もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

評論家を学ぶ

2020年04月03日 | 野党

 お笑い以外のテレビ番組出演者の多くが「〇〇評論家」の肩書で紹介されることが多い。

 出演者の多くが何らかの肩書を持っているが、肩書の説明に多くの手間が必要であるとともに、発言に重みをもたせるために手っ取り早く評論家と紹介されるのであろう。トイレ評論家やラーメン評論家などは罪がないと笑って過ごせるが、政治評論家や教育評論家と銘打たれると思わず襟を正して聞こうと思わざるを得ない。しかしながら、彼等の主張・発言の多くが現状を無視した実現不能の理想論であったり、問題解決の方法や道筋を示すものでは無いように思われる。政治評論家として現在のメディアに名を馳せているのは、田崎史郎・伊藤惇夫氏で、過去には細川隆元・隆一郎氏、戸川猪佐武氏、三宅久之氏、田原総一朗氏等の名が思い出されるが、彼等の主張の大半は「全ての政策や政治家の行動を政権維持や次の選挙と結び付けて判断・解説する」政局・政争評論であるように感じられる。歴史は繰り返されると云われているように、政治形態の如何を問わず人類社会は同じ失敗を何度も繰り返してきた。科学技術がいかに進歩しても、情報の伝播速度がいかに早まろうとも、根本的には人間の欲求は大きく変化していないのではないだろうか。価値観の変化や世代の分裂が囁かれる現状も、それまで検閲や世間体を憚って隠さざるを得なかった自己主張や行動が、SNSの普及と世間監視の重しが取れたために手軽に、かつ自由にできるようになったためであるように思える。こう考えれば政治には普遍的は手法があると観るべきで、歴史上の成功・失敗例を下敷きにした政治評論があっても良いのではと思うものである。選挙に勝たなければ何もできないという民主主義の原則から、政局・政争は大きな要素ではあるだろうが、政権の命脈や次の選挙の勝敗以上に語るべきことは多くあるのではと思う。教育評論家として活躍中の尾木直樹氏については、教員としての経験から教育行政を語ることが多いが、現在の教育の混乱は「教育は人格の矯正と知識の伝授」であるという本質を忘れていることに起因していると観るべきで、尾木署の主張には本質を忘れた教員も責任の一端を担うべきと考える国民感情から乖離しているように感じられる。

 過去には「1億総評論家時代」とも表現されていたが、誰でも手軽に自分の意見を言える現在は、より全国民評論家時代に近づいたと思う。ボケ防止と称してブログを開設し、駄文と勝手な主張を繰り広げる自分も、その一味と受け取られているのだろう。今回の記述に際しては、記述した各氏の略歴等を調べたが、思いがけない経歴等が発見されるとともに「氏の主張にはこんな経歴が投影されているのか」、と推測できるものも多かったことが収穫だろうと納得している。