小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

硫黄三島クルーズ 洋上慰霊祭に参加した娘たち

2017年09月26日 | 硫黄島
■毎年、6月実施の硫黄島訪島事業に島の中学2年生が授業として参加します。
去年、僕自身が硫黄島に行ってみて
その凄惨な戦争と爪痕と、
先の戦争がなければきっと楽園だったと確信できた上陸の2日間でした。

今年は自分の長女が中学2年となり、
硫黄島の大地に立ち、壕に入り、肌で硫黄島を感じるはずでした。

しかし、5月当初は20年に一度の渇水で硫黄島での受け入れが困難であると言われ、
その後大雨で渇水が回復した後は、
今の硫黄島沖の係留ブイが新おがさわら丸の重量に耐えられないということが判明し、
今年の硫黄島訪島事業は中止となりました。
(係留ブイの事は実は去年の就航前から言われていることでした)。

■そこで、今年は異例中の異例で、
9月の硫黄三島クルーズに中学生も乗船し、
硫黄島沖で洋上慰霊祭を実施することになりました。

当初は上陸できないことに本当に残念に感じていましたが、
普段の中学生がほぼ行かない北硫黄島、南硫黄島を見る絶好のチャンスとも思え、
さらに母島から硫黄島に行くには前後2泊を父島で過ごすので、
その空いた時間を、素晴らしい情熱の戦跡ガイド「板長」に父島の戦跡などを案内してもらい、
小笠原高校の体験授業を受ける機会にもなりました。
これはこれで良かったと思います。

■朝早くからの南硫黄島の周遊を終えて、いよいよ硫黄島です。

相変わらず美しいプロポーションを誇っています。
有名な星条旗を掲げられたすり鉢山を望み、
おが丸の最上部のデッキを一般封鎖して、
洋上慰霊祭が始まりました。

村長の言葉、
献花を行い、
父島、母島各2名ずつ戦没者に向けて言葉を贈ります。
(母島の中学2年生は2名しかいないので、全員です!)

長女も精一杯、ここまで学習したことを胸に、
スピーチしていました。
立派だったと思います。

おが丸の上は風が強く、
しかし暑い状況でした。

しかし、戦争中に壕に潜んでいた兵隊たちは、
こんなさわやかな風を感じることなく、
熱い壕の中で潜み、
喉の渇きを訴えながら亡くなって逝ったのです。

例年の訪島事業同様、
戦時中に硫黄島に来た少年兵が故郷を想って歌った歌、
「故郷の廃家」が合唱されました。

少年兵が故郷を想って歌っている姿を見て、
大人たちは無情な戦争に青春真っ盛りの
少年たちを巻き込んだことを悔やんだと言います。

去年、この曲を知らずに訪島事業に参加して、
満足に歌えなかったことを悔やんだので、
自分も含め、中学校にはしっかり予習するようにお願いしました。

今年は子ども達もちゃんと声を出していて、
自分達と同じ年齢で亡くなって逝った少年兵に弔えたかと思います。


■今回、帰りのはは丸の中で妻が硫黄島協会の方に話を聞く機会があり、
沢山の知らなかった事実を教えて頂きました。
北硫黄島には27柱のご遺骨が今も残っていて、収拾が進んでいないこと。
硫黄島の激戦のあとなんと4年も壕の中に生き残っていた方もいたそうです。

その兵士の方は壕の中にいる間、
戦争が今なお続いていると信じ、
米軍から投降の声掛けをずっと拒み続けていたそうです。

そんな中、米軍が壕の中に投げるお菓子や食べ物の中に雑誌があり、
その中で米国の女性と日本の男性が仲良くしている記事を目にして衝撃を受け、
戦争が終わったことを直感し、投降してきたそうです。

しかし、その方の一人は飛行機で羽田に戻り、
敗戦して経済復興した日本を目の当たりにしたそうです。

そして、この硫黄島の戦場の事を書に書こうと思い立ち、
4年間壕の中で書いてきた記録を取りに硫黄島に戻ったそうです。

しかし、戻った硫黄島の壕の中にはその記録が見当たらず、
その方はすり鉢山から身を投げて亡くなってしまったと。
兼ねてから、その記録で後世に戦場を伝える以外は生きる価値がないと周囲に漏らしていたそうです。

生き残って歓迎されるべき命のもった方の心に深く突き刺さる戦場の記憶。
あまりにも悲しい話に、これは伝えていかなければと思いました。
毎年のように新しい戦没者のご遺骨が見つかっています。
しかし、まだあと1万のご遺骨が硫黄島に眠っているそうです。

最後の一柱が収集されるまで、
硫黄島の戦後は終わりません。


■洋上慰霊祭を終えて、硫黄島を周回した後はデッキに出ている人全員で献花と黙祷を行いました。

一緒に乗船した小学二年生の次女にはどう映ったのでしょうか。

水を求めて飢えて亡くなった兵士たちに向けて、
水やビールを捧げる人もいました。

内地から花を持参し、船内で何度も水切りを繰り返して花を捧げた友人もいました。

この長い長い汽笛の瞬間、心を打つものがありました。
例え、上陸できなくとも、多くの事を学べたと思えます。



■村長は来年、
硫黄島訪島事業が実施された場合は、
今の中学二年生達も連れて行ってくれるつもりだと言っていました。

中3は島を離れる受験の大事な年です。
修学旅行で多くの日数を使い、
授業数的には厳しいかと思いますが、
学校の勉強以上に、
とても大事なことを学べる貴重な機会ですので、
ぜひ今年、硫黄島に行けなかった子供たちを
参加させてもらえたらなと思います。
(母島の保護者は全員、そう希望を出しています。)