新元号を改元の1ヵ月前に公表するとした政府方針に対して、日本会議が遺憾の意を表明した。
遺憾とする点は、歴代天皇が即位後に改元されてきた「代始改元」の伝統に反することである。「代始改元」という言葉を始めて目にして、まだまだ知らないことが極めて多いことを改めて思い知らされた。閑話休題。確かに、新元号を即位前に公表することは開闢以来初めてのことであろうが、明治憲法で「一世一元」と定めたことも開闢以来初めてのことであったのではないだろうか。古来から暦と元号は大和の祭主である天皇が定めるものであったが、天皇を神格化した明治新政権ですら改元に伴う諸手続きと国民の混乱を局限するために、敢て天皇の改元権を制限(畏れ多いことながら剥奪)して「一世一代」の制度を定めたと理解している。中世では新元号が末端まで徹底されるには相当な期間が必要であったものと思われる。その証拠に、地方の知識人が残した古文書には、元号と暦年表記が誤って記載されているものが少なくないとされており、国民の諸届けや役所の書類は手書きであったことから改元に伴う混乱は軽視できる程であったと思う。明治以降になって書類は、必要事項のみ手書きする穴埋め式となったであろうものの、用紙は役所にしかなく役人の指導も比較的容易であったであろう。しかしながら現在では、様式をダウンロードすることが普及するとともに、諸手続きや決済も電脳の仮想空間で済ますことが定着している。それ故に、官民を問わず改元日の0000時には一斉に新元号に移行することが望ましいと考える。K2Ý(西暦2000年)時と同様に、電脳空間も準備・整理する必要性を考えるならば、新元号の事前公表も已むを得ないと考えるものである。遺憾の意を表明した日本会議の存在を知ったのは石原慎太郎氏の言動・動向に伴ってであったと記憶している。改めてHPを観ると錚々たる顔ぶれが役員名簿に名を連ねており、天皇制下における国造りと改憲(自主憲法制定)のためのシンクタンクを目指しているものかと推測するが、残念に思えることはHPが見難いことであり、我々民草には近寄り難いサロンの雰囲気に満ちている。まァ当然のことではあるが無料会員の制度がないため、年金暮らしには高い敷居を感じさせることも、草の根まで発展しない活動かと惜しむものである。
即位に伴う国事行為や皇室行事を全く無視して、1月1日に改元すべきとした赤松広隆衆院副議長のような暴論はともかくとして、民心と民生を考えれば新元号の事前公表は、時代に対応するためには辿るべき道であると思う。“古き皮袋に新しき酒"を詰めることは、伝統を守ること同じくらいに必要であると思うのだが。