉と勝手に呼んでいる経験ですが、あるとき、「アインシュタインが、原子爆弾を自分の理論によって造り出されたことを嘆いている」というメッセージを受けとったことがあったのです。それまで、私は原子爆弾に関する知識はそれほどありませんでした。アインシュタインの理論がもとになったのか、本当かしら、私のメッセージの受け取り間違いではないかと思いました。それからアインシュタインの相対性理論が書かれている本を読みましたが、理解できませんでした。

この度、この一文にであって、またあらためて、その時のことを思い起こしたのです。やはり、アインシュタインの理論が原子爆弾のもとになったこと、間違いのないことです。どなたでもご存じのことしれませんが。

しかし、アインシュタインが死後も嘆いている、としますと、人間には死んだ後に、霊界のようなものはあるということになってしまいます。輪廻転生について、釈尊の教えとして、『雲と風と月と』に書きましたが、それは少し違います。しかし、どんなであってもやはり、生きている間、あまりあこぎなことはしないほうがよい、とあらためて思った事です。この前のログで商人僧について書きましたが、僧侶でありながら、人びとを苦しめているようなあり方は、大いに死後を心配しなくてはならないかもしれません。

今日は、和歌山毒物カレー事件の最高裁の判決が下されます。容疑者は犯行を否認していますから、真実は犯人しか知り得ないこと、とほくそ笑んでいるでしょうが、天知る、地知る、己知るです。「死んだらおしまい、生きている間だけの人生さ」と、思うことは大きな間違いだということを、全ての人は知った方がよいのではないでしょうか。

私自身、反省しなくてはならないことの大いにある人生です。洗い清めて旅立ちたいと願っています。しかし、後から後から反省すべきことがでるので、死後、さらに励まされ、懺悔して旅立つということでしょう。49日の間懺悔文を僧侶とともにとなえる意味があるのです。

*付記:帰りに、駅の売店で夕刊を買いました。毒物カレー事件の判決を読みたいと思ったのです。いつもは毎日か朝日を買うことが多いのですが、今日は、東京新聞を買いました。毒物カレー事件の判決は出ていませんでした。夕刊に間に合わなかったのでしょう。その代わりに、アインシュタインについての記事を見つけました。「放射線」というコーナーで、マイケル・ファラデーという科学者についての記事の中です。このファラデーという人は半導体、電磁誘導の法則、ベンゼンの発見などをした人だそうです。この人の苦手は数学だったそうで、アインシュタインも数学は得意とはいえず、一般相対性理論の数式化はグロスマンという友人の数学者の助けを借りたのだそうです。
こんなことを、内田麻理香先生という方が書かれていた。丁度、アインシュタインについて、私もログに書いた日なので、面白い符合なので、書き添えておきます。

僧は宗教者か商人か

2009-04-16 12:25:11 | Weblog
4月16日(木)晴れ、はや暑いです【僧は宗教者か商人か】

この頃、重い家具の移動をしたりして、足が大変に痛くなりました。その前から、ときどき痺れていたのですが、我慢していました。しかし、我慢の限界がきたので、母の治療に来てくださっている接骨院に治療を受けに行きました。

座骨神経痛だけれども、堅くなっている筋肉をほぐせば大丈夫ですよ、と安心の言葉を頂き治療してもらいましたら、お陰様で痛みがなくなりました。その後も何回か、まめに通っていますのでだいぶ良くなりました。本当に当庵のすぐ近くなので、仕事の帰りにも寄れますので、長い間苦しんできた足の痺れから解放される希望が見えます。

そんなことで、この治療院を教えてくれた人とも、治療院で時々顔を合わせます。彼女のお仕事は家政婦さんです。つい二、三日前に、お勤め先の老婦人が亡くなられたそうで、同じ僧侶としては聞きづらい話を耳にしました。すぐ近くのお寺が檀那寺だそうです。遺族が院号はいりません、と言いましたら、老婦人のご兄弟はみな院号がついているので、つけるようにと言われたというのです。それだけならまだしも、院号は180万円から200万円と言われたので、180万円持って行きましたら、「おたくのようなお金持ちが180万円ということはないでしょう」と言われたというのです。

どうでしょう。このお坊さんは戒名をお金で売っている商人ではないでしょうか。このような人は商人僧というのではないでしょうか。このような商人僧がいるから、仏教離れがおきてしまうのではないでしょうか。釈尊の教えに耳を傾けようという芽を摘んでしまうことになります。たまたま同じ宗派でなかったのですが、本当に嘆かわしいことではないでしょうか。

勿論、商人が商品を売って、儲けることは当然のことです。しかし、僧侶が戒名を法外な値段で売るようなことは大罪とさえ言えるのではないでしょうか。僧侶も霞を食べている訳ではありませんし、お寺の維持管理にもお金はかかりますから、経営は大事なことです。院号について、現在の風潮のなかで決して悪いとは申しませんが、しかし、なんでもほどほどということがあるのではないでしょうか。

