もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

泉水博無期徒刑囚の獄中死に思う

2020年04月01日 | 社会・政治問題

 泉水博無期徒刑囚の獄中死が報じられた。

 泉水博氏については、ダッカ事件の超法規的措置で釈放されたこと以外よく知らないので調べてみた。ウィキペディアの記事によると、氏は高校2年で中退後の1960(昭和35)年に会社重役夫人を刺殺して1万5千円を奪った事件で無期懲役が確定し千葉刑務所で服役した。仮釈放が決定していたにもかかわらず、同じ刑務所の囚人が病気のときに看守を人質にとって医者に見せろと要求をした。この行動で「千葉刑務所に泉水あり」と評判をとり後の獄中者組合の結成につながった。1977(昭和52)年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では、強盗殺人犯で思想的背景や日本赤軍とは関係なかったが、獄中者組合の結成が反体制行動としてハイジャック犯側に評価され、超法規的措置によって釈放され日本赤軍に参加。釈放から9年後の1986(昭和61)年にフィリピンで旅券法違反で逮捕され、1995(平成7)年3月逃亡前の無期懲役に旅券法違反の懲役2年が加算され本年3月22日に岐阜刑務所内で心肺停止の状態で見つかり、病院に搬送されたが27日に死亡(83歳)したとされている。単純計算では83年の生涯の内42年を獄中で・18年を海外でそれぞれ過ごしており、日本社会では23年間生活したことになるが、高校中退までの16年間を差し引けば、実質7年間ほどの社会生活となる。懲役刑の効果は犯罪者の更生と再犯防止の教育であり、そのための職業訓練等の更生プログラムの充実等が叫ばれるが、収監後30年間仮釈放の道が閉ざされ、実質的には30年経過後も殆ど仮釈放されず獄中死が大半の無期懲役の現実では、更生や再犯防止教育よりも社会からの犯罪者隔離が主目的で、付随的に収監者に思索の時間を与えているだけではないだろうか。無期懲役は「長い期間をかける死刑」と云われるが、泉水博氏の来し方を眺めると実感できる表現である。十分すぎるほどの思索時間を与えられた臨終に際して、泉水博氏の胸中を去来したのは何だろうか?。犯罪の悔悟であろうか、仮釈放への希求であろうか、日本赤軍としての華々しい活動であろうか、いずれにしても自分がこの世に生まれて以後83年間生存した証を求めたことだろうと推測する。自分を振り返ってみると、社会に貢献できた実感もなく、凡庸のまま極めて平凡(それ以下?)に生きた人生では臨終に際しても何らの感慨もなく凡庸に意識を失うのだろう。そう考えると、ある意味でドラスティックな人生を生きた泉水博氏の終焉は自分よりは幸せであったのかも知れないとの感慨に包まれる。

 相模原45人殺傷事件の犯人は弁護人の控訴を取り下げて死刑が確定した。寝屋川中1男女殺害事件の1審で死刑判決を受けた犯人は控訴取り下げの書面を提出した。これまでは、死刑判決を受けた場合にも最高裁まで争い、かつ死刑確定後も再審請求を繰り返して執行引き延ばしを図るのが一般的であったが、若年者に於いては犯罪者であるか否かを問わず、死生観が変化しているのではないだろうかと推測する。論語は「人の将に死なんとする其の言や善し」と説くが、若くして刑死する人の言を聞きたいものである。死に臨んでも自分は「善き言」を口にすることは出来ないだろうと諦めているが。