中国ウィルス禍に対して7都府県の緊急事態措置が発動された。
しかしながら、措置の大部分は私権行使の自粛要請であり強制を伴うものは無いに等しいために実効性には疑問符が付けられている。強制できないのは、日本憲法が法律に違反した者(犯罪者)以外の私権(身体の自由・精神の自由・経済活動の自由)は如何なる場合であっても制限できないと規定していることに起因しているためであるが、他国では国難に際しては国家権力が一時的に私権を制限できる「緊急事態条項」を憲法に規定している。安倍総理は7日の衆院議院運営委員会で、憲法を改正して緊急事態条項を創設する必要性を説いたが、前向きな日本維新の会を除いて共産党の小池書記局長は「究極の火事場泥棒」、立民の蓮舫副代表は「黙れと云いたくなった」と全否定の姿勢であることから、自民党の中には「国会が(コロナ対策に対して)機能不全に陥っているのに議論すらできないのでは、主要野党以外で憲法審査会を動かすべき」と主張する向きもある。これまで「何か起こらなければ法律ができない」といわれ、現実にストーカー殺人が数件起きて初めて規制法が立法されるというような後追い立法状況であったが、今回の中国コロナ禍に対して憲法が機能しないことが明らかになっても、改憲議論にすら応じない野党の頑なな護憲思考はどこからきているのだろうか。一般的に、現体制の改革・刷新を求める側を革新(リベラル)と呼び、現体制を死守しようとする側を保守と呼ぶので、日本の状況は自公の革新政権と保守原理主義の野党との対決と観るべきであると考える。憲法に緊急条項を創設する主張に対して野党はおそらく飛躍して「戦争をし易くする改正」と反論するだろうが、立憲民主党は国民が何人死ねば憲法改正が必要と翻意するのだろうか。逆に言えばイタリアのように2万人が死んでも、機能不全の憲法は墨守すべきとしているのだろうか。
18世紀にルソーが社会契約説で個人と国家の関係を考察し以後の政治形態の基本となったが、今の護憲派の主張はルソー以後に世界が努力して構築したどの政治形態にも属さないもので、アナキスト(無政府主義者)と呼ぶのが最もふさわしく思える。飛躍した条件を積み重ねることで結論を出すことを「風が吹けば桶屋が儲かる」論というが、緊急条項=戦争という結論は勘弁して欲しいと思うものである。