この知人がさらに付け加えた言葉に本当に考えさせられました。「今は若い人が住職で、前の住職も同じように欲張りだったそうですけど、ひどい死に方をしたそうですよ。」在家の方から、このようなことを言われてしまう住職一家とは一体どのような方々なのでしょうか。弘法大師も、法孫にこのような人間が出てしまっていることを嘆いていることと思います。私もよくよく心して、道元禅師を嘆かせないようにしたいと思いながら、治療室で話を聞いていました。

「地獄の沙汰も金次第」といいますから、この住職一家は、そのために貯めているのでしょうか。地獄があるならば、そこに行かねばならないことを知っているのでしょうから。でも持って行けるはずはないのですけれど。

医は仁術か算術か

2009-04-12 12:20:22 | Weblog
4月10日(日)花曇り【医は仁術か算術か】(ルナもお花見)

花曇りというにははや桜の花は散り、気の早い木は葉桜になっています。当庵には、桜の大振りの枝を頂いたのがあり、寝ている母はまだ花を楽しんでいます。

母の足の痛みはなかなかとれないので、先日ある整形外科に連れて行きました。また高校時代の友人が運転して付き添ってくれました。その一週間前は若い先生で何もしてもらえなかったので、院長の担当日を選んで行ったのです。が、

母の体調も聞かず、母の顔も見ず、カルテに目をやりながら、院長先生は開口一番宣いました。「この位の年齢になれば、いつ死んでもおかしくないけどね……」

な、何を言い始めるのでしょう……

「入院すると、あちこち悪いところが見つかるからね、文句を言わなければ、入院させてやるけれど……」

先生、入院などと思ってもいませんよ、今の段階では。尋ねてもいませんよ、私は。

「入院すれば治してあげるけれど、通院じゃ駄目だね」と言って、レントゲンをとるように看護婦さんに命じています。

レントゲンを診て、「骨は折れてないね、それじゃMRIをとっておこう」

先生、骨は折れていないに決まっていますよ。折れていれば、痛みが普通ではないのですから、それくらいレントゲンをとらないでもわかりませんか。「MRIはこの次にしてください」と私が言いますと、「2,30分ですぐだから、今日とりますよ」と強引です。

私もそのとき、強く拒否すればよかったと後で悔やみました。この病院のMRIは両手は横に開かされて固定され、足も固定されたのでそうです。ちょうど磔状態にされてしまっていたのです。両脇の閉鎖されていないMRIなのだそうです。しかし、寝てても痛いと言っている患者を、磔状態にして、なんと40分!この状態を前もって知っていれば決して受けませんでした。

母はその後かえって状態がひどくなってしまいました。これは全く私の不注意です。介護人は一番病人の状態を知らなければなりませんし、守る責任があります。治療やら検査やらについても吟味する責任があります。その病院長を責めても仕方のないことです。

しかし、このログの前に『蘭学事始』について書きましたが、先人のご苦労によって進歩した医学が本当に人間に生かされているかどうか、首を傾げる場合もあるということを経験したことです。

*しかし、お陰様ですぐ近くの治療院の先生が、昨日往診に来てくださいまして、これから一週間に3回往診してくださることになりました。おそらく冷えて筋肉が堅くなりすぎて神経を圧迫しているのでしょう、この分でしたら気長に治療しましたら、また歩けるようになりますよ、とおっしゃってくださいました。近くですから往診料はいりません、治療代も保険が使えますから、1日150円です。ということです!本当によかったです。こんなに良い先生が、すぐ近くにいらっしゃったとは、灯台下暗しでした。

*但し、支払いが高いから悪いとか、安いから良いとは私は思っていません。

*「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。天地のうみそだて給える人をすくいたすけ、万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」(貝原益軒『養生訓』)

*「医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という。疾ありて療を求めるは、唯に、焚溺水火に求め。医は当(まさ)に仁慈の術に当たるべ。.須(すべから)く髪をひらき冠を取りても行きて、これを救うべきなり」陸宜(りくぎ)公(唐の徳宗の時代の宰相)の言葉

『蘭学事始』

2009-04-07 22:24:01 | Weblog
4月7日晴れ(火)【『蘭学事始』】(回向院の「観臓記念碑」)

先日、人権学習で浅草の回向院にお参りの機会を得ました。ここは江戸時代小塚原の処刑場があった場所です。南の刑場はご存じのように鈴ヶ森刑場です。

この小塚原で明和8年(1771年)3月に腑分け(解剖)が行われました。前野良沢・杉田玄白・中川淳庵および江戸市中の医師たちが集められて、幕府の許可の元、解剖が行われたのです。

