夕べ、8時ごろ甥から電話。1時間ほど前に姉が亡くなったという。冷蔵庫の前で倒れていたので救急車で近くの病院へ。死亡が確認されたという。夕食前に姉にメールをしたばかりでした。返事をしていなかったらきっと後悔にさいなまれたでしょうが・・・。
悲しくないわけではないが、良かった、家族に最低限の迷惑しかかけていないので良かったという思いがが先に立ちます。 両親,亡くなった兄姉弟も寝込むことはありませんでした。母は夕食前に疲れたというので、父が夕食まで休みなさいといったら、’本当に長いことお世話になりました。’とあいさつし、2時間後に眠ったまま逝ってしまいました。そして姉もまた突然に!
父が亡くなった時、弟は自分の番が近づいた気がすると言っていましたが、今、私がそんな気分です。
姉は昭和3年(1928年)10月生まれですから91歳と6カ月。青春を戦争の中で送った彼女の心はいつも屈折していました。それは青春時代を戦争の中で過ごさなければならなかった人たちに共通していると思えます。
姉は17歳になったばかりの女学校3年生の10月突然卒業を命じられ、挺身隊員となって工場で働くか、看護婦になるか決めなければなりませんでした。母は病院の方がお医者さんもいるし病院が良いのではと姉に勧めました。姉は母の言うように病院を選んだのですが、地獄のような世界だったと言います。陸軍病院の患者はすべて男性です。そして彼等が全員道徳的であるということは無かったでしょう。そこに若い少数の女性がいるという生活は女性たちにとって恐怖に満ちたものだったでしょう。姉は17歳、婦長でさえ23歳だったそうです。姉は私のことをなぜが婦長は働いている時も寝る時もそばに置き守ってくれたと言っていました。その婦長さんは数年前亡くなったそうですが、亡くなる前に’どうしてあんなに守ってもらえたのか’と尋ねたら、’弱々しいのに人が見ていても見ていなくともきちんと仕事をする,決して手を抜かないのを見ていると守ってやりたくなったんだ’と答えたそうです。
いつだったか、私が、’看護婦には傷痍軍人と結婚している人が多いよね。兵隊の中には良い人が沢山いたんじゃないの?’と言った時姉は困ったような顔をして答えました。’みんな飢えていたのよ。兵隊たちにはきちんと3食でたし、おやつもあった。でも看護婦の食事は塩気さえなかった!’と答えました。1920年代に生まれた女性たちは大変厳しくつらい青春時代すごしたのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/d3/04b1bed2bbbd4a4bf9688f43419a4a2b.jpg)
写真は1945年の2月か3月ということでした。それまでは制服が無かったそうです。制服ができた記念に弘前市にあった陸軍病院の庭で撮ってもらったものだそうです。私が10年余り前に県の国際平和展示室でボランティアをしていた時に、戦争中の人々の暮らしを話すために姉から借りコピーました。大勢の看護婦が写った写真もありましたが、私はこちらを選びました。左から二人目が17歳の姉です。看護婦と言っても何の訓練も受けず即実践。軍医に対して質問は許されず、指示に従うことを厳命されていたそうです。また、敗戦後突然軍医がいなくなり、教育も受けてない看護婦たちだけで治療に当たった時期もあったということでした。
悲しくないわけではないが、良かった、家族に最低限の迷惑しかかけていないので良かったという思いがが先に立ちます。 両親,亡くなった兄姉弟も寝込むことはありませんでした。母は夕食前に疲れたというので、父が夕食まで休みなさいといったら、’本当に長いことお世話になりました。’とあいさつし、2時間後に眠ったまま逝ってしまいました。そして姉もまた突然に!
父が亡くなった時、弟は自分の番が近づいた気がすると言っていましたが、今、私がそんな気分です。
姉は昭和3年(1928年)10月生まれですから91歳と6カ月。青春を戦争の中で送った彼女の心はいつも屈折していました。それは青春時代を戦争の中で過ごさなければならなかった人たちに共通していると思えます。
姉は17歳になったばかりの女学校3年生の10月突然卒業を命じられ、挺身隊員となって工場で働くか、看護婦になるか決めなければなりませんでした。母は病院の方がお医者さんもいるし病院が良いのではと姉に勧めました。姉は母の言うように病院を選んだのですが、地獄のような世界だったと言います。陸軍病院の患者はすべて男性です。そして彼等が全員道徳的であるということは無かったでしょう。そこに若い少数の女性がいるという生活は女性たちにとって恐怖に満ちたものだったでしょう。姉は17歳、婦長でさえ23歳だったそうです。姉は私のことをなぜが婦長は働いている時も寝る時もそばに置き守ってくれたと言っていました。その婦長さんは数年前亡くなったそうですが、亡くなる前に’どうしてあんなに守ってもらえたのか’と尋ねたら、’弱々しいのに人が見ていても見ていなくともきちんと仕事をする,決して手を抜かないのを見ていると守ってやりたくなったんだ’と答えたそうです。
いつだったか、私が、’看護婦には傷痍軍人と結婚している人が多いよね。兵隊の中には良い人が沢山いたんじゃないの?’と言った時姉は困ったような顔をして答えました。’みんな飢えていたのよ。兵隊たちにはきちんと3食でたし、おやつもあった。でも看護婦の食事は塩気さえなかった!’と答えました。1920年代に生まれた女性たちは大変厳しくつらい青春時代すごしたのです。
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写真は1945年の2月か3月ということでした。それまでは制服が無かったそうです。制服ができた記念に弘前市にあった陸軍病院の庭で撮ってもらったものだそうです。私が10年余り前に県の国際平和展示室でボランティアをしていた時に、戦争中の人々の暮らしを話すために姉から借りコピーました。大勢の看護婦が写った写真もありましたが、私はこちらを選びました。左から二人目が17歳の姉です。看護婦と言っても何の訓練も受けず即実践。軍医に対して質問は許されず、指示に従うことを厳命されていたそうです。また、敗戦後突然軍医がいなくなり、教育も受けてない看護婦たちだけで治療に当たった時期もあったということでした。