先に民度について書いたが、日本と日本人の民度について考えた。
中国ウィルス禍に際して、多くの事象が報じられている。曰く、「パチンコ店の一部が休業要請に応じない」、「開業しているパチンコ店には従前以上の客がある」、「医療従事者への誹謗・嫌がらせが多発」、「岡山県が県境の山陽自動車道下り線のパーキングエリアで実施予定だった任意の検温が脅迫で中止」、「公園でラジオ体操する老人集団」等々、枚挙にいとまがない。平時であれば、ギャンブル依存症などで近親者には負担であっても社会に対しては平均的な民衆が、特定の事象に対して私欲・我意をむき出しに共有した場合には、如何に社会不安を増大させるのかが示されたものと思う。民度とは『特定の地域・国に住む人々の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指す』とされるが、定量的に測られたものでは無く、相手を揶揄(時に罵倒)したり自讃する場合に使用されていた。本ブログでも、強硬・執拗な対日批判を繰り返す韓国や、知的財産の譲渡を強要したり海賊使用する中国に対して使用していたが、ここに来て『日本の民度も思った程ではないのでは?』と感じている。特に、岡山県境での来県者の任意検温に対して「職員に危害を加える」という脅迫や批判については、その意図が全く想像・理解できない。県の計画した任意検温で、誰が「人に危害を加える」ほどの不利益を被るのだろうか。脅迫の主は入境を計画している県外者だろうか、はたまた検温を恐れて来県者の減少を危惧する県人であろうか、まさか「何でも反対する立憲民主党を真似た愉快犯」ではないだろうが。
文芸評論家というより文明批評家の感がある小林秀雄(1902(明治35)-1983(昭和58)年)氏は、『僕らが生きてゆくための知恵というものは、どれだけ進歩してますか。例えば論語以上の知恵が現代人にありますか』、『青年(青年以外にも当てはまると思うが)にとってはあらゆる思想が、単に己の行動の口実にすぎぬ』、『実生活を離れて思想はない。しかし、実生活に犠牲を要求しないような思想は動物の頭に宿っているだけである』との言葉を残している。東洋的であるかもしれないが、この言葉こそ民度の深淵を解き明かし、民度の度量衡として相応しいのではないだろうか。高い知的水準にある人の目を疑うような言動、平均的な市民が我意を剥き出しにする言動、突然の中国ウィルス禍にあって露わになった一部日本人の本性を見る限り、”論語詠みの論語知らずが多数棲息しているよう感じる出来事である。また、小林氏は『自然を征服するとは、自然に上手に負けること』との含蓄も述べている。