この話は、杉田玄白が書いた『蘭学事始』という記載をもとにした一文を、中学時代の国語の授業で勉強した記憶があります。『ターヘル・アナトミア(解体新書)』という杉田玄白等が苦心して翻訳した医学書のタイトルもすぐに頭に浮かぶほど記憶に残っています。日本の蘭学がここから始まったと学んだ記憶があります。先駆者は常に苦労、いや苦労を越え辛酸を舐めて、新しい世界を切り開いているのだということを、この話から、中学時代にしっかりと学んだような気がします。

今では当たり前のことでも、初めは白眼視されたことが多いのではないでしょうか。人体の臓腑の位置を確認し、病の原因を追及するような医学も漢方医学が根付いていた時代においては異端だったことでしょう。

しかし、この腑分けによって、蘭学書『ターヘル・アナトミア』の記載の正確であることを確認した前述の3人は、『解体新書』としてこれを翻訳したのです。

この翻訳にあたり、小塚原処刑場での腑分けは最も大事な確認作業でした。この腑分けを執刀したのが「虎松の祖父」といわれる90歳の老人だったそうです。虎松さんはどうも風邪を引いてしまって執刀できなかったようです。

この虎松の祖父については、あまり知られていませんし、中学時代の教科書には出てこなかったように思いますが、高齢にもかかわらず、執刀の腕前と臓腑についての正確な知識は、杉田玄白も驚嘆したことが『蘭学事始』には書かれているようです。

処刑の手伝いをしていた当時の人びとについて多少なりともお教え頂き、江戸の生活において、差別されていた人びとが果たした役割の数々を学んだ人権学習でした。講師の浦本誉至史先生の深い歴史的な知識と、公平に時代を分析し、苦労した先人たちを労う姿勢によって、まことに深い人権学習をさせていただいた一日でした。


贖罪の科学者

2009-04-01 12:41:06 | Weblog
4月1日(水)曇り【贖罪の科学者】

昨日、アメリカの平等山禅堂慈法寺の堂頭、ベナージュ(玄俊)大円師と会いました。大円師は先輩ですが、尼僧堂で2年間共に修行した法友です。大円師は僧堂安居時代から道心堅固な方でしたが、今もその姿勢は変わることなく、アメリカでの坐禅の布教に力を尽くしています。

その大円師からとても心動かされる話を伺いました。これは皆さんにも是非お伝えしたいと思います。慈法寺の御仏像について、たまたま私がお尋ねしましたところ、慈法寺のご本尊様についてのお話を伺うことができました。

この御仏像を作られた人は、もと大学に勤めていた科学者だそうです。第二次世界大戦のとき、あるプロジェクトの一員として研究をさせられたそうです。なんのための研究であるか、先生は知らなかったのだそうです。後に、その研究が原子爆弾をつくるための一端を担い、原子爆弾がどのような惨事を招いたかということを知りました。あまりのショックに先生は、大学の職の捨て、全てを捨てて、放浪者になったのだそうです。10年間、贖罪の放浪の後にある教会の一員となり、さらなる贖罪の日々を送られているのだそうです。そして、御仏像を造ったりもしているそうで、慈法寺に寄贈してくださったのだそうです。

このようなアメリカ人もいることを知りました。この話をしながら、大円師は万感胸に迫る思いで、思わず涙を流されました。このようなアメリカ人もいることを皆さんにお伝えしたいと思い書きました。

*たしか『原爆をつくった科学者たち』という本を買った記憶がありましたので、家に帰ってから本棚を探してみました。平成2年に岩波書店から出ていて、J・ウィルソンという人が編集した本でした。ざっと目を通してみましたが、ここに書かれている12人の科学者は、マンハッタン計画のなんたるかを知っていて、原爆をつくることを科学者として成果としてみなしているような人たちのようです。それに対して、編者は科学者の社会的責任を追及しています。ある意味、告発の書ともいえましょう。マンハッタン計画から身を引いた英国のJ・ロートブラット教授の言葉を紹介しています。なぜ他の科学者たちが(自分と同様に)計画から離脱しなかったかについて「社会的良心をもつ科学者は少数派で……単なる科学的好奇心から参加した人が多かった」と書いているそうです。

核爆弾は確実に人類を滅亡に導く凶器です。それをつくりあげることに意欲を燃やした科学者とは一体どのような人々なのでしょうか。慈法寺の御仏像をつくった先生は、なんのための研究であるか知らされていなかったにも拘わらず、その結果に人間として恐れおののき、贖罪の放浪の旅に出たのです。浮浪者のようになって。

北朝鮮のテポドンにしても核を積んでいないとは限りません。人類を破滅に導く核爆弾をつくりあげた優秀な頭脳の科学者たち。一方、大円師の導きによって坐禅修行もなさる贖罪の科学者の先生。科学的な進歩は滅亡と背中合わせであることを改めて思い、静かなる退歩の道を人類は選び歩みたいと思います。