埼玉を始めとする13道県の弁護士会が、司法試験合格者の抑制を求めていることが報じられた。
抑制要望の理由として、弁護士の過剰と訴訟の減少に伴う弁護士業務の需要減少と法曹の質を上げることを挙げているが、有体に言えば「これ以上弁護士が増えると共倒れになり、食うに困ることになる」という言い分であると思う。なにやら既視感(デジャブ)を感じる光景と思い返せば、加計学園の獣医学部新設問題の顛末に至った。加計学園問題は、獣医学部新設申請に対して文科省が加計理事長と安倍総理の盟友関係に忖度した結果との疑いから浮上したが、根底には「獣医師は足りている」とする日本獣医学界の主張を妄信した文科省が公務員の獣医師不足という現実に目を閉ざしていたことがある。門外漢の見方であろうが、これまでの行政が絡む多くの訴訟で行政の規制を厳しく衝いたのは原告側の弁護士であると思うが、こと自分自身の糧道確保のためには行政の規制を求めるのは如何なものであろうか。当該弁護士会の現在の要求は、司法試験合格者の抑制(合格点を上げる?)ということであるが、さらに進めば法学部や法科大学院の許認可まで影響力を行使する取り組みを始めるかもしれない。そうなれば、第2、第3の加計問題が起きることも懸念される。資本主義社会は自由競争が原則であり、弁護士として活動できる必要条件は弁護士の数ではなく弁護士としての活動実績であり、必要数は自然淘汰に俟つのが原則であると思う。仄聞するところでは、若手弁護士の困窮の原因は、弁護士の都市集中や高額な弁護士会費も影響しているとされる。また、年間に数万件寄せられる懲戒請求に対しても処分率は極めて少ないという閉鎖性、法曹関係者の論旨とは思えない日弁連の護憲活動等から、弁護士の社会的評価が著しく低下するとともに、国民の意識から乖離している現状の主因が弁護士の供給過多にあるかの如き主張は受け入れられないのではないだろうか。現在、連日に亘って紙面を賑わしているカルロス・ゴーン氏の背任事案に対しても、海外送金や日産資産の私的流用の陰には顧問弁護士の指導・容認・黙認があったのではとも邪推するものである。
古人は“渇するとも盗泉の水を飲まず”として、道に殉じることを説いている。立法・行政から独立して司法権を与えられているにも拘らず、行政にすり寄って糧を確保するとともに、法曹界に身を投じようとする青年の基本的人権を制限するかのような行政を求めることに、弁護士は論理的な矛盾を感じないのだろうか。