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『ぼくたちに翼があったころ』ーコルチャック先生と107人のこどもたち
《タミ・シェム=トヴ作、樋口範子訳、岡本よしろう画 2015年9月20日初版発行、福音館書店》
この物語は、今から約80年前、1934年から39年までのポーランドが舞台です。
ワルシャワの街の一角に建つ〈孤児たちの家〉には、7歳から14歳までの男女合わせて107人の子どもたちが、コルチャック先生の願う教育理念のもとで暮らしていました。
主人公ヤネクは、走るのが早く、これが彼の自慢でした。その脚を使って、盗みを数回繰り返していたある日、ただ一人の身内の姉に手放され「かけこみ所」と呼ばれる孤児院に入ります。が、そこで、自慢の脚を指導員と上級生にはめられる形で集中的に痛めつけられ、失神してしまうのです。彼はこれが元でその後、片足を引きずるようにしてしか歩けなくなってしまいました。姉にも貧困などのどうしようもない理由があるのですが・・・。
その姉が再び見つけてきたのは〈孤児たちの家〉という養護施設で、ヤヌクが入所できたのは欠員が一人できたためだったようです。ここでの生活は清潔で食事も豊かでした。また、子どもたちの自治をはじめ、それまでの施設では考えられないような実践がいくつも行われていて、その一つに子どもの法廷という場がありました。法廷といっても、訴えを申し出た者や周りの者たちが〈ゆるす〉こと、また、訴えられた者は〈謝罪〉して二度とあやまちを犯さないことこそがねらいであり、まちがいを犯したものを裁いて罰することが重要ではなかったのです。
ヤネクは姉に手放されて以来、姉への思慕と恨みとの間を揺れ動きつつ、この環境になじんでいくのですが、せっかく培った親友との友情がくずれたり、図らずも再び盗みをしたり、そのたびに深く悩み傷つくのでした。
しかし、ドクトルと呼ばれるコルチャック先生が、ヤネクの才能、記者魂のような性質を見抜き、その都度手を差し伸べます。一方で、仲間の支えも受けつつ、自信を取り戻し、自分の居場所を見つけて立ち直っていくのです。
ドクトルは、その独特の間をもった最小限の語り掛けでヤノクをはじめとする子どもたちが自分のあやまちに気付くように導いていくのです。養護施設に入所する子どもたちは多かれ少なかれ心に傷を負っています。その子どもたちが立ち直りたいと願っても、簡単にはいかないことが多いことでしょう。それでも、願いをあきらめずに試練を超えていく過程を、ドクトルは子どもの心を尊重しつつ、寛大なまなざしで見守り続けていたのです。
*** この物語は、1939年5月で終わります。そして、この4か月後、ドイツがポーランドに進行して、第二次大戦が勃発し、さらに1940年11月、コルチャック先生と子どもたちは、ワルシャワゲットーという、外部から遮断された狭い居住区に強制移住させられることになるのです。
厳しい寒さと飢餓、伝染病の蔓延、テロ、ユダヤ人同士の密告が横行する絶望的な環境の中でも、〈家〉では学習会、音楽会、演劇上演などの文化活動が行われたそうです。
1942年8月、移送命令が下り、コルチャック先生とステファ先生、指導員を含むスタッフは、ゲットーに移住してから200名にふえた子どもたちとともに、移送されることになりました。子どもたちにはピクニックに行くと伝え、ゲットーからワルシャワ・ダンツィヒ駅までの2.5キロを、緑の旗を先頭に4列で行進したそうです。
そこから、家畜用貨車に乗り込む直前、「あなただけは乗らなくていい」と、ドイツ警察を介した釈放許可証が届けられたのですが、コルチャック先生はその申し出を断り、子どもたちとともにトレブリンカ強制収容所へ送られたのでした。
コルチャック先生が、孤児の救済に立ち上がるきっかけの一つとなったのは、日露戦争の際、26歳でロシアに医師として派遣された中国の東北部(満州)で、またその後の第一次大戦の際、ウクライナ・キエフで目にした、貧困と飢餓に苦しむ戦災孤児の姿だったと言われています。
重いテーマなのにも拘わらず、一人の少年が希望を失わずに立ち直り、自分の能力を開花させていく過程が明るいのが救いであり、謎でした。
それは、物語の屋台骨である、崇高な精神の持ち主であるコルチャック先生がどんな時も希望を失わずにいられる稀有な方だったからなのかと思うのです。
また、作者が意図したように、コルチャック先生の理念の下に繰り広げられた〈孤児たちの家〉での輝かしい日々がリアルに描き出されていたからなのでしょう。
*** 以上、作者と訳者の「あとがき」を参考にさせていただきました。